2025年10月26日礼拝 説教要旨
どこに向かうのか(マルコ10:2~12)
松田聖一牧師
結婚をされるお2人の、結婚式リハーサルをした時のことです。新郎、新婦がそれぞれに向き合い、誓約をしますが、その中に「病める時も、健やかなる時も、他の者が見捨てるような時も」夫として、妻として、愛しますか?と言う問いかけに、ハイ、神の助けによって約束いたしますと、お互いに答えていきます。そのリハーサルに、ご家族の方や、教会の方も、おられて立ち会われたのですが、その後に、1人の方が、つかつかっとやって来て、こうおっしゃいました。「誓約は、いつ聞いても、いいですな~じわっと心に来ます。病める時も、健やかなる時も、他の者が見捨てるような時も、というのは、襟を正されます~」その通り、リハをご一緒させていただく私自身も、厳粛な気持ちになります。その厳粛さは、誓約に続く、結婚宣言最後の、この言葉「神が結び合わせたものを、人が、引き離してはならない」も、身震いするほどの、感覚になります。
それほどに、神さまは、結婚され、夫婦となられた方々に思いを寄せ、大切し、これから始まる新しい生活と、新しい家族が守られ、支えられ、祝福されることを、心から願っています。
と同時に、「神が結び合わせたものを、人が、引き離してはならない」という宣言があるというのは、人が、2人の関係を引き離してしまうことを、お互いに、また2人とは別の、誰か、あるいは何か、との関係によっても、してしまうということが、あるからではないでしょうか?でも、それが実際に、自分の身に起こったら、大変です。身を切られるような出来事です。というのは、結び合わせると言うこの言葉は、2つのものをにかわでぴったりとくっつけると言う意味ですから、ものすごいくっつき方です。そういう繋がりから、引き離されるということは、お互いから、引き裂かれて、お互いが傷だらけになって、ボロボロになります。
そういう意味で、ファリサイ派の人々が、イエスさまに、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねる内容の、「夫が妻を離縁すること」というのは、ファリサイ派自身に起きたというよりも、誰かは分かりませんが、夫が妻を離縁する出来事が起きているということを指して、尋ねています。そしてその当事者である、その夫と妻との間で、離縁ということに至るまでに、お互いに傷ついて、傷つけあい、信頼できなくなってしまったことが、既にそこにあるということではないでしょうか?それはまたその夫婦だけの問題ではありません。家族みんなが巻き込まれてしまいます。具体的には、その夫婦に子どもさんがいらっしゃって、その子どもたちにとっては、お父さん、お母さんが、お互いに傷つけあっていたら、その子どもたちは、どうしたらいいのでしょうか?どちらにつけばいいのでしょうか?お父さん、お母さんの、どちらかについても、どちらかとは、引き裂かれてしまいます。これもまた、子どもたちにとっても耐えられないことではないでしょうか?
そういう諸々が離縁の背後にはあって、その結果、離縁するということになり、それについて、彼らは、律法に適っているでしょうか?という問いになっているんです。ここで、ファリサイ派の人々は、離縁することは、「律法に適っているでしょうか」の「適っているでしょうか」には、「勝手であり、自由があるでしょうか」と言う意味があります。つまり、夫が妻に離縁するという、夫婦が別れるということは、自分たちで、自分たちだけで勝手に出来る、自由にできると受け取っているということなんです。その上で、「律法に適っているでしょうか」と問う時、当事者の立場に立って、言っているのかというと、イエスさまを試そうとして言っていますから、実際に、別れるか、どうするかということで、傷ついて、苦しんで、辛い思いをしている、その夫婦のこと、子供達のことに、思いを向けたり、想像したり、考えている問いではなくて、相手の気持ちといったことが分かっていない、どこか第三者的な、外野の立場に立っている問いではないでしょうか?
相手の気持ちが分からない理由として、こんな分析があります。
人への興味が乏しい
人の気持ちがわからない人は、基本的に他人に興味がないことが考えられます。「自分は自分」「相手は相手」と割り切っており、周囲の人がどうなろうと、自分には関係ないと思っています。そのため、相手の気持ちを察しようと表情や行動などを観察しようとする努力もないのです。また、困っている人がそばにいても、相手に尋ねたり、助けたりすることもありません。
相手の配慮に対して感謝ができない
周りから気を遣われていることを当たり前と思っており、相手の配慮や思いやりに対して感謝ができません。そもそも、「自分のために相手が気を遣ってくれている」という思考がないのです。やってもらえて当たり前という出来事でしか捉えられていないため、相手の配慮や思いやりに気づかず、その結果一生懸命頑張ってくれた人を落胆させてしまいます。
何も考えていない
人の気持ちがわからない人は、表面上の付き合いしかできないため、友達や知人が少ない傾向です。自分自身でも、相手と「表面上の付き合いをしている」という実感を持っています。そのため、相手の気持ちを考える必要がないとも思っており、何も考えずに思ったことをストレートに発言してしまいます。
自己中心的で相手に合わせる気がない
自己中心的な考え方をする傾向があるため、相手に合わせる気があまりありません。周囲の人がどのように思おうが関係なく、どんなときでも自分のことを最優先に考えて行動します。なので、自分の発言や行動で相手がどう感じているのか、考えていないことがほとんどです。
ファリサイ派の人々も、そうです。ただイエスさまを試そう、罠にかけて、おとしめようという、イエスさまを壊そうとしようとするという、自分のことばかり考えているから、離縁する当事者のことに、向かっていないんです。
そのことを、イエスさまは分かっておられたからこそ、彼らの問いに、良いとか、ダメとかという答えを出さないんです。むしろ、そのことを尋ねたファリサイ派の人々に、逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されるのは、自分たち自身が、離縁と言うことに直面したら、あなたたちはどうなのか?自分たちだったらどうなのか?どう思うのか?どうするのか?という問いに、自分自身が向き合ってほしい!他人事ではなくて、自分事として、受け取ってほしい!んです。
でも実際はというと、彼らの答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と、モーセは、離縁状に書けばいいんだ、書けば許すということだから、だから自分たちも、書けば許されるんだ、という答えであって、彼らの答えには、モーセは、はありますが、あなたたちに、に対する、私たちが、出ていないんです。自分はどうなのか?どう思うのか?が、ここにはないんです。
自分はどうなのか?どう思うのか?この問いに向き合うというのは、簡単なようで、実は難しいと思います。ある時に、若い方に、何かのことについて、こう尋ねました。「どう思う?」そしたら、相手からは「どうって言われても・・・どう答えたらいいのですか?」という返事が返ってきまして、どうもどう答えていいか、分からなくて、困っていたようで、答えが返ってきませんでした。なるほどと思いました。どう思うか?という問いは、1+1は?といった、数字で表すことができない問いですね。私はどう思うのか?私はどうか?と言う問いは、自分のことではあっても、時には、どう答えていいか、分からなくなる問いでもあります。
ファリサイ派の人々も、答えることができなかったんです。その姿を、イエスさまは、「あなたたちの心が頑固」だとおっしゃられるんです。でも不思議ですね。頑固ということからイメージすることは、しっかりと自分の考えを持ち、そこに基づいて、いろんなことを判断し、筋を曲げないという感じです。もちろんそういう面はありますが、そもそも、この頑固と言う意味には、頑なに、迷っている、という意味があるんです。
なぜかというと、自由に、何でもいい、何でもかんでもいいという、自由、勝手は、自分がこうだと受け止めている、自分の自由であり、勝手です。それは確固としたもののように見えますが、そもそも、自由とか勝手ということを判断している、自分が、変わらないのかと言えば、姿かたちも、気持ちも、変わらないのではなくて、日々刻々と変わっていくものではないでしょうか?同じではないです。
かつて教会で夏になりますとキャンプをしていました。教会の礼拝堂に寝転んで、中学生以上のお兄さん、お姉さんたちは、夜中ずっとしゃべり続けていました。その時に、ある子が言ったのが、「今日はオールやな!」オール?一瞬分かりませんでしたが、オールナイト、徹夜をすると言う意味でした。そんなある年のキャンプのプログラムで、子どもたちと一緒に神学校を訪ねたことがありました。神学校の先生に神学校について、説明をしていただきました。子どもたちも、神学校の中に入るというのは、珍しいことでしたので、キャアキャア言いながら、玄関から小さな礼拝堂に入った時のことです。礼拝堂には、卒業式で撮った、卒業生の集合写真が飾られています。子どもたちは、その写真を見ながら、どうも私がどこにあるかを捜していたようでした。その内に、「あった!」と誰かが叫びますと、その写真の前に集まってきまして、「ここに写っている!」と興味津々です。その時、こんな声がありました。「先生、わか~!」若い!と言ったのですが、卒業の時には28歳でしたから、そりゃ若いわな~と思いながらも、自分の中では、変わっていないと思っていましたが、やっぱり写真の中の自分は若かったということでした。
写真は、正直ですね。その時の、自分の姿が、そこにあります。でもその時の自分と、見に行った時の、自分自身は変わっています。それはいろいろなことにもそうですね。10月6日に愛宕町教会に行った時にも、他の先生から、日焼けした?真っ黒になっているけど!と言われましたが、自分ではそんなに焼けているつもりはなくても、1年前とも違っているんです。
それはどなたもそうですね。何十年前と今ということだけではなくて、1年前とも、違います。変わっています。同じではありません。もちろん変わらない個性というのは、ありますが、変わるものもあると言う点では、同じではなくて、変わっていきます。そういう自分自身に、頑固にしがみつけばつくほど、ますます、定まらない自分に、しがみついていくことになるのではないでしょうか?その結果、迷っている自分になっていると言えるんです。
ということは、ファリサイ派の人々は、確かに「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と答える時、確かに、自由に、勝手にできるという思いの中にはあっても、何に自分を定めればいいのか?何を基準に、何を土台として信じて、委ねたらいいのか?ということを迷っているのに、定まっていないのに、答えているからこそ、イエスさまは、離縁について答えるのではなくて、人はそもそもどうして人であるのか?どうして人となったのか?人とは何者なのか?という、人間の根本的な問いに、向かって、そしてファリサイ派の人々や、私たちとも、しっかり向き合って、すぐに答えず、問い返されたのは、自分自身に出会える、チャンスを与えるためです。そのことを、この言葉に込めているんです。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。」
この言葉は、結婚とは何かと言うことと、同時に、人が、わたしが、私となるのは、両親がいて、両親が結婚しているからだということと、その両親を通して、神さまは、私を、この世に与えてくださったということなんです。ということは、私に出会うこと、私から逃げずに向き合えるのは、わたしがわたしとなれるように、わたしに命を与えて下さった、神さまに向かうこと、その神さまを知ること、神さまに任せていくこと、そして、同じ神さまから命を与えられ、生きる者とされた、他の人と、向き合うことを通して、私は私と向き合い、私は私になれるということではないでしょうか?
北海道の旭川に住んでおられたある方が、旭川六条教会の礼拝に、おどおどしながら、初めて出席されました。その時、三浦綾子さんご夫妻にお会いしたことをきっかけに、礼拝に続けて出られるようになりました。それまでずっと、人と接することが苦手で、誰かと向き合う時、身構えたり、無意識のうちに心に銃を持って、「いつでも発射するぞ」と銃口を向けていました。そんな自分だということを次第に知るようになっていた、彼に三浦綾子さんが、こう言ってくださったことがありました。「あなたは自分で人から何か忠告されると、すぐに「カチン」と来ると言うけれど、言われた時に、一歩踏みとどまって「良く言ってくれた」って感謝しなきゃだめよ。これからは自分のその弱さを直すために、相手が言ってくれたって思うようにしたら?」とか、「その顔でいなさい。その顔もままなら、みんなに好かれるから」といった言葉をかけてくれるようになりました。そんな中で、洗礼を受けて神さまを信じていかれ、やがて旭川から、就職のために故郷を旅立つ三日前にも、はなむけの言葉をかけてもらいました。「あのね、人間っていうのはね。誰も毎日毎日、罪を犯すように生まれついているから、人の欠点やら、自分の欠点やらね、あまり責めすぎない方がいいと思って。神さまはちゃんと見ていてくれるから、安心してね。いってらっしゃい。あなたは、とってもかわいい清らかな性格をして、神さまも喜んでいらっしゃる」
そんな中で、ご自分の気持ちをこうおっしゃっていました。「いつも思う。人間て弱いようだけれど、本当は強いのかなって。いつも死と隣り合わせの闘病の中にいる綾子さんと、それを支える光世さんは、なぜ人に優しくできるのかなって。僕がもし、神さまに「夫妻と同じ人生を歩めるようにするから、どうだい?」と言われたら、おそらく、おろおろして、「返事は15年くらい待ってもらえませんか?」と答えるだろう。あれから、石の上にも3年の時が流れた。未だ、みちのくの玄関のこの地にて、24名の子らと共に、「人間」になる修行中である。」
本当の私に向き合う時、この私に命を与えて下さった神さまに向き合う時、神さまから、どうだい?と聞かれたら、おろおろして、ちょっと待ってくださいと答えている自分であるかもしれません。しかしそうであっても、神さまは、あなたをあなたとしてくださっています。天地創造の初めから、何もなかった時から、神さまにとって、私たちを、なくてはならない存在だと、認めて、受け入れてくださっています。その神さまに向かっていくことを通して、人は、人となっていきます。
祈りましょう。
