2025年9月28日礼拝 説教要旨

何回赦す?(マタイ18:21~35)

松田聖一牧師

 

今日の聖書のテーマは、赦しです。赦しというと、その人を、赦すこと、何かの物事、出来事を赦すこと、人のその行為を、赦すことといった、ありとあらゆることすべてに、赦すということが、関わっていると言えます。

 

さて、その赦すということは、一般的にはもちろん、それは大切なことだし、素晴らしいことだし、良いことだと、受け止められています。その通りです。では、その赦しを、私たちはどう受け止められるでしょうか?

 

3人の牧師先生によって、書かれた「心に残るE話」という本の中に、「むしが良すぎる?」という小見出しで、こう紹介されています。

 

白状しますと、この本の「生まれる」から「愛する」までの20編の原稿を書く中で、最後まで書くことができなかったのが「赦す」でした。あとの19編は自分が経験したことや、人から聞いたり、読んだことを参考にして書けばよかったのですが、「赦す」の段になってハタっと筆が止まってしまったのです。これまでの人生を顧みて、いったい心から人を赦したことがあったのだろうか。答えは「ノー!」です。人を赦したこともないのに、それについてもっともらしいことを書くのは、牧師として欺瞞ではないか。そう思うと締め切りが過ぎているのに筆が進みません。そうかといって、白紙のままで出すわけにもいかないし、それに他のお2人はとっくに原稿を出しているし・・・。こうなったら「スミマセン、お赦しください」と謝る他はない。相手は優しい牧師だ、赦してくれるに違いない!・・・

 

とある内容は告白とも言えるかもしれません。そんな中で、「一体心から人を赦したことがあったのだろうか。答えはノーです。」は、私たちと無関係かというと、そうではありません。人を心から赦したことがあったかと問われたら、できませんでした、ということが、私たちにもあるのではないかと思います。なぜかと言うと、赦せないことがあったその時、その人を赦せなかったからです。赦せなかった自分がいたんです。じゃあ、赦せないままになっていることを、持ち続けることで、気持ちが晴れ晴れするかというと、すっきりしないですね。何かを引きずっています。というのは、心のどこかで、赦すことは、大切だし、素晴らしいと、分かっていますから、赦さなければならない、赦すべきだと思っています。でも、現実には、その通り赦すことが、なかなかできないでいると、それでも、赦すべきなのか?どうなのか?という矛盾、葛藤の中を、揺れ動いているからではないでしょうか?

 

その矛盾と葛藤は、ペテロがイエスさまに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」という、問いの中にも、現れているのではないでしょうか?というのは、ペテロも、赦すことが、どれほど大切で、素晴らしいことかということを、分かってはいても、それでも赦すことができない、赦すべきとどんなに思っても、赦せないでいる、その兄弟のことが、頭から離れなかったからではないでしょうか?でもイエスさまに従い、イエスさまの弟子となった後、イエスさまからは、神さまを愛すること、自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさいと教えられていきます。それもその通りだと受け止めていったことでしょう。しかし、現実に、自分に対して、罪を犯した、その兄弟を、心から赦せるかと言えば、その兄弟は、自分に対して、罪を犯すという、とんでもないことをしたんですから、愛しなさいという言葉に従おうとしても、赦すべきだ、赦さなければならないと、頭では分かっていても、現実は、それができないでいる、自分の中で、それでも赦すべきか、赦さなければならないのか、という、日々があったのではないでしょうか?

 

そういう中で、イエスさまに「何回赦すべきでしょうか」と問うのは、ただ単に、何回赦すべきで、それ以上は、赦さなくてもいいのかという、ことだけではなくて、ペテロ自身の、赦すべきだ、赦さなければならないと、分かってはいても、それができない、でも、赦すべきだ、いやできないという、揺れ動き、葛藤を、この問いは、イエスさまに訴えて、ぶつけている問いでもあるのではないでしょうか?

 

でも自分の中では、その答えが見つからないんです。だから、答えが欲しいし、悩んでいるし、苦しんでいるんです。そこで「7回までですか」と問うのは、気持ちが晴れ晴れするわけではないけれども、7回までは赦すべきで、それ以上は、もう赦せないし、赦さなくてもいいという答えを求めて、イエスさまにぶつけているのではないでしょうか?しかしそういう、7回までという赦しであっても、自分に罪を犯したその兄弟を、7回も赦せるということは、凄いことだと思います。たとい1回でも、凄いと思いますし、1回でも赦そうとする時、本当に苦しいと思います。なぜなら、兄弟がわたしに罪を犯した、その兄弟を1回でも赦すことは、自分が、その兄弟から受けた傷、ダメージを思い出すからです。だから1回でもダメですと言う答えも、当然出て来ると思います。そうであっても、7回までというのは、ペテロにとっては、赦したいから、ではなくて、赦すのは嫌だけど、赦すべきだから、苦しいけれども、ギリギリの7回と言ってもいいのではないでしょうか?

 

その問いに、イエスさまは、「7の70倍までも赦しなさい」と答えるんですが、この7の70倍と言う意味は、その数字をそのまま計算すれば490回となります。それは、ペテロに7に対して、7回ではまだまだ足りないから、7の70倍、490までは、赦すべきで、490を越えたら、もう赦さなくてもいいということではなくて、「7回までですか」にある、「まで」も、「7の70倍までも」にある「まで」という、この2つの「まで」に込められた意味は、制限付きということではなくて、何度も何度もという、無制限の、どこまでも、際限なくという意味で、使われているからです。つまり、ペテロの「まで」という問いにも、イエスさまの、7とか7の70倍「までも」という答えにも、それぞれ数の違いはあっても、結局は、赦しというのは、無制限なんだ、どこまでも際限なく、赦すことが、赦しだということが、現されているんです。ということは、ペテロだけでなく、イエスさまの中にも、本当の赦しとは無制限だ、ということから、かけ離れた、大きな矛盾を抱えているということではないでしょうか?

 

それでは、ペテロとイエスさまの矛盾は、どう違うのか?どういう関係なのかについて、続く譬えを見ると、王に1万タラントン借金をしていた、返済ができなかったこの家来が、王の前に連れて来られた時、持っているものを全部売り払って、返済するようにと命じられますが、それは王から借りたものは返すという意味では、当然のことです。ではそれを誰が命じたのかというと、「自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じた」のは、王ではなくて、「主君」なんです。

 

この主君と、王の関係は、どういう関係かというと、王は、王と訳される言葉が使われていますが、それに対して、主君は、主とか、神さまとも訳される言葉です。ということは、王から借りた1万タラントンという、到底返しきれない借金を、主君が、その借金を返すように家来に、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」というのは、王に代わって、主君である神さまが、家来に、返済を命じているということになるんです。そのために、自分も、妻も、子も、持ち物も、全部売ってということは、神さまが、家来であるその人も、家来の持ち物も、全部売る対象としていますし、命じられた通りにすると、家来は、何もかも失います。そうなると家来は、自分が自分でなくなり、自分を失います。それでもそうせよと命じて行くのは、自分を支えていた、これまでの持ち物も、何もかもみな失うことを通して、これまで自分を支えていたものが、実は、自分を支えるものではなかったということに、まずは気づかせようとしているのではないでしょうか?

 

そういう状態になって初めて、家来は主君に「ひれ伏」し、主君である神さまに向かって、家来は礼拝をささげる者へと、変えられていくんです。そして、その家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」わたしは必ず返しますと、待ってくださいと主君である神さまに「しきりに願った」時、この家来が到底返すことのできない、1万タラントンの借金を、「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」つまり、主君である神さまが、王に代わって、ただ憐れに思って、借金を返せたわけではなかった、この家来の借金を帳消しに、借金を免除してくれたんです。それはまたこの家来が、借金を返せなかったという罪を、赦してくれたということでもあるんです。そのために主君が、してくれたことは、王にしていた返すことのできない借金を、主君が、返せなかった家来の代わりに請け負ってくださったと言うことなんです。つまり、赦すと言う時、口で赦しますと言うだけだったら、借金1万タラントンは、そのままです。それでは赦されるものにはなっていません。そういう意味で、赦すためには、赦されなければならないものを、赦すための代償がいるということなんです。その代償を主君である神さまであるイエスさまが、家来の代わりに負ってくださったからこそ、「借金」である罪が免除され、赦されるということではないでしょうか?

 

それが神さまであるイエスさまの、負われた矛盾ではなかったでしょうか?イエスさまは神さまです。聖なるお方であり、罪も、借金も全くないお方です。赦されなければならないものは、何一つないんです。ところがイエスさまは、その家来を赦すために、その家来に代わって、返すことができない借金、罪を代わりに負ってくださいました。それが十字架の死です。しかしそのことは、神さまにとっても大きな矛盾です。愛する独り子イエスさまを十字架に付ける必要は本当はありません。でも十字架に付けたことを赦されたのは、その家来の借金を代わりに負うことができるのは、家来以外の誰か、他の人に負わせることができないからです。というのは、神さまにとっては、家来も、家来以外の人も、この後出て来る家来の仲間も、愛する人です。王さまであれ、他の人であれ、神さまにとっては、借金がそのままであれば、王は1万タラントンと言うとんでもないお金を失ったままです。家来は、家来で、すべてを失ってしまいます。それを、家来以外のほかの人に、すべてを負わせることができるかというと、また同じことの繰り返しになってしまいます。それは神さまが、すべての人を愛し、大切にするということから、かけ離れてしまいます。それこそここにも矛盾が出てきてしまうんです。じゃあ誰に負わせるのか?人に負わせることができないからこそ、神さまであるイエスさまにしか負わせるしか方法がないんです。それも神さまにとっては、喜んで受け入れることができることなのか、というと、とんでもありません。愛するイエスさまを十字架に付け、その上で命を、その借金の、別の意味では、罪の代償を支払うということを、認め、赦すなんていうことは、たといそうするしかないと分かっていても、神さまの最初からのご計画であっても、それは愛するイエスさまを死なせるということですから、とんでもありません。矛盾だらけです。でもそうしなければならなかったのは、ただ一つ、家来も、他の人々も、神さまは愛しておられるからです。大切だからです。だから家来の借金を、他の人に負わせるのではなく、神さまであるイエスさまに、負わせていかれたんです。

 

そこまでしてくださったからこそ、家来は赦されたんです。それなのに、赦された家来は、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会うと、「捕まえて首を絞めるんです。首を絞めたら死んでしまいます。その仲間を家来は殺してしまいます。それでもなお、「『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張っていき、借金を返すまでと牢に入れた。」とありますが、この家来は主君に対して、したことと同じことを、100デナリオン借りた、仲間がこの家来にしているのに、どうか待ってくれ。返すからと言っているのに、家来は赦そうとはしなかったんです。その家来に、主君は「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

 

この家来は主君に赦していただいたんです。せっかく赦してもらったんです。帳消しにもしてくれたんです。待ってくださいとの訴えを、憐れんで受け入れてくださったんです。そうして赦されたのに、家来は自分がどんなにか多く赦されたのに、それに比べて、小さな100デナリオンの借金をしている仲間を赦せなかったんです。赦されたのに、赦せない、それは家来だけのことではありません。私たちも、神さまから、どんなに多く赦されているでしょうか?ゆるされないはずの借金を、どんなにか帳消しにしていただき、イエスさまがその代償を支払って赦されたのに、それに比べて小さな借金を借りた、同じ仲間を赦せないことが、あるのではないでしょうか?その姿を、赦してくださった主君は、赦さなかったんです。ただし、仲間を赦さなかった家来を赦さなかったのは、その通りですが、その時主君は「怒って」すなわち、感情を突然爆発させるような怒り方ではなくて、しっかりと怒ったということなんです。それは家来の人格を全部否定するために、叱ったというよりも、この家来が、赦して頂いたのに、同じ仲間を赦せなかった、というそのことを、しっかりと感情的にではなく、叱っているんです。

 

私たちにも、叱られた時があると思います。その時、自分が全部否定されたかのように、自分が全く赦されないと受け止めてしまうこともあるかもしれません。でも叱られたのは、全部に対してではなくて、そのことを叱られたのではないでしょうか?そして叱られて、はっとさせられ、気づかされていくということを、何度も何度も繰り返して来たのではないでしょうか?家来もそうです。確かに、叱られて、借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡されます。それでも、主君は、この家来の全てを否定したとは書いていないんです。しかし、主君は、この家来が、仲間を赦さなかったことを、しっかりと叱ったんです。その時、また自分が赦されたことを、忘れてしまっていたことに気付かされ、自分が赦されたことに、家来はまた気づかされていくのではないでしょうか?ただ叱られることは、痛いことです。いやなことです。それでも主君である神さまは、何回でも、何度でも、しっかりと叱って、赦してくださるんです。なぜならば、神さまであるイエスさまは、神さまに赦して頂いたのに、それでも、赦せないでいる、その姿を、放ってはおけないからです。だからこそ、そのことを、叱ってくださるんです。

 

3年B組金八先生というドラマがありました。その第2作目に、他の中学で問題を起こして、警察のお世話になった生徒たちを何とかして、連れ戻そうとして、金八先生を始め、先生方も、保護者の方も話し合いを重ねました。そのために奔走しました。何度も警察と交渉し、相手の学校の先生方とも話し合いを重ね、ようやく帰って来た、生徒たちを前にして、金八先生は、思いっきりほっぺたを叩いて、烈火のごとく叱った時、すぐに、生徒たちを、ぎゅっと抱きしめて、こう言われたのでした。「貴様たちは、俺たちの生徒だ!忘れるなよ!」ぎゅっと抱きしめながら、やさしくはっきりと言われたのでした。今は、ほっぺたを思いっきり叩く、殴るということは、ドラマの中でもできなくなっていますが、当時は、アドリブで、シナリオには書いていなかったとのことですが、でもしっかり叱られ、しっかりと抱きしめられた、その生徒は、金八先生に抱きしめられながら、演技ではなくて、ホントに泣いて謝っていました。

 

何回赦す?神さまは何度でも赦してくださいます。そして、赦されたことを、忘れてしまった時には、叱りながら、赦されたことに、何度も何度も気づかせてくださいます。祈りましょう。

説教要旨(9月28日)何回赦す?(マタイ18:21~35)