2025年9月7日礼拝 説教要旨
わたしのために(マタイ13:24~43)
松田聖一牧師
奈良県の教会にいた頃、その教会では家庭集会が大変盛んでした。ある家庭集会では、そのお家の方の、ご近所の方々が集まっていました。その中に、区長さんがおられ、長年農業を続けて来られた方も、家庭集会に来られていました。そんな家庭集会での礼拝が終わり、お茶の時間が始まります。するとその話題の中心は、来られた方々が、経験した戦争の話題でした。その時代を生きた方々が、まだお元気だったころでしたから、その話に花が次から次へと咲いて、あれもあった、これもあったと言う具合で、終わるのが大体夜の10時半を回っていました。遅くなる時には、11時くらいまでやっていたのではないかと思います。そこで教えて頂いたのは、紀元2600年の歌とか、機銃掃射は怖かった~とか、生々しい体験談でした。やがて、お米の配給の話題になりました。そうするとまた、大変でしたなあ~お米が食べられなかったのは、ホント大変でしたわ~というやり取りの中で、お一人の方が、その区長さんにこうおっしゃられたのでした。「区長さんは、農家やから、お米には困らしませんでしたやろ?」すると、その区長さんは、烈火のごとくこうおっしゃられたのでした。「そんなことはない!取れたお米はほとんど供出させられて、手元には種もみしか残らんかった!百姓でも、コメを食べるなんて、なかなかできんかった!」と、返されたのでした。すると言ってしまった、その方はしゅんとしてしまわれましたが、そのやり取りを伺って、供出というのは、そういうことなんだと知ったことでした。
つまり、供出というのは、農家の方々の思いに反して、お米を出さなければならないということです。ストレートに言えば、一生懸命、丹精込めて、苦労して作ったお米なのに、本当は自分たちも食べたいのに、持って行かれるんです。別の見方をすれば、お米という、食べ物の中の主食であり、農家の方々にとっても、またそれを食べる人にとっても、中心の食べ物が、持って行かれるということでもあるのではないでしょうか?その結果、農家の方々の手元に残るお米は、次の年に蒔く種もみという、大切な、なくてはならない中心のものしかなかったと言えるのではないでしょうか?
そういう意味と背景が、供出にはあります。そして、その供出すると言う意味が、イエスさまの、別の譬えを「持ち出して」という、この言葉の意味にもあるんです。ということは、イエスさまが、別の譬えを「持ち出して言われた」とは、イエスさまの思いに反して、無理やり、語られたということと同時に、その語られた譬えは、イエスさまが、ここで一番伝えたかったことの中心が、そこにあるということではないでしょうか?
そしてその中心が、「ある人が良い種を」蒔いた、その畑に、敵が来て、「麦の中に毒麦を蒔いて行った」とある中の、麦の中のことを指しているんです。というのは、「麦の中」とあるこの言葉は、麦の中央とか、麦の真ん中に沿って、と言う意味があるからです。つまり、敵が、毒麦を蒔いたところは、麦のあちこちに蒔いたということではなくて、麦の真ん中に沿ってですから、本当に、その麦の中央、中心であるんです。
ではその中央とか、真ん中に沿ってというのは、毒麦の蒔かれた場所だけのことなのかというと、「真ん中に沿って」の意味として、使われている聖書の言葉が、ヨハネの黙示録というところの言葉に出てきます。それが、この言葉「玉座の中央におられる小羊が、彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである」にある、「玉座の中央に」の「中央に」という言葉と、毒麦が蒔かれた「麦の中」の「中」とが同じ言葉なんです。ということは、玉座の中央におられる小羊とは、イエスさまが神さまであるということですから、毒麦が蒔かれた中央と、同じ中央、真ん中に、イエスさまが神さまとして、そこにおられ、彼らの牧者となり、命の泉へ導き、どんなに悲しい目にあっても、その目から涙をことごとく拭ってくださるということなんです。
でも、毒麦だけを見たら、毒麦ですから、良い種がまかれた畑に、とんでもないものが蒔かれています。その結果、僕たちが言う通り「では、行って抜き集めておきましょうか」すなわち、根こそぎ引き抜き、集めて起きましょうか、というのも、僕にとっては、せっかく麦を蒔いたところに、敵が来て蒔かれた毒麦を、一刻も早く、根こそぎ引き抜きたいですし、よりによって、こんなところに、毒麦が蒔かれた!という、悔しい思いも、嫌な思いもあると思います。
一刻も早く、根こそぎ抜きたい!というのは、草抜きもそうかもしれませんね。今年は特に暑くて、時折雨が降って、草が本当に育ちやすい夏です。時々、夜に、草が生えているところを見ると、夜は、昼間の草とは、全く違って、草が本当に天に向かって、びしっと伸びています。昼間ですと、あまりそんな感じはありませんが、夜は全然違います。きっと夜に草はどんどん伸びていくということなのでしょうが、そんな草を抜く時、草が大きく伸びてから抜くのは、大変ですね。力がいります。でも、その草が、まだ小さい草ですと、すぐに抜けますから、出来るだけ小さいうちに、草を抜きたいと思うのは、自然なことではないでしょうか?ただですね。根っこから抜く時に、草は、本当に力強いなと思うのは、その根っこを抜く時に、その草の種が、そこからまた地面に零れ落ちていくんです。だから、その種から、また草が生えてきます。そういう意味で、草は抜いても抜いても、また生えてきますので、草抜きは、イタチごっこというか、きりがないですね。でもそのまま草を放っておいたら、伸び放題になります。しかし、その草がそこに生えて、伸びて、広がっていくのは、大きく言えば、草のはえているその土地を、森にしようとしているんです。つまり、草は、その土地を、木が育ちやすい土地に変えようとしているんです。ですので、森になるのには、もちろん百年単位の年数が必要ですが、一旦安定した森になると、大芝高原の森のように、草が生えなくなってくるんです。しかしそうは言っても、草が目の前に生えて、伸びているのは、気になりますから、根っこから抜いて、草がない状態にしたいというのも、その通りだと思います。
僕たちも、そうです。そして毒麦を蒔いた敵も、根こそぎ抜きたいという思いもあると思います。ところが、その僕たちに対する主人の答えは、「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」なんです。
その理由として言えることは、まずは麦と毒麦の関係を見る時、毒麦には毒があっても、麦が毒麦を食べるわけではありません。ということは、そのままにしておいても、麦にとっては、毒麦が直接危害を加えるものにはならないんです。もう一つのことは、毒麦と言うこの言葉には、牧草と言う意味もあります。ホソムギと呼ばれるものです。また造園用の芝草としても利用されます。ということは、この毒麦は、1つは家畜のえさになるんです。そしてその牧草は、牛や馬や、羊といった家畜にとっては、美味しくて、必要な食べ物です。また造園用の芝草であれば、庭が芝草によって、綺麗になりますから、造園にも、必要なものです。
しかしそうであっても、麦を食べるのは、その麦を植えた人、またその麦が収穫された後、その麦を食べる人ですから、その麦の中に、毒麦が入っていたら、大変なことになります。その人にとっては、麦はいいけれども、毒麦は悪なんです。毒麦を蒔いた人は、敵なんです。イエスさまが悪魔だと言われたら、それもその通りと受け止められるんです。だから、抜き集めておきましょうか、が出て来るんです。しかし、イエスさまは、今すぐ抜こうとは言われないんです。育つままにしておきなさいなんです。でもそれは、良い種を蒔いた人にとっては、自分の思いではありませんし、思い通りにはなっていきません。
それでもイエスさまは、その人にとって、僕たちにとって、思い通りにはならないということの、真ん中におられて、毒麦が蒔かれた、その真ん中の上に沿って、丁度、からし種のようにどんなに小さな種であっても大きく成長するように、またパン種のように、そのパンに混ぜ、全体が膨れるとおっしゃられたように、思い通りにならないということでさえも、用いてくださり、大きく膨らませてパンになっていくように、また大きく成長させてくださるように、祝福へと変えて下さるんです。
片柳弘史という方の「心の深呼吸~気づきと癒しの言葉366」という本の中に、こんな一文があります。
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
思った通りにならないことも、それは自分の思った通りにならないということだけではなくて、自分の思った思いをはるかに越えたところにあるものと出会っているということなんです。そこにこそ、神さまであるイエスさまのご計画があります。そしてそれは、私たちの思いを遥かに超えた、大きな祝福となって、思った通りにならないことが、用いられているということでもあるんです。
良い種を蒔いた畑の中に、毒麦が蒔かれたことも、抜き集めておきましょうかと言っても、育つママにしておきなさいということも、自分の思った通りのことではありませんでした。でも、そのままにはしておかれないイエスさまが、思い通りにならなかった、その真ん中に沿って、そこにおられます。それらのことは皆、私たちのため、私のために大きな祝福へと導くためにあるんです。
祈りましょう。