2025年12月14日礼拝 説教要旨

開かれた道(マルコ1:1~8)

松田聖一牧師

 

何もなかったところに、何かが起きる時、そこには誰も、何も関わっていないのかというと、実は、誰かが、あるいは何かが関わっています。その時、関わっているその人は、表舞台に立つとは限りません。陰の立役者のように、見えないところで、これから起こる何かのために、関わっていることです。しかも、関わっている人ご本人は、関わっているという意識もない場合があります。

 

というのは、1つのことを通して、気づかされるからです。それは、先日伺いました中川村麦の家のクリスマス会に繋がるきっかけを通してです。この頃は、毎年伺うことになりましたが、そこではクリスマス礼拝があり、讃美歌を歌い、聖書のお話の時があります。入居されている方と、そのご家族、村の社会福祉担当の方々や、時には村長さんも参加されます。今年も、70人ほどの方々に、聖書のお話となりました。すると、その最中に、声が聞こえてくるんです。「なるほど!」何度も何度も、合いの手を入れると言いますか、「なるほど!」と言って、反応してくださるんです。説教の合間に、「なるほど!」です。それは丁度、お餅付の中で、お餅をひっくり返したり、お水を掛けたりという、合いの手を入れるような、掛け合いのような感じになります。その時、こちらも「なるほど!」という、反応が、嬉しくなりまして、思わず、「いいですよね。なるほど!と言っていただけるのは。と返しますと、「なるほど!」と、また威勢のいいお返事が返ってきました。そんな和やかなひと時が終わり、伊那文化会館に向かうことになったのですが、そのクリスマス会に、伺う切っ掛けとなったのは、2021年、新しい会堂になって、献堂式を迎える準備をしていた頃、11月の初めだったと思いますが、こんにちは!と3人の方が教会に来られました。麦の家の理事長をされていた方とご家族、職員の方でした。どうぞどうぞと、会堂の中を見ていただきましたが、その時、既に体調も思わしくなかった理事長さんから、「是非麦の家にお出でください~」とおっしゃられたことが、切っ掛けでした。それから間もなく天に召されていかれたのですが、麦の家に伺うと、いつも職員の方が、おっしゃられます。「あの時ね~理事長が、最後の最後で、このクリスマス会に、道をつけて下さったと本当に思います~」と。しみじみとおっしゃいます。「是非麦の家にお出でください」と言われたその時、ご本人は、どう思っておられたのかは、今となっては分かりませんが、人生の最後の最後のところで、道が付けられ、クリスマス会に繋がっていることを思う時、

 

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」すなわち、神さまが、あなたの道を開くために、その道を準備する人、別の意味では、何もなかったところに道を開き、その道をゼロから造り上げていく人を、先に立てて下さると言う、神さまの約束は、真実だということです。そのために、神さまは、神さまの道を、先に遣わされる使者に、準備させようとおっしゃられるんです。でもその人は、自分が準備しているという意識はないかもしれません。しかし、神さまは、その先に遣わされる使者を通して、あなたの道を準備くださるんです。

 

ただし、実際には、その道は、まだ道ではない、道になっていないところです。では、どうやって道になっていくのかというと、「その道筋をまっすぐにせよ」の中にある、「まっすぐにせよ」という意味を見ると、こすって、すりへらして、踏みならされた、小さな道を、つくりなさいと言う意味です。ということは、道なき道を、道にしていくために、あなたより先に遣わされたその人は、自分の足で、なのか、何かは分かりませんが、道なきところが道になる迄、すりへらして、こすりながら、自分の身を削っていかれたということではないでしょうか?

 

こすりながら、すりへらして、自分の身を削って、いくということには、具体的ないろいろがあると思いますが、実際に、それをやっている人は、大変です。

 

ある方の息子さんが、大学に入った時、その息子さんのお母さんは、こうおっしゃっていました。「もう~大変です~札束が飛んでいく・・・」「大学に通わせるためには、本当にお金がかかる…」としみじみおっしゃっていましたが、すり減らしていく、身を削っていくというのは、そういうことではないでしょうか?

 

神さまは、そういう人を、あなたの前に、あなたの道を準備するために、与えて、立てて下さるんです。ひょっとしたら、その方は、もう亡くなって、天に召された方かもしれません。しかし、そうであっても、その方が、生きておられる時、自分の身を削り、すりへらして、神さまの道につながる、あなたの道を、準備し、与えて下さっていた結果、出来上がったあなたの道を、神さまに向かって、歩いていけるように、その道は今、そうなっているのではないでしょうか?

 

洗礼者ヨハネが、担ったことは、そういうことなんです。そのためにヨハネは、荒れ野に現れて、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とある通り、ヨハネのもとに、大変な数の人々が、集まってくるんです。が、ここに人々がヨハネのもとに集まって来た理由、動機があります。それは、罪ということが、ヨハネと、人々の関係の中心にあるからです。そこで、罪という言葉の意味について、確認しましょう。

 

罪というのは、何か悪いことをしたとか、犯罪に当たるようなことをしたと言う意味で、罪と言っているのではなくて、それは結果として、そういうことがあっても、そもそもの意味は、的が外れていると言うことです。的外れというと、例えば、弓道で、的をねらい、的に当てようとして、弓を放つわけですが、実に難しい技術がいります。なぜかと言うと、手元が少しでもくるってしまったり、少しずれただけで、的から外れてしまい、的に当てることができないからです。ということは、神さまに向かう道から外れていると言う、その姿は、大きくずれているとか、大きく外れているということではなくて、ちょっとのことなんです。ほんのわずかなことで、外れてしまうんです。

 

だから、その罪を告白したということは、その人々にとって、ほんのちょっとのこと、ほんの少しのことであっても、これくらい、いいや~とか、こんな小さなことは、構わないとか、軽く考えてしまう内容であったかもしれないことを、軽くすまさず、軽く流さなかったということでもあるんです。その結果、神さまからちょっとずれてしまっていた、その罪を告白して、洗礼を受けていくんです。

 

それは、ヨハネを通して、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」が、「宣べ伝え」られたからです。つまり、神さまに向かう道が、ちょっとずれているということも、それはちょっとであっても、確かにずれていることなんだということが分かっただけではなくて、そのままではいけないんだということにも、気づかせられたからではないでしょうか?

 

でも、ちょっとずれているとか、ちょっと外れているというのは、そういうちょっとを、自分の目でちゃんと見ようとしないと、あるいは、しっかりと受け止めようとしないと、なかなかわかりません。じゃあどうやって見ることができるのかというと、1つには鏡です。ある水泳の選手が、プールで練習する時に、プールの底を、全部鏡にして、自分の泳ぐ姿が映るようにしました。そうすると、泳ぎながら、自分の泳いでいる形は、どうか?基本からちょっとでもずれてはいないだろうか?ということを、その鏡を見ながら、練習をするんですが、ちょっ自分がずれていると、わかってしまいます。それは他のスポーツでも、楽器をされる方もそうです。自分の姿が今どうなっているのかを、ちゃんと見る事ができるように、鏡など、自分の姿が見えるものを、目の前に置くんです。そうすることによって、自分では、正しい形になっていると思っていても、実は、ちょっとずれているということに、気づけるんです。その時初めて、自分が間違っていた!自分がずれていた!ということに、気づかされます。ではずれていること、間違っていることが分かれば、それでいいのかというと、ずれていることだけで終わってしまうと、そういう自分であるということを、自分で赦してしまうか、逆に、そういう自分であることを、赦すことができなくなってしまいます。

 

しかしその続きがあるんです。それが「罪の赦し」です。つまり、間違っていた自分でも、それでも、赦されるということ、ゆるして頂けること、そのために、ずれていることに、気づかせてくださるんです。見方を変えれば、ゆるされるんだということに、気づけるということは、自分がずれているということに、気づけて初めて、神さまが、わたしを、神さまの道に、正しく戻れるように、導いてくださっていたんだということが、分かるようになるのではないでしょうか?そのために「悔い改め」という、向きをもう一度神さまの方に向きなおすということが必要なんだということにも気づけるようにしてくださるんです。そのことを、神さまが、ヨハネを通してしてくださったからこそ、人々は、ヨハネの元に来て、「罪を告白」することができたんです。

 

それは私たちにとっても同じです。ずれてしまうこと、間違うことが、ダメではないんです。誰でもずれるんです。誰でも間違うんです。問題は、ずれたこと、間違ったことに、気づかないでいる事、そういう自分だから、そういう自分でもいいとか、ダメだと、自分で判断してしまうことが、実は問題ではないでしょうか?さらには、ずれたり、間違ったりしたらだめだと言う思いが、強くなってしまうと、だからずれないように、間違えないようにしよう、そのためにはどうしたらいいか?ということに思いを向けてしまうと、結果としては、何もしようとしないこと、何をしても、ずれて、間違うから、何もしない方がいいと言う方向に向かっていくこともあるのではないでしょうか?

 

しかし、神さまは、ずれてしまうこと、間違うこと、間違う自分になってはいけないというよりも、そもそも何かしようとしたら、間違う者なんだ、ずれて的を外してしまうものだということを、誰よりも、分かっておられるんです。だから、ずれたりしたり、間違ってしまったら、またもう一度やり直したらいい、間違ったら、間違いに気づいて、そこからもう一度、正しい方向へ進もうとすればいいんだという道を、ちゃんと与えて下さるんです。そのために、赦しがあるんです。

 

その赦しを、何を通して与えて下さるのかというと、赦してくださる神さまを信じていくこと、赦して下さる神さまが与えて下さった洗礼を通して、赦しが与えられるという約束を、そのまま受け取っていくことなんです。神さまが約束してくださったことは、神さまの約束なんだから、そこには間違いや、誤りや、うそはないんです。赦しを与えて下さる神さまが、ゆるすために、与えて下さった洗礼があるんだから、それを、そのまま受け取ったら、それでいいんです。もちろん、自分の思いで、あれこれ考えてしまうこともあるかもしれないし、あるいは、複雑に考えすぎてしまうこともあるかもしれません。しかし、ずれたり、間違えたことを、赦して、もう一度やり直せる道を、備えて、与えて下さる神さまがいらっしゃるということを、そのまま、受け取っていくことが、悔い改めのスタートなんです。

 

そのために、ヨハネは、すりへらしていくんです。自分の身を削っていくんです。それは神さまであるイエスさまもそうです。イエスさまは、罪を赦すために、十字架にかかられましたが、その十字架にかけられる前から、生まれた時から、気持ちの面でも、すり減らし、身を削っていく人生を送られたと言えるでしょう。いろいろな苦しみを経験しました。自分が、ヨセフとマリアの本当の子どもでないこと、自分の後から生まれて来た兄弟とは、血の繋がりがないこと、弟子たちと一緒に神さまの働きに遣わされた後も、弟子たちを始め、人々の無理解、分かってはもらえない、理解してもらえない、孤独を感じて来たことでしょう。そして最後の最後、十字架に付けられた時にも、罪を赦すために、神さまへの道を与え、備えるために、十字架に付けられたのに、その意味と目的を理解してもらえない、神さまからも、引き離されるという孤独をも、経験されました。しかしそういう中で、ご自身が十字架に付けられた時、その姿は、苦しみと悲しみの姿でもありながらも、その姿は、両手を広げ、足を伸ばして、からだ全身で、自分を十字架に付けた人々を、自分が神さまの道からずれて、間違っているということに気付いていない人々をも、すべての人々を、全身で受け入れておられる姿となっているんです。

 

そのことを、「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と。紹介することができたヨハネもまた、そういう自分自身を、神さまに受け入れられていたことに、気づくことができたからではないでしょうか?

 

ある先生のところにカウンセリングに来られた27歳の女性の方のことが、こう紹介されていました。

 

27歳になる強迫神経症の女性がいました。ある時のこと、彼女と約束したその日の分のカウンセリング時間が終了したので、次の予約であるT君のところへ私は行こうとしました。ところが彼女は、まだ話し足りないと言います。そこで(普通はあまりしないことですが)、T君のところに彼女を一緒に連れて行くことにしました。その代わり「そこでの時間はT君の時間であって、あなたの時間じゃないんだよ。そのこと、ちゃんとわかってる?勝手にしゃべっちゃだめだよ」と約束しました。難病と呼ばれるT君の病気は、体が硬直し、話し方もだんだんろれつがまわらなくなります(ただし意識だけははっきりしている)。普通なら世を恨み、親を恨み、やるせない感情を他人にぶつけるのが当然です。ところがT君は、イエスさまに出会ってから変わりました。その悲しみを共に泣いてくださるイエスさまと出会い、何もできないけれど、このいのちを頂いたことを彼は喜んでいました。その日はちょうど母の日でした。「今日は母の日だね、T君」「うん」「お母さんにおめでとうと言った?」「先生が来たら言おうと思ってました。」「そう」お母さんがお茶を運んで下さって、27歳の彼女とT君、私、お母さんの4人で小さな輪ができました。その時、不自由な体を起こしてお茶をこぼしながら飲んだT君が目を輝かせてこう言ったのです。「お母さん。お母さん。母の日おめでとう。僕のこと生んでくれてありがとう。」その言葉を聞いた時、長い間心を病んできた彼女の体がカタカタと震えだしました。―この少年はあと半年か1年のいのちと言われている。それなのに「生んでくれてありがとう」と言える。自分の存在を喜んでいる。―そのことに気が付いたのです。

 

イエスさまは、どんな私たちであっても、全身で受け入れてくださっています。十字架にかかられたイエスさまが、全身で私たちを赦して、受け入れて下さっています。どんなわたしであっても、今ここにいること、間違うこともたくさんある自分であっても、受け入れられていることに気付かせてくださる、イエスさまを、神さまが、送って下さったからこそ、クリスマスがクリスマスとなっていくんです。そのことに気付けた時、神さまに向かって歩くことができる道を、自分にとって、あなたと呼べる、あなたのために、私もまた準備していくんです。開かれた道は、私の為だけの道ではありません。わたしにとっての、あなたのための道でもあります。だから、わたしだけが神さまに導かれたら、それでいいということも、実は神さまの思いから、ずれてしまうことなんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(12月14日)開かれた道(マルコ1:1~8)