2026年1月11日礼拝 説教要旨

洗礼によって(マルコ1:9~11)

松田聖一牧師

 

神さまは目には見えません。実際に触ったりすることも、顔を見たりすることもできません。でも神さまは、いつも共にいてくださり、どんな時にも、守り支え続けてくださり、迷った時には、行くべき道を、こっちだ!と指し示してくださいます。ただし目には見えないということは、この目で確かめることができないことでもありますから、本当に神さまがいらっしゃるのかが、分からなくなってしまうこともあると思いますし、本当におられるのか?と、疑問に思うこともあるでしょう。また神さまがどこにでもおられると言う意味が、分からない、ということにも繋がると思います。

 

ある一人のおばあさんに、聖書のこと、神さまのことをお話する機会がありました。そして神さまにはね、いつでも、どこにいても、お祈りできますよ~とお伝えしましたら、そのおばあさんからこんな質問が返ってきました。「どっちむいてお祈りしたらええの?」そのおばあさんにとって、神さまは、何かのご神体が目の前にあって、その方向に向かって祈るというイメージがあったのでしょう。だから、どこにでもいらっしゃるということが、ピンと来なかったのかもしれません。それで「どっち向いてお祈りしたらええの?」と質問されたのだと思います。同じようなことは、教会にある十字架を、ご神体だと思っておられる方がいらっしゃって、こうおっしゃいました。「十字架に足を向けていいんですか?十字架にお尻向けていいんですか?」ご神体だと思っておられる方にとっては、足やお尻を向けるということは、失礼に当たるという意識もあったのではないかと思いますし、その問いもまた、神さまが、ある一定の場所におられて、そちらを向くことが必要だ、というものからの問いだと思います。そういう意味で、神さまが目に見えず、触ったこともない、しかもどこにでもおられるということについて、イメージがなかなか・・・ということも、その通りです。

 

そういう私たちの側のいろいろがあるからこそ、神さまは目には見えないけれども、私たちに、神さまがいつも共にいてくださること、神さまがどこにいても、どんな時にも、守り支え、導いてくださるということを、何とかして伝えようとしているんです。そのために目に見える方法、恵みの手段と呼ばれる聖書と、洗礼、聖餐という聖礼典を通して、神さまからの赦しと恵みを、私たちに示し、与え、保証してくださるんです。

 

その恵みの手段の1つである洗礼について「洗礼は、何を与えどんな役に立ちますか」という問いの答えに、こう語られています。「それは神の御言葉と約束とが宣べているように、罪の赦しをもたらし、死と悪魔から救い出し、信ずるすべてのものに、永遠の祝福を与えます。」つまり神さまは、神さまの言葉である聖書に約束されている、罪の赦しに始まる永遠の神さまの祝福を、目に見える洗礼という手段を通して、私たちに与えて下さるということなんです。そういう意味では、目に見える恵みの手段が、どういうものなのか?どういう意味なのか?何のために、誰のために与えられたものか?から、私のためだったということにも、心を向けることは必要です。でないと、その意味を知らないままに、洗礼を受け取っていたら、こんなに素晴らしいものなのに…ということが分からないままになってしまいますし、それは神さまのお恵みがこんなにあることを知らないままになっていますから、もったいないです。だからこそ、洗礼とは何ですか?何を与え、どんな役に立ちますか?という問いの答えを、知ろうとすることによって、自分が受けた洗礼の意味も、これから洗礼を受けられる方にとっても、凄く大切になってきます。

 

その洗礼を、イエスさまがヨルダン川で洗礼者ヨハネから受けた時、イエスさまは「水の中から上がる」とあります。これは洗礼を受けたイエスさまが、洗礼を受けるためにいたヨルダン川の水の中から上がるということですが、そういう意味以外にも、この「上がる」には、昇るとか、車や、舟に乗ると言う意味も、あります。そして、それぞれの意味がどういう場面で聖書にあるかというと、昇るであれば、イエスさまを捜し求めて、東の国からやって来た学者たちの前に、星が昇った時に、使われている「昇る」がそうです。その星が昇ったので、学者たちが、その星に導かれて、イエスさまに出会うことができました。舟に乗るであれば、イエスさまが、ガリラヤ湖で、その舟に乗った時もそうです。ただこの時、もうすでにその舟は、漁を終えた後でした。弟子たちも網を片付けていた時でした。それなのに、イエスさまは、弟子たちにもう一度「向こう岸へ渡ろう」、一緒に向こう岸へ行こうじゃないか!と弟子たちに呼びかけて、もう一度、舟に乗って導かれるんですが、その姿は、漁が終わったということにも、弟子たちの片付けにも、イエスさまが割って入ることによって、物事が、新しく前に向かって進んでいくんです。

 

そういったことが、上がるという言葉の中にあります。ということは、イエスさまが洗礼を受けられた後、水から上がると言う意味は、洗礼を受けて、やれやれで水の中から上がったということではなくて、洗礼を受け水から上がられたことによって、イエスさまが本当に救い主であり、その救い主に導く星としての目印となり、その星に導かれて、イエスさまに出会うことができるということ、そしてそのイエスさまが、弟子たちを始めとする人々を、向こう岸へ渡ろう!一緒に行こうじゃないか!と、新たな方向へと導くことに繋がる、そのスタートが、洗礼を受けて、水から「上がる」に、示されているのではないでしょうか?

 

そういう意味で、イエスさまが受けられた洗礼は、その洗礼で終わりではないんです。洗礼で卒業でもありません。洗礼は、始まりであり、スタートです。そのためにイエスさまは、本当に受ける必要がないのに、自分から洗礼を授けてほしいと願われて洗礼を受け、洗礼とはこういうものだと、見せて下さっているのではないでしょうか?

 

それは「天が裂けて」ということもそうです。この「天が裂けて」ということが、具体的にどういう光景であったのかは、分かりません。ただ「裂けて」というこの言葉には、真っ二つに割るとか、裂くとか、裂け目を作るとか、そして衣服などを裂いて切り取るとか、人々の国を2つの派、グループに裂くという、今で言う分断を生むといった意味があります。

 

その意味から、いろいろなことが言えます。1つ目は、真っ二つに裂くということは、人と人との関係においてであれば、あっちとこっち、敵と味方と言った具合に、別れてしまい、それまで一緒にいろいろできたことも、ああでもない、こうでもないと会話もし合えた、その人との関係が切れてしまいますね。そういうことが徐々に起こる場合もありますし、突如として、そうなってしまうこともあります。

 

ある方が、遺産相続のことで、遺言を書かれました。それも司法書士に頼んできちんとしたものを書いていただいて、これで行こうとしたのですが、その方が亡くなられた後、引き継がれたご家族に対して、遺産を巡って、親戚から、本当にいろいろなことが起こりました。それで最終的にはどうなったかというと、遺言通りにはならずに、その親戚の方々の思いのままになっていました。引き継がれたご家族も、親族同士の争いをしたくないということで、折れる形になったわけですが、最終的には、財産だけ分けてもらえたら、もうそれで終わりということでした。金の切れ目が縁の切れ目と言われる通りだったのでしょうか?こういう出来事は、もちろん嫌なことですけれども、そういうことも、実際にはあります。あれほど一緒だったのに、それっきりになってしまう、引き裂かれる関係には、人間の欲の深さが現れているということなのでしょう。

 

そう言う分断、関係が裂けてしまうこと、は財産を巡って以外にもいろいろあります。それは悲しく、辛いことです。仲が良かった者同士が、敵同士に変わってしまい、一切交流がなくなってしまいます。そうなる前にも、お互いに傷つけあっていきます。このことが、私たち自身の上に起きたらどうでしょうか?昨日まで話ができた相手が、今日からは見向きもしないという関係に変わってしまったら、どうでしょうか?何にも感じないわけにはいかないですし、どうやって関係修復できるのかを、思わずにはおれませんし、どうにもならないということもあるでしょう。

 

では、そういう真っ二つに裂けることによって、何も残らないのかというと、真っ二つに裂けたところに、新しいものが生まれるということでもあるんです。例えば、木が真っ二つに裂けた時と、その後を見ると、裂けたことによって、木は地面に倒れます。その木は、もうこれ以上成長できなくなりますし、時がたてば経つほど、腐っていきます。ところが、その倒れた木、腐った木に、周りの木々の種が落ちて、その木を土台にして、新しい木が芽生えるということもあるのではないでしょうか?そして倒れた木に落ちた種も、裂けて、種を覆っているからを突き破って、芽が出ます。ということは、裂けることは、確かに大変なことですし、思いがけないこともありますが、たとい裂けて、どうすることもできなくても、そこから、新しい命、新しいことが生まれていくという良いもの、に変えられていくのではないでしょうか?

 

そのことをして下さった神さまに、心を開くことができるように、神さまの赦し、神さまの言葉が、その心が真っ二つに裂けてしまうようなことであっても、その開かれた心に入って来るように、心に沁みてくるように、神さまは、イエスさまの洗礼を通して、私たちの心を開いて下さるんです。

 

その時に入って来る言葉が、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉を、私たちにおいてもいろいろある、その関係の中で、裂けた裂け目を通して、神さまは与え、届けて下さるんです。その時のキーワードが子どもです。子どもによって、子どもを通して、愛するとか、ゆるすということが、どういうものかを、神さまは与えて下さるんです。

 

「本当に大事なもの」というタイトルで、こう紹介されています。

 

ある若い夫婦に子どもが生まれました。その子は、重い障がいを負っていました。生まれたばかりで、小さくて、自分のことも何もできない、重い障がいを負った赤ちゃんが、この夫婦と二人のそれぞれの親たちを救ったのでした。

実は、この夫婦は親の反対を押し切って結婚したのです。そのため、両方の親たちは相手が自分の子をだまして結婚し、自分の子がとられたと思いました。花嫁の家では、「お前の教育が悪いから、娘があんな男に騙されたんだ」と、父親が母親をしかりつけていました。そして、花婿の家でも、「お前の教育が悪いから、あんな女に騙されて」と同じことを言って、夫婦喧嘩の原因になっていました。中年夫婦の間をやるせない悲しみと憎しみが支配し、離婚に発展しそうな雲行きにまでなりました。もちろん、親子の行き来はなくなりましたし、両家には親戚づきあいなどできようもなく、孤立と対立の関係だけが残っていました。そんなある日、両方の親たちのところに知らせが入りました。二人の間に子どもが生まれたというのです。

その子は、重い障がいを持っているということでした。心配した親たちは、若い夫婦の家に訪ねてきました。そして、障がいを負った小さな赤ちゃんを中心にして、皆が集まるようになったのです。この子のことで、会話が戻りました。さらに協力して何かしなければならないという空気になりました。

気が付いたら、両家の親たちは昔から特別に親しい親戚であったかのような、仲良しになっていました。それぞれの夫婦の会話も戻り、赤ちゃんを守り助け合って生きることが、それぞれの生きがいになっていました。

中年夫婦の危機も去り、学歴だの、家柄だのと言って反対していた親たちが、本当に大事なものは何かということに気付かされたのです。

 

私たちにとっての関係も、時には裂けてしまうことがあります。どうすることもできないこともあるかもしれません。しかし、その裂けたところから、神さまは、中に入って来てくださいます。その時、心を開いて受け入れようとすることによって、新しいものを与えられ、生み出してくださる神さまから、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」であるイエスさまが、神さまの愛する子として、神さまの心に適う者として、私たちの中に、その裂け目から入って来ます。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月11日)洗礼によって(マルコ1:9~11)