2025年10月12日礼拝 説教要旨
何度も何度も(マタイ20:1~16)
松田聖一牧師
神さまは、私たちに、本当に、いつも必要なもの、必要なことを与えて下さいます。それは先週礼拝後、鹿麗高原に向かうという時のこと、報告の中で、「是非お祈りください~高遠までの信号に1つも引っかからないように」、とお願いしたこともそうです。その後、教会を出発しましたが、そのお祈りはどうなったかというと、最初の沢尻の信号から、赤信号。次の信号も赤。伊那文化会館北側の、消防署の前の信号も赤。そこから伊那市内に降りて、国道153号線との交差点信号も赤、そこから橋を渡って、市役所の前の信号も赤。と言う具合に、次々と赤信号で止まることになってしまい、祈っていただいたことが、何度も何度も祈った通りにはなりませんでした。「祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じなさい」との御言葉がことごとく外れると言う感覚になりました。それでもナイスロードを高遠に向かって走り、トンネルを抜けて勝間に、そして長谷に辿り着いて、高原登山道入り口につきました。そこからやっと1800メートルまで登る山道には、信号は1つもありませんので、止まることなくスイスイと上に上がることができましたので、その部分はお祈りが聞かれた形になりましたが、その時ふと、高遠迄、何一つ信号に引っかかることのないように、が聞かれなかったのは、急ぐ気持ちを落ち着かせようとしてくださったからではないか?スピードを出し過ぎないようにと神さまが守って下さったからではないか?と思いました。そのために、信号が青のままじゃなくて、毎回赤に変わるということを、与えて下さったのではないか?と。そうこうしながら、山道には信号が何一つありませんでしたから、信号に1つもひっかかることもなく、スイスイと山道を登ることができました。鹿麗高原についた時には、もうコンサートが始まっていましたが、男性コーラスの皆さんの歌を聞くことができ、途中から何とか加わることができたことも何よりだったと思います。その時、楽器を抱えて入りますから、目立ちます。すると、伊那フィルの皆さんも、テレビ局の方も、伊那文化会館の方々も、口々に、「間に合った!良かった!」と本番の最中声をひそひそと掛けて下さったことでした。その時以外にも「お勤めお疲れさまです」とよく声を掛けて頂きますが、教会の礼拝を、皆さんはお勤めと思っておられること、そして何よりも、教会では毎週日曜日に礼拝を、雨が降ろうが、嵐になろうが、何があっても、やっているということを、知っていただく機会も、神さまは与えて下さったことでした。
その通り、教会の礼拝は、2000年の間、毎週、毎週日曜日に、どんなことがあっても守り続けています。もちろん、礼拝に出たくても出られない、個人的な事情がありますし、守られてきた礼拝の形もいろいろです。ある時には、会堂が使えなくなり、河原で礼拝を守られることもありました。迫害が激しかった時には、地下のお墓で、お互いに顔が見えないようにして、礼拝を守り続けました。そのようにしながら、どんなに厳しい状況であっても、たとい礼拝に来られる方がわずかであったとしても、守り続けて来たのが、礼拝です。
では、なぜそこまでして守り続けたのか?というと、神さまが毎週、毎週、礼拝を守り続けるようにと、命じておられるからです。たといその時、人がどう思おうとも、嵐が襲ってきたとしても、何があっても、神さまはその礼拝を守り、礼拝を支え、そこに人を招き続けてくださっているんです。
それは、神さまが、主人として、人々を神さまのぶどう園に招かれることも同じです。それは夜明け前に始まり、9時からも、12時からも、3時からも、5時からも、何度も何度も、神さまの方から、出て行って、ぶどう園で働いてくれる人を求めて、呼びかけ、招かれるんです。
ということは、神さまは、人がぶどう園で雇われるために、そこに招くために、ずっと働き続けているということではないでしょうか?それはここに出て来る人々のためだけではなくて、私たちのためにも、です。神さまは、私たちが神さまの許に導かれ、神さまのぶどう園で働くことができるように、呼びかけ、招こうとして働き続けておられるんです。
その働きの中で、夜明けに出かけて行って、招かれたその人々に、一日につき1デナリオンを報酬とすることを、約束されるんです。この1デナリオンとは、一日の労働賃金ということではありますが、それによって、その人が、その日、一日を生きられるというものなんです。つまり、1デナリオンによって、その人の、その日の命が支えられていくんです。だからその1デナリオンがなければ、もう生きることができなくなってしまうんです。しかもその1デナリオンを、一日だけ与えると約束されたのではなくて、「一日につき1デナリオン」ですから、その日一日の命を、支え、与えていて下さる神さまが、毎日、毎日支え続けてくださっているということではないでしょうか?
では、それを受け取った人々は、どういう人であったかというと、「何もしないで広場に立っている人々」なんです。ここで「何もしないで」という言葉の意味には、「仕事をしない」「怠けている」「役に立たない」と言う意味もあります。つまり、この人々の中には、仕事がしたくて、どんなに捜しても、仕事がない人もいれば、そもそも仕事をしたくないから、仕事をしない人も、あるいは仕事としては何らかのことについていたかもしれないけれども、怠けている人も、また仕事を一生懸命にしていても、仕事だけではなくて、家のことなど、他にいろいろしていても、周りからは「役に立たない」と評価されている人も、いるということなんです。しかし、そうであっても神さまは、その人々を、たとい何もする気が起こらない、誰からも必要とされず、人の役にも立たないと、と受け止めていたとしても、神さまは、受け入れてくださり、必要として下さり、その日一日を、神さまから必要とされている一日となっていくために、一日につき1デナリオンを与えて下さるんです。
そして「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と、12時、3時からの人々にも「同じように」してくださるんです。人々は嬉しかったと思います。自分が受け入れられ、必要とされている!その喜びがあったことでしょう。それはそうです。あなたがいなくちゃ困るんだ!いてほしいんだ!と言われたら、ああそうか!と思います。
さらには5時ごろにも行って見たときにも、そこにいた「ほかの人々」には、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」何もしないでいる理由、どうしてそうなのか?と、神さまは尋ねてくださるんです。その時、「だれも雇ってくれないのです」と答えていきますが、5時頃に招かれた人々は、何もしないで一日中ここに立っている自分たちのことを、気持ちも含めて、知ろうとしてくださっていると分かったと思います。そして、自分自身が受け入れられていると実感できるのではないでしょうか?
それは私たちにとっても、大切で必要なことですね。今の気持ち、そして今までの、気持ちも、なぜそうなっているのかという理由も、聞いてもらえたら、目の前のことが何も解決できていなくても、でも気持ちが軽くなることもあると思います。
ある音楽家の方とお話した時のことです。その方とスケジュールの打ち合わせをしたことがありました。するとスケジュールを書き込んだ手帳を出されて、いついつはご都合どうですか?と尋ねると、その日はダメだとか、いろいろ予定が入っておられて、それで空いている日に、セットできたのですが、その時、その方が、ぽつっとこうおっしゃいました。「僕みたいな音楽家もね。まだいい方だけれど、仲間の中にはね、スケジュールがほとんどない人もいるんだ…だから手帳には何も書いていない…だからスケジュールがあるだけ、埋まっているだけ、ましだ・・・」そうおっしゃっていました。その時、音楽で生活できる人というのは、ほんの一握りなんだということを、目の当たりにしたような感覚でしたが、自分で何かを人前で弾きたいと願っても、呼んでくれる人がいなければ、どうにもならないですし、仕事がないというのは、単に仕事がないという、それだけのことではなくて、そこには必ず気持ちや、理由があるということではないでしょうか?そういう意味で、なぜそうなのか?と聞いてくれること、聞いてもらえることは、凄く大切で、必要なことではないでしょうか?
この人々もそうです。何かをするにしても、しないにしても、やろうとしても、できないにしても、やりたくないから怠けているにしても、そこには何かがあったんです。それは目の前のことだけ、今のことだけではありません。その人、その人の中に、ある過去のこと、遡ってあったいろいろなことも、なぜ?と聞かれたら、出て来るものが、あるのではないでしょうか?
そこまで神さまは、聞いて下さるんです。そして何度も何度も出かけて行って、招いて下さり、夕方になって、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に、賃金を払ったとき、「5時頃に雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった」わけですが、その時、最初に雇われた人は、主人に「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平を言い出すのですが、そもそも最初から雇われた人たちは、与えられた1デナリオンを受け取っているんです。受け取っているということは、1デナリオンを受け入れているということなんです。それなのに、不平を言い、5時からの人と自分たちとを比べてしまうのは、「1日につき1デナリオン」を与えると言う約束に、気づけなかっただけではないでしょうか?
というのは、夜明けからの人も、9時からも、12時、3時、5時からの人も、雇われた当日は確かに、働いた時間としては、長短あります。だから夜明けから働いた人にとっては、自分たちがこんなに暑い中働いたのに・・・どうして、5時からの人は1時間だけなのに、同じ1なのか?と思うのは、自然なことです。しかし、神さまが与えると約束してくださった1デナリオンは、その日一日だけではなくて、ぶどう園にいる限りは、「一日につき」つまり、明日も、これからもずっと与えられていくものではないでしょうか?それは、神さまから、神さまと共に歩める明日があるということが、毎日、毎日、ずっと変わらず続くということなんです。ということは、雇われた当日は、違いがあっても、これからのずっとをトータルすれば、夜明けからの人も、9時、12時、3時、5時の人も、神さまと共に歩める明日があるということにおいては、結局同じであるということではないでしょうか?
それに、夜明けからの人は、気づけなかっただけなんです。それでも神さまは、不平を言ったからと言って、5時からの人に、この連中と言ってしまったからといって、夜明けからの人を雇うことを止めないんです。ひどい言葉を浴びせた人であっても、「友よ」神さまにとっては、あなたは友達だ!上下関係ではなく、横並びの友達だと、認めて、受け入れ続けて下さり、神さまと共に生きる毎日を、与え続けて下さるんです。
つい先日、お一人の方からメールが届きました。その方との出会いは、私が中学生の頃、三重県の津で、ご一緒に礼拝を守り、青年会やら、毎週土曜日に、礼拝に繋がるようにと教会で行われていた、教会喫茶、名前も、福音喫茶と付けていたそこにも、来られていた方でした。後に洗礼を受けられましたが、それからは、お互いに会う機会もないままでしたので、頂いた時にはびっくりしましたが、こんな内容でした。「ご無沙汰しております。私は今がんの緩和ケアを病院で受けています。私が20代だったとき、津市の教会では、毎週土曜日の集会や、青年会で大変お世話になりました。今では楽しい思い出です。ご自愛ください。私の文章が100万人の福音に載せていただけました。お恥ずかしいですが、文章を送りますので、失笑ください。またお会いしたかったです。主にありて。」
それで早速返事をしましたが、帰ってきませんので、今どういう状態かとも思います。それでも百万人の福音にあるということで、捜しましたら、1つの詩が掲載されていました。
「主と歩んだ人生」物心ついたころには 神さまがいつもいてくれた教会学校 大人に近づくにつれて信じることができなくなっていった思春期 信じても信じなくても 有って有るものが神さま そう認識できた青年期 コロナ禍を経験して 今までの平穏な日常の生活こそが 祝福された大切な日々であったこと 癌になって命には期限があることを知った今 残された日々を大切に生きて この世と創造主に感謝して 次の世界へ行くことを祈れますように 主と共に生きて主のもとへ
いろいろあったんだなと思いました。いつもいてくれたと信じられた時、それが信じられなくなった時にも、神さまはいつもいてくださったこと、そして神さまと共に生きて神さまのもとへ行くことができるということを信じて、祈っておられる詩だと思いました。
私たちにとっても「だれも雇ってくれないのです」誰からも雇ってはもらえない、誰からも必要とされていない、誰も、助けてくれない、誰も、自分の人生を支えてはくれないと思ってしまう時もあるでしょう。信頼して、頼っていい神さまなのに、信じることができず、頼れることができない時もあったでしょうし、これからもそれはあるかもしれません。だからこそ、神さまは、そんなわたしたちを捜し求めてくださっています。いやいや捜すのではなくて、喜んで、捜し続けて下さっているんです。そしていろいろあっても、神さまはその日その日に必要なものを、喜んで与え、毎日、毎日、神さまと共にある明日があることを、何度も何度も出かけて行って、与え続けてくださっています。
祈りましょう。