2025年11月30日礼拝 説教要旨

信じてはならないこと(マルコ13:21~37)

松田聖一牧師

 

今、聖書の学びを、洗礼をお受けになられた方、こちらの教会に転入会された方々と一緒に学んでいます。少しずつ、そして何度も何度も繰り返しながら、神さまのこと、イエスさまのことを学ぶひと時が与えられて、何よりだと思います。さて、そもそも、聖書をなぜ学ぶのか?なぜ聖書の意味について、わかち合うのかというと、神さまのことについて、一度聴いたら分かるというものではないからです。神さまのことを、全部分かるようになるかというと、相手は神さまですから、人には完全にはできません。しかし、神さまが、神さまのことを分かるようになるように、その手段、方法を、聖書を通して与えていて下さっていますから、だから神さまは、神さまについて、少しずつ学びながら、神さまのことが、少しずつ分かるようにして下さるんです。

 

その学びの一つの問いに、こんな問いがあります。「神とは何ですか」

 

神さまとは何ですか?その問いに対して、「神は霊であって、永遠であり、全能、全知、どこにもいまして、さとく、善く、あわれみ深く、きよく、真実で、公正なお方です。」とある通り、ただ一人の唯一の神さまは一か所におられるとか、一か所だけにとどまっておられるお方ではなくて、どこにもいまして、どこにでもいらっしゃるお方であるということなんです。

 

そういう意味で、今日の聖書の中にある、メシア、救い主である神さまが、ここに、とか、あそこだ、と言う、その内容は、ここに、とか、あそこという限定されたところに神さまがおられるという内容ですから、それは、神さまというお方が、どこにもいまして、どこにもいらっしゃるということとは、全く対照的な、違う内容です。でもそのことを言う者、言う人は、神さまがここに、あそこにという限定されたところにしかいないということを、信じて言っているんです。これまでずっとそういうものだと、信じているので、「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」を言っていくんです。そのことを、イエスさまは、この人が言っているのを聞いたり、目の前でそのことを言っている、この人を見ておられたのではないでしょうか?だから、ペテロたちにも、その人のこと、その人が言っていることを、わかち合っていくんです。

 

そのことから言えることは、ここに、あそこだ、と言っている人は、ここに、あそこに行かなければ、神さまに出会えないと思って、信じているということなんです。そういう神さまの位置付けとなっているんです。しかし、そう言いながらも、ここに、あそこにと言っている人も、イエスさまに向かって、向き合って、イエスさまにも、神さまは、ここに、あそこにと言っている、ということではないでしょうか?そしてイエスさまも、ここに、あそこにと言っている、その人と、しっかり向き合っておられるということではないでしょうか?

 

桜井という町の教会での出会いの中で、1月1日元旦礼拝のことを思い起こします。その日は、11時からの礼拝で、集まって来られて、共に礼拝を守り、ささげるのですが、その時に、いつも汗をかきながら、息せき切って、礼拝に来られる方がいました。冬の寒い時期なのに、暑い暑いと言って、汗をかいているんです。「どうしたんですか?」「忙し!忙し!」どういうことなのかと思いましたら、続けて「忙し!忙し!朝から、天理さんに行って、大神神社に行って、文殊さん(安部文珠院)に行って来たから、朝から忙し!忙し!」なるほど~と分かったことは、お正月、元旦の朝から、天理教と大神神社と、安部文珠院と、それぞれに初詣に行って来られて、それから最後に、教会の元旦礼拝に来られていたということでした。天理教の教会と、大神神社と、安部文珠院は、それぞれにすごく離れています。そしてそこから教会にも、かなり距離がありますが、元旦礼拝の始まる11時に間に合うように、汗をかいて、暑い暑い、忙し!忙し!と言いながら、大急ぎで来られたのだと思いました。その時、良かったと思ったことは、こっちに、あっちにと、それぞれの場所に行って、初詣をしてきたけれども、最後は、神さまのところに、導かれたということ、神さまは、あっちに、こっちにと言っていた、この人を、おかえり!よく来た!と喜んで迎え入れてくださったのではないかと思いました。

 

「ここにメシアがいる」「あそこだ」というのは、神さまが、ここに、あそこに、という限定されたところにいるお方ではないことは、その通りです。ここに、あそこにということは、間違いです。しかし、それでも、こことか、あそこだと言えるのは、その間違いをも、また、ここに、あそこにと言う人の中にある、ここか、あそこか、分からないでいること、迷っていることをも、イエスさまが、受け入れて下さったからこそ、ここにとか、あそこにとは、言えるようになっているのではないでしょうか?そういう意味で、ここにとか、あそこだということを言う人も、迷っているんです。だから、ここにとか、あそこだと言うんです。迷っていなければ、そんな言葉は出てきません。

 

だからこそ、イエスさまはちゃんと、はっきりと、ここにとか、あそこにと言う者がいても、「信じてはならない」とおっしゃられるんです。同時に、信じてはならないとおっしゃられるとき、それは、ただ単に信じてはならないだけではなくて、信じていいお方は、どなたなのか?どういうお方なのか?ということを、示すために、まずは、信じてはならないと語り、偽メシアや、偽預言者と呼ばれる、自称メシア、自称預言者と呼ばれる人たちは、何をしているのか?そして、なぜ信じてはならないのか?ということを、語るのです。

 

それは「しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」すなわち、神さまから正式に召されていない、自分たちが自らメシアだとか、預言者だと言っている人たちが、神さまに選ばれた、選び出された人たち、を惑わそう、迷わせようとするからです。その相手は、まずは弟子たちに対してですから、イエスさまは「だから、あなたがたは気をつけていなさい」よく見なさい、よく注意して見なさいとおっしゃられるんです。

 

と同時に、惑わそうとする、その人々自身の中にも、戸惑い、迷いというものがあるのではないでしょうか?迷っているので、周りをびっくりさせるようなしるしや不思議な業を行い、それによって、周りから認めてもらおうとするのではないでしょうか?つまり、そういう人が迷うというのは、ここにとか、あそこに、という人だけではなく、惑わそうとする人々だけのことでもなくて、誰もが経験し、持っているものではないでしょうか?その姿を、イエスさまは、ここにとか、あそこにと言う人を通して、また偽メシアや、偽預言者を通して、私たちにも示しておられるのではないでしょうか?

 

ではなぜ迷うのでしょう?それは、自分のよりどころ、ここにいていいんだ!という自分の居場所、落ち着き場所を見つけられていないからではないでしょうか?よりどころがないということは、自分を支える土台がないということになります。だから、24節以下にある、太陽が暗くなりとか、月は光を放たずとか、星は空から落ちとか、天体は揺り動かされると言う時、変化するその姿、揺り動かされるそのさまの前で、自分自身も揺り動かされてしまうのではないでしょうか?

 

しかし、イエスさまが言われた、太陽が暗くなるということが、現実に全くないかというと、そんなことはありません。皆既日食がその1つです。日本で次に見られる皆既日食は、2035年9月2日で、関東から北陸にかけて見られます。このことを知ったのは、小学生のことでした。その時、2035年には自分が何歳になっているかを、計算しましたら、僕は65歳になっている!10歳くらいの時だったと思いますが、あと55年後には、皆既日食が見られる!だから是非見たいと思ったことです。その通り、皆既日食になれば、辺りは暗くなります。太陽から出ているプロミネンスという炎も見えます。ダイヤモンドリングも、本当に美しい光景だと思います。それは月もそうです。皆既月食になれば、月が赤黒くなります。その通り、初めて皆既月食を見た時、月が見えなくなるのではなくて、赤黒くなっていたことでした。星は空から落ちるというのも、その1つに流れ星がありますが、流れ星も綺麗です。ただ天体が揺り動かされるというのは、地上が、地面が揺り動かされることによって、天体が揺り動かされるように見えるということなのか、具体的には、分かりませんが、天体が揺り動かされても、その動かされている天体に、私たちがいるわけではありません。地上に、地面にいます。だから自分がいる場所が、揺れているのかというと、天体は、ですから、同じように揺れるのかというと、それは分かりません。だから、いろいろあっても、いろいろ言われても、皆既日食も、皆既月食も、流れ星も、美しいものですから、本当は、慌てなくてもいいことではないでしょうか?

 

しかし、自分を支える、よりどころ、土台がないと、どこかから、誰かから、惑わせるような、迷わせるようなことを、言われたりした時、あるいは、目の前のことで、自分自身が、揺り動かされ、惑わされてしまうことがあるのではないでしょうか?

 

それはまた、人と人との関係にも繋がります。人に褒められることや、人から認められようとすることに、のみ、しがみつき、それをよりどころ、自分を支える土台としていたら、人からほめてもらえなくなった時、あるいはマイナスのことを言われたりすると、迷います。どこに身を置けばいいか、分からなくなります。迷います。じゃあ人をあてにするのではなく、自分自身を、自分だけをよりどころとすれば、いいのかというと、自分も永遠に当てになるか?自分をずっと頼りにできるか?というと、どんなに自分は、大丈夫だと思っていても、自分が何もできないということに直面した時、自分もあてにはできない、頼りにならないと感じる時が、起こり得ます。だから言うんです。こんなはずじゃなかったのに…

 

だからこそイエスさまは、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」とおっしゃられる、そのいちじくは、何かを自分からしゃべって、教えているわけではありません。その無花果の木は、他の木と同じように、地面にしっかりと根を張り、そこに立っているだけです。でも、枝が柔らかくなり、葉が伸びるというのは、そのいちじくが、自分の枝に、やわらなくなりなさいとか、葉に向かって、伸びなさいと教えているわけではありません。さらには、近づいたことが分かるというその夏に向かって、近づいて下さいとか、夏よ、早く来いと言ったことを、いちじくが言っているわけではありません。そういう意味では、いちじくは、自分の枝や、自分の葉っぱに対して、何か教えているのか?夏に向かって、何かを指示できるのかというと、何もできないんです。さらには、いつ枝がやわらなくなるか、葉が伸びる時も、いちじくは、自分のことでありながらも、それをどうこうすることはできません。でも、夏が近づけは、枝はやわらなくなり、葉が伸びるんです。それは、いちじくだけではなくて、それを見ている人にとっても、いちじくの枝や、葉っぱを、どうこうすることもできませんし、夏を近づけることに対しても、どんなに夏を近づけようとしても、何もできません。しかし、何もできなくても、たとい時間はかかったとしても、毎年、毎年、いちじくの木は、少しずつ大きくなり、葉をつけ、枝を張り、実を結んでいくんです。

 

つまり、目の前で起きることだけでなくて、その目の前で起こる、その時間も含めて、自分のことでありながらも、誰も何もできないんです。だから、目の前のことだけを見ていても、聞いていても、これからどうなるのか?どうなっていくのか?いつそうなるのかは、分からないことがあるんです。分からないので、それで迷うんです。時には、揺り動かされるんです。場合によって、待てなくなって、自分から手を出してしまって、結局は中途半端にもなってしまうこともあるかもしれません。しかし、イエスさまは、どんなに、いろいろなことがあったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」神さまの言葉、は決して滅ぶことなく、私たちを支えるよりどころとなり、わたしの言葉、聖書の言葉、神さまの言葉を通して、神さまは、ここにとか、あそこに、と言うお方ではなくて、いつも変わらず、いつでも、どこにでもいて下さる神さまであるということが、分かるようにして下さるんです。

 

その神さまをよりどころとして、信じて、頼っていくことから、目の前のいろいろなことも、確かにいろいろありますが、それらのものは、永遠に続くものではないということをも、教えてくださいます。

 

北海道の教会で伝道されていた一人の先生が、北海道の雪について、そしてその雪を通して、教えられたこととして、こんなことをおっしゃっていました。

 

北海道では、1月、2月は雪が積もって壁のようになります。それはコンクリートのように堅くなり、その上にさらに降り積もる雪を見ていると、どんな力でも動かない怪物のように思えるのです。ところが、3月に入ると、あの威力が嘘のように日一日と小さくなってしまいます。その雪を見ながら、この世の権力も同じもののように思えたものでした。・・・・どんなに堅固なものであっても、それは春の雪解けのように、やがては消えてしまうのです。

 

私たちにとって、どんなにこれは大変だと見えるものも、永遠ではありません。やがて時がくれば、それらのものは、消え去っていきます。そして消え去った後には、どんなに揺り動かされても、どんなことがあっても、動かない、よりどころとなる神さまという土台が、与えられていくんです。ここにも、あそこにも、いずこにもおられる神さま、自分では何もできなくても、命を与え、枝を柔らかくし、葉を伸ばしてくださる、神さまが、ここにも、あそこにも、私たちと共にいて下さいます。その神さまを信じないのではなくて、信じるものになりなさいと、イエスさまは、私たちにいつも働きかけ、呼びかけていてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(11月30日)信じてはならないこと(マルコ13:21~37)