私たちには、大なり小なり、自分の中に、こうあらねばならない、こうしなければならないという、物差しがあると思います。それは、自分にとっては、これが正しいと思っていることでもあります。その正しさは、自分自身が受けたこと、両親や、周りの人から影響を受け、植え付けられたことが、大きいと思いますが、そんなこうあらねば、こうしなければならないという、思いが強ければ強いほど、それとは違う、外れたことを、目の当たりにした時には、自分にとっての正しいから外れていますから、いろんな反応があると思います。
それは、人々が、子どもたちをイエスさまに手を置いて祈っていただくために連れて来た時に、イエスさまの弟子たちが、「この人々を叱った」他の意味では、どなりつけて、厳しく訓戒した、ということに、現れているんです。びっくりしますね。人々は、子どもたちを、イエスさまに手を置いて祈ってもらうために、言わば、子どもを祝福していただくために、連れて来たのに、連れて来たその人々を、イエスさまの弟子たちは、複数で、叱った、どなりつけて、厳しく訓戒したのですから、大変な迫力と権幕です。
その理由として言えることは、子どもたちを祈って、祝福するために、連れて行くところが、イエスさまではなくて、祭司のところに、というのが当時、当たり前のこととされていました。だから、弟子たちもそれに倣って、子どもたちを、連れて行くところは、祭司だ!それが当然だ!それが正しい、という頭であったと思います。また、そうしなければ、子どもたちは祝福を受けられないとまで、思っていたからこそ、それとは違うことをした、その人々を叱ったということになるんです。でも、この時既に、弟子たちは、イエスさまの弟子になっているんです。イエスさまの弟子として、召され、招かれているんです。であれば、イエスさまのところに連れて来た、人々を、叱るなんてことをしたら、誰の弟子なのか?誰に従っているのか?という疑問と、イエスさまの弟子としては失格になるようなことを、しているのではないでしょうか?
またそれを目の当たりにした人々や、子どもたちは、弟子たちをどう見たのでしょうか?素朴に、あなたは、どちらに従っているの?あなたが従っているお方は、イエスさまじゃなかったんですか?どうして祭司なんですか?あなたは、イエスさまの弟子なんですか?祭司の弟子なんですか?どっちなんですか?祭司に従いたいのですか?そうであれば、祭司の弟子になったらいいじゃないですか?そんな問いが生まれてきます。
またこの場面を、別の角度から見る時、そこにいた子どもたちは、自分たちをイエスさまのもとに連れて来た、その人々が、弟子たちに、叱られ、怒鳴りつけられたことを、目の当たりにしています。叱られた人の中には、両親や、親戚もいたかもしれません。そんな人々が、自分たちのことを、大切に思い、イエスさまに手を置いて祝福していただこうとしたのに、その思いと願いとを、へし折るような行動に出た、弟子たちに、どんな思いを抱いたことでしょうか?そして怒鳴りつけられた、その人々を見て、子どもたちも、物心ついていたら、それはショックでしょうし、深く傷ついたことでしょう。その傷は、大人が考える以上に、深いと言えるのではないでしょうか?
子どものトラウマを見過ごすな!その後の人生を左右する心の傷とは、というタイトルで、こう記されています。「生きていれば辛いことや傷つくことにたくさん直面しますが、なかにはいつまでも癒えない心の傷=トラウマとして残り続けることもあります。なかでも幼少期に背負ったトラウマは、就学・就職から寿命まで、人生のあらゆる局面に影響するとのこと。子育て中の方には見過ごせないトピックだと思いますが、かつて「子ども」だった私たち大人にとっても他人事ではないでしょう。・・・そしてトラウマは決して侮ってはならない」
と結んでいますが、その通りです。大人にとっては、大したことないと思うものでも、子どもにとっては、大変なこともあります。そのことで大きな傷を負い、引きずっている子どももいると思います。私たちもまた、子どもの頃に受けたことを、未だに引きずっていること、そして大人になった時、あるいは親になった時、自分が、受けたことを、今度は、逆の立場になって、子どもにしてしまったこと、それで子どもが傷ついて、苦しんで、自分でもどうしていいか分からなくなってしまったこと、そういう傷を負わせてしまったことも、あるのではないでしょうか?それはこの後に出て来る、一人の青年も、ペテロもそうです。彼らにも、子どもの頃がありましたから、青年は青年なりに、ペテロはペテロなりに、同じ経験を味わい、それを背負ってきているのではないでしょうか?
そんな中で、イエスさまが、「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」とおっしゃられる言葉をよく見ると、誰に向かって言っているかは、書かれていませんから、弟子たちに、とか、人々に、とか、その相手は出て来ないんです。でもそれは誰に対してでもないのではなくて、弟子たちにも、人々にも、そこにいた子どもたちにも、1人の青年にも、またその周
囲にいた人々にも、誰にでも語っておられる言葉ではないでしょうか?
ということは、誰もが、イエスさまのところに、子どもたちを連れて行くことを、妨げている、何らかの妨げがあるということなんです。それは妨げるようなことをしたり、言ってきたことだけではなくて、逆に妨げるようなことを、自分がされたり、言われたりしたことも、あるということではないでしょうか?その結果、誰もが、妨げるものを持っているということでもあるんです。
その1つが、この青年に守りなさいと言われた「掟」という、神さまが命じられた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」に対して、それらの掟を、「そういうことはみな守ってきました」と答えた青年が、神さまが命じておられる十戒の全てを守ってきましたというところに現れているんです。というのは、「みな守ってきました」は、彼自身が、この掟すべてを完全に実践してきたと言う意味ではなくて、見張って、監視してきましたと言う意味で答えているからです。つまり、その掟、決まりを、自分がその通りやろうとしていたのではなくて、その掟そのものに向き合ってこなかった、いや、向き合えなかった何かがあったということなんです。
それは、この掟を守れなかったら、叱られる!罰せられる!だからそうはなりたくない、傷つきたくないという思いや、そもそもこの掟はすべて、人はどう生きるか?どう生きたらいいのか?という積極的な生き方を示しているのに、それとは違う内容、あれするな、これするな!を、両親や、いろんな人を通して、教え込まれ、刷り込まれてきたのかもしれません。だから守れなかったら、自分が欠けた人間と見なされ、自分が失格者のようにも受け止められてしまったことでしょう。だからこそ、当たらず触らずで、ただこの掟を見張り、監視してきましたと言う意味で、「守ってきました」と、答えていくのではないでしょうか?
それは、イエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」と言う1つの掟についても、具体的に、隣人を愛するという1つの行為として、「行って持ち物を全部売り払い、貧しい人々に施しなさい」と、彼自身が向き合えるように答えられた時、「悲しみながら立ち去った」のは、彼にとって、「行って持ち物を全部売り払」うことを、ただ監視するとか、見張ると言うわけにはいかなくなったし、それを守ることができない、悲しみを背負いながら、それによって自分が欠けた人間である、出来ない人間であると評価されるのが、怖いから、だから「立ち去った」んです。
それは、弟子のペテロもそうです。ペテロはイエスさまに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と何もかも捨ててあなたに従ってきた!と言いながらも、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と続くのは、何もかも捨てて来ましたと、先ずは認められたい、欠けているとは、評価されたくないんです。そのために、最初から防衛線を張っていくんです。でも、本心はまだ欲しいんです。だから捨てて来たそのご褒美を求めて、「何をいただけるのでしょうか」があるんです。
では私たちはどうでしょうか?今すぐに、何もかも捨てて、何もかも手離すことが現実に出来るのか?と言うと、そうではないですね。やはり捨てられない、手離せないものがあります。それでも何もかも捨てて従いました、と答えて、認められたいと思います。守ってきましたと答えて、受け入れられたいと思います。しかし、現実は、捨てきれていないし、守り切れていません。そういう意味では、欠けています。欠けた者です。でも欠けているのに、欠けた者にはなりたくない、できる人間になりたい、できる人間でありたい、ということを、握りしめ続けているのではないでしょうか?それが、「まだ何か欠けている」ということなんです。だからこそイエスさまは、握りしめ続けているその手から、手離すということへと導かれるんです。でもそれは、握っていたものが、自分の手から離れて行くことですから、何もかも失うことになり、余計に欠けた者になるじゃないかと思われるかもしれません。
しかし、手離すことによって、与えられるものを受け取れる手が、与えられていくんです。私たちの手も、そうです。何かをぎゅっと握りしめていたら、握りしめているものしか、自分の手の中にはありません。それを失いたくないから、欠けた者になりたくないからです。でも、その手を離した時、今まで握っていたものが、手から離れて、手のひらが開きます。その結果、受け取ることができる手に、変わります。
一昨年、婦人研修会で講師としてご奉仕くださった小島誠志先生の本「夜明けの光」の中に、日野原重明さんというお医者さんの本の中に出て来る、ある年を取られた方の祈りを紹介しながら、こう記されていました。
こんな意味の祈りでした。これまでは自分は、自分にもいくらかの力があり、人には何かを分かつことができた。しかし、やがて自分は年をとり、たくさんの助けや世話を受けなければならない時が来る。その時に、率直に感謝をして、その助けを受け取ることができるように。そういう祈りでした。人のために何かができるという恵みもあるのです。人のために与えることのできる恵みというものもあるでしょう。しかし、他方、与えられるものを率直に感謝して受け取る。そこにも恵みがあるのです。これは私たちが老年になるということについてだけ当てはまるのではありません。私たちは、自分にできることがあり、また人にしてもらなければならないことがある存在です。それが、当たり前の人間の姿です。ある時に、私たちは倒れるかもしれない、病気をしてしまうかもしれない。今まで出来ていたことが、ある時、できなくなることもあるでしょう。その時に、助けを率直に受け取る。そのことによっても、私たちは豊かにされるものだということを、学ばなければならないと思います。人から助けられることを、あってはならないことだと考えてはなりません。自分は自分でやっていく、何でも自分でやらなければならないと考える必要はないのです。私たちは、他を補うものを与えられている存在だけれども、同時に、補われなければならない存在でもあるということを、知らなければなりません。私たちは人を助ける何かを持っている、けれども、同時に助けられなければならない存在でもあることを、認めて行かなければなりません。それが、私たちが神の前で自分自身を認めるということです。そのようにして、人間は与えながら、与えられながら、育てられていくのです。
欠けた者にはなりたくない、欠けた人間にはなりたくない、出来ない者にはなりたくない、出来る者になりたい、ということを、握りしめていた、その手を開いた時、その思いが、手から離れて行きます。その時初めて、そこに与えられ、
補われていくことを、受け取れる恵み、欠けた自分自身が受け入れられて、助けられていく恵みがあります。それが、神さまの前に豊かにされ、神さまのいのちを受け継ぐ者になっているということなんです。
祈りましょう。