2026年1月18日礼拝 説教要旨
乗り越えて(マルコ1:14~20)
松田聖一牧師
阪神大震災の後のことです。当時は、地震で阪神間の鉄道が壊れ、鉄橋や線路があちこち落ちていました。ですから、一部を除いて全く動いていませんでした。それで、電車で通勤や、通学される方々は、国道2号線や山手幹線などを使って、電車が動いている駅までひたすら歩いていました。すごい人だかりでした。そこを一緒に歩いていた、ある夜のことです。ワゴンタイプの軽自動車が道路わきに止まっていて、その車の荷台部分でたこ焼きを焼いて、商売しておられる方がいました。近づいて見ると、車には、こんな張り紙がありました。「僕の家は地震で全壊しました。お店も潰れました。でも今たこ焼きを焼いて、何とか生計を立てています。どうぞ助けて下さい~前を向いて、これから一生懸命に生きていきたいと思います・・・」というような内容でした。その方だけでなく、家がつぶれたり、焼かれたりした方々が、山ほどいらっしゃいましたが、それぞれに「とにかく前に向かっていくしかない!振り返ってもどうにもならないから、今目の前のことを一生懸命するしかない!」ということを、異口同音におっしゃっていました。過去を振り返っても、もうその過去には戻れません。ではそのまま何もしないで、生きていられるかというと、毎日生きていかなければなりませんから、前に向かって、目の前のことを、やらなければなりません。もうやるしかない!という毎日であったことを思います。
私たちにとっても、そういうことがありますね。だから今、どんなに辛くても、悲しくても、目の前のしなければならないことをしながら、前に向かって、いろいろな思いをかき分けてでも、何とかして進もうとしていくことがあるのではないでしょうか?
それはイエスさまにとっても、同じです。というのは、この時、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ヨハネから洗礼を受けたヨルダン川、ユダヤの荒れ野から、ガリラヤへ行くということに、見えて来るからです。このガリラヤ行きは、イエスさまが行きたかったから、というよりも、神さまのご計画にイエスさまが従っていくと言う意味で、ガリラヤに行くんです。そしてイエスさまは、神さまの働きを始めて行かれるんですが、同時に、イエスさまにとっては、ヨハネが捕らえられ、命の危険にさらされ、いつ殺されてもおかしくない状態ということを、何も感じないままに、ガリラヤに行くということではなくて、お腹の中にいる時から、一緒であったイエスさまにとって、身を切られるような、辛くて、悲しくて、寂しい思いを抱えながら、ヨハネのことを心配しない日はない中で、それでもガリラヤに行くんです。
それは、ヨハネを助けようという方向ではありません。でもそれはヨハネを見捨てたとか、もうヨハネのことを知らないということではなくて、ヨハネのことがどんなに心配であっても、イエスさまは悲しみに暮れ続けるのではなくて、その別れと悲しみを振り切ってでも、神さまのご計画に向かって、ガリラヤへ行くという新しい方向に動き出していくということなんです。それはヨハネが捕らえられたと言う悲しい出来事の中で、何とかして、ヨハネとの別れを、乗り越えようとしている姿でもあるのではないでしょうか?言い換えれば、イエスさまにとって、ガリラヤへ行くという、新しい方向に向かって動き出さなければ、ヨハネを失った、その悲しみを乗り越えようとすることができなかったのではないかと思います。
私たちにとっても、別れと悲しみに暮れる時、その気持ちだけになってしまうと、その気持ちに自分がとらわれてしまい、動けなくなることもあるでしょう。ではそのままでいいのか?と言えば、そのままでいいはずはありません。失った悲しみ、別れの中に、い続けてしまったら、何も動いて行きません。だからこそ、神さまは、私たちにも、ガリラヤという新しい方向に向かって進めるように、イエスさまを送ってくださり、イエスさまが私たちに先立って、別れと悲しみを引きずりながらも、それでも前に向かって行けるように、その道を切り開いてくださるんです。そして私たちが、別れと悲しみとを行きつ戻りつしてしまうことがあってもなお、イエスさまは、その悲しみや別れに、寄り添いながら、私たちが、何とかして新しい方向に向かって動き出せるように助けてくださるんです。そのことが「ガリラヤに行って」にも現れているのではないでしょうか?
そしてイエスさまは、「神の福音を宣べ伝えて」という、神さまから与えられ、託された新しい働きを始めていかれますが、イエスさまが宣べ伝えた神の福音とは、神さまの良きおとずれ、喜びそのものです。その通りにイエスさまは、喜びを人々に宣べ伝えていきました。しかしその喜びを宣べ伝えつつも、イエスさまは、ヨハネが捕らえられたということで、喜べない中にあったのではないでしょうか?でも、イエスさまは喜びを伝えていくんです。そしてその喜びを語りながら、神さまの福音が、イエスさま自身にも語られ、その喜びが、喜べない中にいたイエスさまにも与えられていったのではないでしょうか?
ドリフターズというグループがありました。今は、お二人だけになってしまいましたが、毎週土曜日の夜8時から、8時だよ、全員集合という番組が長く続いていましたが、その番組は、最初から最後まで笑いの連続といったものでした。その中で、ある時早口言葉という場面がありまして、いろいろな早口言葉が紹介されて、そこに出演された方々が、どれだけちゃんと言えるか?ということで、やってみられるんです。例えば、「生麦生米生卵」「隣の客はよく柿食う客だ」とか、色々出てきます。いかがでしょうか?生麦生米生卵、皆さんはどれだけ早く言えるでしょうか?なかなかうまく言えずに、言葉が詰まったり、ひっくり返ったりすることもあると思います。でもそうなりながらも、お互いに笑い合い、ああ面白かった!になるんじゃないでしょうか?そうなると、気持ちが軽くなると言いますか、現実は笑えないことばかりであっても、何となく、余裕が生まれて来るものだと思います。笑う門には福来るという言葉通り、笑うと、いろいろなことが、動いて行くような気持ちにもなります。
イエスさまも笑うこと、喜ぶことを、凄く大切にされました。だから喜べる言葉、笑える言葉を、与えて下さるんです。そしてそれもまた人を動かし、上を向いて歩き始めていける助けとなっていくんです。
そして神の福音が、喜びであるということ、神さまがどんなに大切にしてくださっているか!神さまがどんな時にも守って下さっている!そのことを、人々に語る時、人々も、その福音を受け取れるようになっていくんです。同時に、イエスさまも、神さまから喜びを語りながら、喜びを頂いて、イエスさまを通して語られた神の福音を聞いた人々と一緒に、喜べるようになっていくんです。そして置かれた今を、何とかして乗り越えようと言う思いに変えられ、動き始めていくのではないでしょうか?神さまは、その勇気を、与えてくださいます。不安だし、悲しいけれど、それでも一方踏み出せるようにしてくださるんです。
そういう意味で、イエスさまが語られる、悔い改めというのは、もちろん神さまに向かって、向きを変えると言うことであると同時に、辛かったこと、大変だったことから、向きを変えて、新しい生き方、新しいことへと進もうとすることによって、向きを変えることができ、向きが変わっていくということにも繋がるのではないでしょうか?そのプロセスの中で、初めに福音が語られ、その福音、喜びに出会い、神さまからの喜びの知らせとは、こういうことだったんだ!と気づける時をも与えて下さるんです。
それは乗り越えることによって、それまで見えていた景色とは違った景色が与えられ、見えて来るということではないでしょうか?だからイエスさまが、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった」網を打っているのを、イエスさまは、見つめておられた、じっと見ると言うことも、また「少し進んで」「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしている」のを、ご覧になること、じっと見つめることも、イエスさまが、ヨハネのことで、乗り越えようとする中で、見えて来る景色ではないでしょうか?
それはすぐに何もかも見えて来る景色ではなくて、「少し」ずつなんです。一度に何もかも全部ということとは限りません。そういう意味で、目の前のことに向かって、とにかく前に向かって行こうと、乗り越えていくプロセスは、すべての結果、結論が、最初から分かるということにはならないんです。それでも、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを見たイエスさまは、彼らを弟子として招きながら、神さまの働きのために、イエスさまと一緒に働くという働きへと、向きを変えていかれるんです。そのために、彼らもまた、漁師という仕事や、網を繕うと言う仕事、父親ゼベダイと一緒に仕事をするということから、離れると言う大変なことも、乗り越えられるように、イエスさまは、共に寄り添いながら、一緒に乗り越えようとしてくださり、神さまの喜び、福音を宣べ伝えるという働きへと召していかれるんです。
その働きも、最初から何もかも分かるかというと、そうではありません。その働きも、いろいろなことを乗り越えながら、その度毎に、新しい景色を見ながらの働きとなっていくのではないでしょうか?しかしそのことを、ただ何気なく見るのではなくて、じっと見つめていくことで、だんだんと分かってくると思います。最初は気づかなかったことも、じっと見つめることによって、何かがあると言うことを、イエスさまは、彼らに見、彼らもまた、新しいことを見ることができるようになっていくのではないでしょうか?そのことに気付けた時、感動や勇気も与えられていくのではないでしょうか?
小平奈緒さんが、2022年北京オリンピックを前にしての思いを、1つの本の中にある言葉を紹介しながら、こう書き綴っておられました。
4年前の今日、私は絶望の中にいました。右足が宙ぶらりん。足首のネジがすっぽり抜けてしまったような感覚。靭帯2本が切れて、まず陸で思うように歩けない。カラダを巡る感覚は「右足がついてない…」ようやくジョギングができるようになったのが北京五輪の本番1週間前でした。弱さをいっぱい抱えて、臨んだレースは散々でした。もし、2022の私に私が出来ることがあったらこの本を贈ると思います。“じぶんではどうにもならないと感じたときは…目の前にある大切なものをじっとみつめる”
目の前にある大切なものをじっと見つめること、ボウっと見るのではなくて、じっと見つめることです。それによって、分からなかったことが、分からないままではなくて、何かがあると分かるようになっていきます。
高遠町歴史博物館に何度か伺う機会がありました。その博物館のすぐ近くでずっと工事をやっています。その工事には、大変大きなクレーンが使われていまして、お聞きすると、日本でも指折りの大きさのクレーンだということでした。そのクレーンが、作業をしながら、動いていくのが見えましたので、上を見ていましたら、博物館の職員の方が、「私は工事現場関係者ではないのですが、よく博物館に来られる方々から、このクレーンについて色々聞かれるんです。それで関係者じゃないけれども、クレーンの説明もしています~」とおっしゃりながら、「実はね、このクレーンをよく見ると、クレーンの上の方に、何かがしがみついているのが見えるでしょう?あれ、何だと思いますか?」じっと見ますと、何かがしがみついているんです。何だろう?と思っていましたら、「しがみついているものは、スパイダーマンなんですよ~」なるほど、その通り、スパイダーマンの人形が、クレーンにしがみついていました。その時、ホントだ!と、分かった次第です。でも最初から、クレーンの先にスパイダーマンがくっついているなんて、想像できません。でもよく見ると、確かにそこには、どれくらいの大きさか分かりませんが、ちゃんとスパイダーマンがいるんです。
イエスさまが、網を打っていたシモンとアンデレ、網の手入れをしているヤコブとヨハネをじっと見た時、この4人を弟子として召していかれたことによって、イエスさまに託された神さまの働き、神の福音を宣べ伝えるということを、この4人と一緒になってできるという、道が開かれていきました。それはまたイエスさまにとって、ヨハネを失うという出来事に変えて、洗礼者ヨハネではなく、ヤコブの兄弟ヨハネが加えられただけではなく、イエスさまと洗礼者ヨハネという2人から、イエスさまプラス4人になっていくことが、神さまから与えられた喜びとなっていくんです。
何かを乗り越えようとする時、そこには辛いことがあると思います。時には、乗り越えようとしながらも、目の前に在るハードルがあまりにも高く見えてしまうこと、もう乗り越えられないと諦めかけてしまうこともあるでしょう。しかし、イエスさまが先だって、乗り越えて下さった時、そのハードルは、越えなければならないハードルではなくて、乗り越えようとして、向かって行った時には、そのハードルが、もうすでに、倒れていたという新しい景色が与えられていきます。それは、乗り越えて下さった、イエスさまに従うことを通して、見えて来る新しい景色です。
祈りましょう。
