2025年8月31日礼拝 説教要旨
それでいいのか(マタイ12:43~50)
松田聖一牧師
あるお店の店先で、並べられている椅子に、こんな張り紙がありました。「どうぞおすわりください」、お客さんに、休みたい時には、どうぞ座ってくださいという張り紙ですが、実はその椅子は、売り物です。ちゃんと値段が書いてあるんですね。でも「どうぞお座りください」なんです。いいお店だなと思いました。ただですね、いくら座ってもいいとは言っても、閉店時間が来ると、座れなくなります。それは他の休憩所もそうです。営業時間というのが、決まっているところも多いですから、休める場所があっても、いつでもと言うわけではなくて、時間が限られていますよね。
そして休める場所というのは、休みたいと思っておられる方にとって、居心地がいい場所です。リラックスできて、思わず眠りたくなるような、ところでもあります。ある面白いお話ですが、柏木哲夫という、淀川キリスト教病院ホスピスでチャプレンをされていた先生の講演会の時、講師の先生が、こうおっしゃいました。「皆さん、今日はお出でくださりありがとうございます。ただですね、今は午後の時間ですから、皆さんの中に、眠くなられる方がいらっしゃるかもしれません。そういう時には、どうぞゆっくりお休みください。1つお願いがあります。寝て休んでいる時には、頭を横に振らずに、頭を縦に振っていただけたら‥‥と思います。横だと、講演のお話に、そうではない~という感じになりますが、縦ですと、そうかそうか、とうなずいてくださっているように感じますので、こちらとしてはお話がしやすくなりますので、是非、横ではなく、縦に振っていただけたらと思います」と言われて、講演が始まりました。しかしそういう寝てもいいと言われた講演会でも、いつまでも、寝ていていいと言うわけではなくて、講演会が終わったら、その場所を出ないといけません。
そういったいろいろな、目に見える休める場所というのは、ずっと、いつまでもいい、と言うわけではなくて、限りがあると言えるのではないでしょうか?そうであっても、人は休みを必要としていますから、休みたい時には、休める場所を求めていくんです。
「汚れた霊」も、そうです。この霊にとって、心地良く休める場所を、求めて捜しているんです。この時の霊の動き方を見ると、「人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探す」とありますから、それまでいた「人」が、その霊にとっては、休む場所ではなくなったので、それで、出て行って、砂漠をうろつき、探すんです。その具体的な理由は分かりませんが、少なくとも、それまでは休む場所となっていた人が、霊にとっては、居心地が悪くなってしまったか、あるいは、もっといい休める場所がほしい、ということで、探すのでしょうか?いずれにしても、この霊は、人から「出て行く」んですが、次の休む場所が見つからないので、砂漠をうろついているんです。その結果、汚れた霊にとっては、居場所がない、休みたくても、休む場所がない状態になっているんです。
休みたくても、休む場所がない‥‥それは、大変です。阪神大震災が起こった後、家が焼けたり、壊れた方々が、一斉に学校といった施設に避難してこられました。その数は、何十万人でしたから、学校においては、体育館だけではなくて、特別教室など、とにかく空いているところに、布団を抱えて、あるいははんてんを着たままといった、それこそ着の身着のままに、避難者が殺到しました。そこでは、プライベートも何もない、暖房もない、という、過酷な生活でした。ですから、体調を崩す方も多く出て、そこで亡くなる方もいらっしゃいました。また学校に入りきれない方は、運動場で野宿のような生活をされたり、車の中で生活される方もいました。でも当時は、お互いに自分のことで精一杯でしたから、周りのことを考える余裕がなかったと思います。そんな中、あの学校の校長先生は、当時のことを振り返って、こうおっしゃっていました。「学校の先生も家が壊れたり、焼けたりして、被災者でした。しかし、そんな中で、自分のことも大変なのに、学校に避難してこられる方々のために、日々奔走していました。」そんないろいろなところでの避難生活の中で、なかなか仮設住宅の抽選に当たらないとか、人によっては、何度も何度も抽選を申し込んでも、ことごとく外れてしまう方もおられました。本当に不安で、落ち着かなかったと思います。
それが「休む場所が見つからない」ということの、実相ではないでしょうか?そこで、「出て来たわが家に帰ろう」と言って、この霊は戻るんです。戻ってみると、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」ということですから、この霊にとっては、我が家が、空き家ではあるけれども、掃除がなされて、美しくなって、整えられて、いつでも住めるような状態になっていたということなんです。これはこの霊にとっては、一筋の光が差したようなことではなかったかと思いますが、この家が、「空き家」になっていたのは、この空き家と訳される言葉は、もともと学校、スクールと言う意味ですから、その学校に行って、講義とか、勉強に専念するために、あるい従事するために、出て行ったので、空き家になっているということなんです。では、具体的何に専念していたのかというと、祈りに専念するためです。なぜかと言うと、この言葉が、別の聖書の箇所には、祈るということに結びついて、使われているからです。つまり、この家に住んでいた、その人は、ただ出かけたから、家が空き家になっているということではなくて、その人は、祈ると言うことに専念するために、出て行ったので、空き家になっているんです。
その空き家に戻った時、この霊は、「自分よりも悪いほかの7つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」んです。その結果、その人の後の状態は、「前よりも悪くなる」ということなのですが、この中にある住み着くという言葉は、汚れた霊と、「自分よりも悪いほかの7つの霊」が、一緒になって、住みつくということなのかというと、住みつくという言葉は、ここでは三人称単数形です。つまり、住み着くのは、複数ではなく、単数ということですから、住み着くというのは、汚れた霊と、7つの霊という複数の霊ではないということになるんです。じゃあその掃除がなされ、整えられていた、その家には、誰が住み着くのでしょうか?
そのヒントとなるのは、住み着くと言うこの言葉が、どういう場面で聖書の中で使われているか、というから見ると、神さまが、神殿に住むとか、神さまが、イエスさまが、人に宿るとか、人に住むと言う時にも、この「住み着く」が使われているんです。ということは、確かに、汚れた霊と、一緒に連れて来られた7つの霊とが、その家に住み着くことになっても、本当に住み着くのは、三人称単数である神さまが、住み着くということになるのではないでしょうか?そこから、祈るために、祈りに専念するために、神さまであるイエスさまが、その家から出て行ったということに、繋がっていくんです。その結果、空き家になっていたということなんです。
このことを、私たち自身に置き換えた時、私たちにとっても、悪いことが続くこと、悪いことに悪いことが重なる時もありますね。私たち自身のことではなくても、家の電化製品が、次々と壊れるということも、それと似ているのかもしれません。不思議なことですが、1つ壊れると、次々に壊れて、修理をしたり、新品を購入するということもそうですね。そういう時には、次から次へと翻弄されます。悪いことが続くと、思わず、神さまは何をしているんだ!神さまは守って下さり、支えてくださり、助け、救い出してくださるお方なのに、どうして、立て続けに、こんな悪いことが続くのか?神さまが本当におられるのか?とさえ、思ってしまうこともあるのではないでしょうか?しかし、神さまであるイエスさまは、悪いことが住み着いて、それが重なるような中にあったとしても、悪いいろいろなことが、住み着くのではなく、イエスさまが、そこに住み着いてくださるんです。
そんなイエスさまと、最も近い関係である母と、兄弟たちは、話したいことが、イエスさまにあるのに、「外に立っていた」んです。イエスさまが、住み着いて下さるのに、外に立っていたということは、悪いことが重なっているところには、関わらない、関わりたくないという1つの意志の現われでしょうか?でも、母マリアや、イエスさまの兄弟たちにとって、イエスさまは家族です。だからイエスさまに話したいことがあれば、そこに直接行って、話すことはできたはずです。そして、母と、イエスさまの兄弟たちが一緒になって、「外に立っていた」ということは、母と兄弟たちが全く同じ立場であったということですが、そこには、いろいろな関係、人間模様もあると思います。具体的には、外に立っていたという母に、兄弟たちも合わせようとしていたのか?あるいは外に立っていた兄弟たちに、母親が、合わせようとしたのか?それとも、外に立っていた兄弟たちが、母親を自分たちと同じように、従わせようとしていたのか?具体的には分かりませんが、母と兄弟たちの関係と、兄弟同士の関係は、いろんな人間模様があったと思います。
そうですよね。同じ兄弟と言っても、足して二で割るという兄弟ではなくて、お互いに全然違うタイプがあると思います。だから兄弟同士も、いろいろだと思いますし、もうこの兄弟たちも、いい大人ですから、自分の考えを持っているはずです。だから同じでなければならない、ということではありません。バラバラに行動してもいいんです。イエスさまに、直接話をしたいという兄弟であれば、他の兄弟たちが、外に立っていたということに合わせなくてもいいんです。そして母親にも合わせる必要はありません。あるいは、母親には、母親としての、考えがありますから、母親が、兄弟と同じでなければ、同じにする必要はありません。ところが、ここでは、母と兄弟たちが、一緒になっているんです。一体何において一緒なのか?それは、自分たちの相手が、イエスさまだからです。そのイエスさまが、その家に住み着いていることに対して、母親も、兄弟たちも、お互いに個性や、考え方が違っても、一緒になれるんです。
そんな母と兄弟たちに、対して、イエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と返していかれるのは、彼らが、もうすでにイエスさまと向き合っているということを、認めている言葉ではないでしょうか?そして、イエスさまに託された神さまの働きは、家族とだけ、いつまでも一緒ということから、いい意味で離れていくことによって、人が人として、自分に与えられ、託された人生を歩もうとする、始まりの時となっていくのではないでしょうか?もちろん、家族から離れるというのは、家族でなくなるということには、なりません。いつまでも家族です。ただし、一緒ということから、時には、その家族という枠から出て行くということが、必要だということではないでしょうか?自立というのは、そういう意味ではないでしょうか?しかしそうなっても、イエスさまは、母や、兄弟の、それぞれの人生と共に歩んでくださるんです。そのために、どんなに悪いことが重なったとしても、その我が家に住み着いてくださるんです。
その約束を、イエスさまは、家族を、母マリア、兄弟たちに限定しないで、神さまの家族とは、神さまの御心を行う者だと、大きく広げて行かれるんです。
本田哲郎というカトリック教会の神父がおられます。大阪の釜ヶ崎というところに、住んで、そこで聖書の御言葉を語りながら、聖書研究もされるという大変ユニークな働きをされていました。そういう働きの中で、大切にされていたことは、そこにおられる方々と、共に住むということでした。そんな本田先生が、ある時に、こうおっしゃっていました。
「物を持っていく、何か譲ってあげよう」というのは上から目線だ。これは間違い。もらわなくていいよ!
「貧しい人々を優先する」とは、彼らに物やお金を分けるのではない。そう思い込んでいるから、貧しい人を紹介すると嫌な顔をする。彼らの側に立つということは、同じになることではない。西成に行ったり来たりすることではない。あなたが野宿して何になる? 自ら貧しさごっこをする人は抑圧されていない。中には好きで野宿している人もいる。野宿しなくてもいいようにするのがあなたたちの役目でしょう。」‥‥痛みに心を動かすというのは、計算があって動くのではなく、突き動かされて動くことだ。
そこに住み着くということは、お客さんじゃないんです。そこに住んで、そこにおられる方々と関わりを持ちながら、お付き合いをしながら、そこに住むんです。そして、そこに住みながら、一緒に住む方々は、私とは関係ないという関わりになるのではなくて、どんなに悪い関係になっていくようなことであっても、その悪いことが、住み着くのではなくて、イエスさまが、そこにも住み着いて下さっていると、信じて、そこに住み着いて行くことではないでしょうか?
もちろん、そこに住み着くというのは、いいことも、そうでないことも、味わうことです。嫌だということがあるからこそ、そのいやだということに向かって、出て行くことです。いやだからしない、のではなくて、いやだからこそ、そこに行くこと、そこに住み着くことです。
神さまの御心を行うというのは、自分にとって、嫌だと思うことに、向かっていくことの中で、嫌だと思う悪いことが、そこに住み着いているのではなくて、神さまであるイエスさまが、そこに祈るために、住み着いておられるという出会いに繋がっていきます。
祈りましょう。