2025年12月21日礼拝 説教要旨
神への賛美(ルカ1:39~56)
松田聖一牧師
自分にとって、大変なことが起きた時、大きく揺さぶられます。どうしていいか分からなくなります。そして落ち込んだり、悲しみに暮れることもあるでしょうし、そのショックや、悲しみを引きずってしまうこともあるかもしれません。そして、そこからすぐに立ち直れるかというと、なかなか立ち直れないこと、立ち上がることができないこともあるのではないでしょうか?その一方で、頭のどこかでは、何もしないでいることよりも、立ち上がって、一歩でも何かに向かっていこうとすることは、大切で、必要だということは、知っています。しかし、それがどんなに大切で、必要であるかを、知っていても、分かっていても、気持ちと体がついて行かない時には、立ち上がろうとしても、立ち上がれません。それで余計に、何とかしなければと、焦ることもあると思います。
この時のマリアがそうです。マリアは、婚約中のヨセフとの関係ではなくて、神さまによって、赤ちゃんを身ごもることになったことに対して、喜ぶどころか、大きく揺さぶられたことと思います。年齢もまだ13歳か、14歳ごろだったと言われていますから、今で言えば、中学生です。中学生の年齢で、いくら神さまから、お母さんになります、神さまから、恵みを頂いたと、どんなに約束されても、また「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた彼女であっても、これから先、母親になった時、生まれた子どもと、どう生きて行けばいいのか?自分のことだけでなく、イエスさまを、どう育てて行けばいいのか?自分には、それができるのだろうか?という不安と、育てなければ・・・という責任が重くのしかかって、押しつぶされそうになっていたことでしょう。
そのいろいろなことが、親戚のエリザベトのところに「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」ということの中に現れているんです。というのは、マリアは、エリザベトのところに、すぐに出かけたとは書いていません。「そのころ」とあります。その「そのころ」という意味は、何日も経ってからということですから、身ごもると言われてから、マリアは、何日もかかって、やっと立ち上がることができるようになり、出かけていくということなんです。ということは、その何日間かは、立ち上がることもできない、自分のいるところから、一歩も外に出ることもできない状態であったということではないでしょうか?そういういろいろなことを抱えながら、マリアは、エリザベトのところに出かけていくんです。
そんな「そのころ」を経て、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」ザカリアの家にいるエリザベトに会うために、町の中をゆっくり歩いて行ったのではなくて、急いで、山里という寂しいところ、人目につかないようなところに向かい、ユダの町に行ったということは、自分が身ごもっているということが、誰にも見つからないようにするためだったのでしょうか?見つかったら、当時の決まりによって、石打の刑に処せられてしまいますから、マリアだけでなく、お腹の赤ちゃんも死んでしまいます。だから何とか、その命を守ろうとして、マリアは、急いで山里に向かったのかもしれません。しかし山里も安全ではありません。獣や追いはぎ、強盗がいる場所ですから、身の危険と隣り合わせのところです。それでもマリアは、急いで向かうんです。そしてその山里から、ユダの町に入り、
ザカリアの家に入って「エリザベトに挨拶した」とは、マリアが、エリザベトにこんにちはとか、お邪魔しますと言う意味で、「挨拶した」というのではなくて、この言葉の本来の意味は「マリアは、エリザベトを歓迎した、いらっしゃいと、敬意を表して、歓迎した」ということなんです。不思議ですね。エリザベトを訪ねたのは、マリアです。だからマリアが、エリザベトを訪ねた時には、ここまでやって来たマリアを、エリザベトが、いらっしゃい、よく来たねと歓迎するということではないかと思いますが、ここでは、マリアが、エリザベトをいらっしゃいと、歓迎しているんです。その意味は何かというと、挨拶したという言葉が、英語ではGreetという言葉で使われているところからも、見えて来るからです。グリートというのは、相手を受け入れて、触れあうと言う意味です。今の季節、グリーティングカードとして、クリスマスカードがありますね。先日、教会に繋がりのある方々に、クリスマスカードに寄せ書きをしていただきました。そのカードが届いた方から、ありがとうございますとか、皆さんによろしくお伝えくださいといった感謝の言葉が寄せられています。そのグリートという言葉に表された意味は、お互いに触れ合い、お互いに抱きしめるということ、ハグし合うと言ってもいいかもしれません。日本ではハグという習慣はあまりありませんが、欧米などでは、久しぶりに会ったり、挨拶し合う時には、お互いにハグし合い、抱きしめ合います。
そういう意味で、マリアが、エリザベトに挨拶した時、マリアはエリザベトを抱きしめ、ハグするんです。それはマリアが、エリザベトを、というだけでなくて、マリアもまた、エリザベトに抱きしめられていたということではないでしょうか?さらには、その時の格好は、お互いのお腹の中にいる赤ちゃんを、間にはさんで、その赤ちゃんを中心に、マリアとエリザベトは、触れ合い、抱きしめ合っていたということでもあります。だから、その挨拶を聞いた時、「その胎内の子がおどった」ヨハネが、エリザベトのお腹の中で、喜びのあまり、跳ねて、踊ったとき、エリザベトと抱きしめ合ったマリアのお腹の中にいた、イエスさまと、ヨハネは、お互いにお腹の中にいながら、お腹の向こうにいるマリアのお腹にいるイエスさまにも、その喜び、踊った喜びが、直に伝わっていたのではないでしょうか?そしてその喜びは、ヨハネ、イエスさまの母となった、エリザベトとマリアにも直に伝わっていたのではないでしょうか?
それは、そうですよね。おなかの赤ちゃんが、お母さんのお腹の中で、跳ねたり、踊ったら、お母さんにも、ストレートに伝わります。いたいくらいになるかもしれません。
以前に、出産予定の方から、おなかの赤ちゃんのことをおっしゃっていただいたことがありました。「まだ小さいですが、お腹の中で動くんですよ~それが私にも伝わります~」とおっしゃって下さいましたが、その通り、おなかの赤ちゃんが動いたりすれば、お母さんに、すぐに、そのままストレートに伝わります。ということは、この時、エリザベトも、ヨハネの喜び、喜びのあまりはねて、踊った、その喜びが、ダイレクトに伝わって来たことでしょう。それがまたエリザベトの喜びとなり、その喜びが、抱きしめ、触れあっているマリアにも、そのまま伝わっていくんです。その中で、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」も、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」も、マリアとエリザベトが、触れあっている中で、
エリザベトのところに、マリアが来てくれた喜びは、エリザベトにとって、わたしの主のお母さまである、マリアが来てくださったと言う喜びとなり、お互いのお腹の中にいるヨハネ、イエスさまを、歓迎して、受け入れている喜びの挨拶となり、わたしの主、イエスさまが、わたしのところに来てくださったという喜びとなり、それがお互いにストレートに伝わっているのではないでしょうか?そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と、マリアに返していった時、マリアは、神さまのおっしゃられたことを、信じていくことが、どんなに幸いなことであるか!ということを、この時、ストレートに受け取ることができたのではないでしょうか?
その喜びは、二人の母親に与えられたヨハネと、イエスさまと言う、子どもを通して、与えられた喜びです。そして子どもに導かれて、子どもに連れられて、二人が出会い、わたしの主が、わたしのところに来てくださった、喜びは、与えられた新しい命に支えられ、導かれていく、母親の喜びにもなっていくんです。そしてお互いに与えられた子どもが、二人のその中心にいたからこそ、わたしの主、神さまからの喜びも、マリアとエリザベトの中心にあり、そこから広がっていくものとなっているんです。
そういう意味で、子どもを通して、支えられること、与えられる喜びは、エリザベトや、マリアだけでなく、私たちにもありますね。それは母親としてだけではなくて、子どもと関わる中で、与えられていくことでもあるように思います。
この夏8月のことでした。1通のメールが届きました。それは小学校で最初に担任した一人の男の子からでした。男の子と言っても、もう40過ぎて立派な社会人、家庭人となっていますが、「この日、八ヶ岳ビーナスラインにバイクでツーリングに行きます。その帰りに、伊那に寄ってもいいですか?」というものでした。こちらはどうぞ、どうぞということで、夕方になり、バイクでやってきました。会うのは、本当に久しぶりでした。教会も見てもらい、そして一緒に晩御飯を食べようということで、お店に出かけました。そこで2時間くらいだったかと思いますが、小学校でのあのこと、このことを、いろいろ話してくれました。こちらは新米教師一年目でしたから、右も左もわからないまま、毎日が必死だったように思います。だから十分なことをしてきたかというと、決してそうではなかったと思いますが、でもその子にとっては、「あの1年間は、本当に楽しかった!」と、遊んだりいろいろしたことなどが、思い出されるようでした。そして食事の後、少しだけ、車で一緒に、近くをドライブしまして、経ヶ岳とか、仙丈ケ岳とか、案内しましたら、その子は、また感動してしまって、景色にくぎ付けになっていました。そしてふと「こんなに自然がいっぱいでいい!伊那ってこんなに良い所なんですね!」と喜んでいました。そして、「ここに別荘建てようかな?なんか中古住宅ありますか?子どもたちもここに引っ越したら、伸び伸びと出来るかも!」そんな面白いやり取りがありまして、またいらっしゃいと見送ったことでしたが、たくさんのことを教えられたような思いでした。
「伊那って、こんなに良い所なんですね!アルプスが綺麗!ここに別荘建てようかな?こっちに引っ越そうかな?」というくらいに、感動していましたが、お互いに、年齢を重ねて、また会えたこと、ビーナスラインから、直接東京に帰った方が、早く帰れるのに、伊那まで来てくれたことなど、たった1年の出会いが、それだけで終わらなかったことを改めて思いました。カメラマンとして、いろんなところに撮影に行っているとのことでしたが、これからの活躍も祈りたいと思いました。
子どもとの出会いを通して、教えられること、与えられる喜びがあります。それはまたエリザベトや、マリアにとっては、赤ちゃんがお腹の中にいるということを通して、お腹の中にいる赤ちゃんを通して、その赤ちゃんを真ん中に据えての出会いの喜びです。そしてそれらの出会いは、わたしの主、神さまから与えられたものだということを、信じる喜びとなっていたのではないでしょうか?
だからマリアの讃歌、マリアの喜びの歌が、46節以下に続くのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今からの地、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」神さまがして下さった、偉大なこと、イエスさまを与え、イエスさまの母となったことも、エリザベトに出会えたことも、エリザベトと触れ合い、抱きしめることができたことも、そしてエリザベトにも、抱きしめてもらえたこと、ヨハネと、イエスさまとの触れ合い、喜び躍ったことも、わたしの主のおかあさんになれた喜びも、神さまがしてくださったことを喜ぶ喜びも、すべて神さまが与えて下さったことだ!ということを、信じることができたマリアの喜びが、ここにあふれています。そういう意味で、神さまがしてくださったこと、その神さまを信じることができるというのも、喜びにつながっていくんです。
10年以上前になるでしょうか、ある時、何かの学び会に、一人の方が参加されました。その会で、自分が教会を訪ねて、神さまを信じて、洗礼を受けられた時のことを、そこに集まっていた方々に話して下さいました。こんな内容でした。それは誰かに誘われて、初めて教会に来て、初めて礼拝に参加されたのでしたが、聖書の話もさっぱり分からないし、なんか居心地が悪くて、その礼拝が終わった時には、逃げるようにして、教会を後にした時、傘を教会に忘れてしまった!そのことに気付いて、どうしようかと思いました。でも、結構いい傘でしたので、忘れたままにしていたら、もったいないと思ったので、もう一度恐る恐る教会に取りに行きました。すると、丁度その時、教会に伝道師の先生がいらっしゃって、そこでばったり会ってしまいました。すると、その先生は、私にこうおっしゃられたのでした。「また、いらっしゃいね!」それがきっかけで、教会に続けてくるようになり、イエスさまを信じることができるようになったということでした。そのことを振り返って、こうおっしゃっていました。「僕が教会に繋がっているのは、あの時、傘を忘れたからです。神さまが、傘を忘れさせてくださったからです。」
傘を忘れることも、神さまがしてくださった、偉大なことの1つなんです。他にもいろいろ山のようにあると思います。たとい、どんなに小さなことであっても、神さまは、神さまがしてくださった、神さまが、わたしに、わたしの主だということへと導いて下さるんです。そのことが分かるように、神さまは、私たちのために、いろんなことをして下さっています。そこから、神さまを賛美出来る喜び、神さまに支えられ、守られてきた喜びが、生まれ、与えられていきます。その讃美の中、マリアは、喜びに包まれて、エリザベトのところから、自分の家に帰ったのです。これもまた、わたしの主である神さまがしてくださったことでした。
祈りましょう。
