2025年8月24日礼拝 説教要旨

うまい話なのか(マタイ10:16~25)

松田聖一牧師

 

ある新聞のコラムに、こんな一言があります。

 

「甘い話には裏がある」イソップ物語の話―。のどがからからに渇いたヤギが井戸にやって来た。井戸をのぞくと、誤って井戸に落ち込んだキツネがいる。「その水はおいしいか」と尋ねたヤギに、キツネは「こんなにおいしい水はない」とほめまくる。ヤギは、水が飲みたい一心で井戸に飛び込んだ。▼悪知恵を働かしたキツネはまんまと井戸から脱出するものの、ヤギは井戸に取り残されるというのが、この物語の落ち。井戸から抜け出す方法に考えを巡らすことなく、水がほしいばっかりにキツネの甘い言葉に乗せられたヤギの浅はかさを戒めた物語とも読める。▼「気をつけよう、うまい話と甘い汁」「儲け話には裏がある」など、甘い話には安易に飛びつかないよう戒めたことわざがある。これは古今東西に通じる戒めのようで、「どんな美しいバラにも刺がある」は、5大陸すべての国にあるそうだ。それほど人は、甘い話に引っかかりやすいということの証左でもある。

 

その通り、人は甘い話、うまい話に、引っかかりやすいです。でも、そこには棘があるんです。それなのに、その棘に目がいかず、綺麗な花の方ばかり向いて、飛びついてしまい、大変な目に遭ってしまうことがあります。しかし、そういう目に遭いながらも、同じことを繰り返してしまうこともあります。さて、そういううまい話というのは、心地良い、良いことばかりが語られ、紹介されていますが、実際には、良いことばかりではなくて、そこには罠があり、リスクも、都合の悪いことも、ちゃんとあるのではないでしょうか?逆に言えば、良い話ばかりというのは、本当の姿を紹介していないということになります。ということは、いいことばかりではなくて、悪いことも、ちゃんと、しっかりと語られ、示されていることによって、逆にその内容が、真実であるということが証明されていくのではないでしょうか?

 

そういう方向から、イエスさまが、弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」と言われたことを見る時、遣わされた先でいいことばかりではなくて、むしろ、彼らにとって良くないこと、悪いことがあるというのは、遣わされるということの、真実を示しているのではないでしょうか?

 

でもそれは、弟子たちを、悪いところにおとしめようとか、彼らにいじわるしようということではなくて、神さまの大切な働きに遣わされる時には、良いこともあれば、悪いことにも直面するけれども、その時、その時に、どう向き合えばいいか、どう乗り越えたらいいのかということも、イエスさまは、語っておられるんです。

 

それが「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」に始まる言葉ですが、ここでイエスさまがおっしゃられる「蛇」とは、神さまの言うことは聞かなくてもいい、神さまから離れさせようする悪魔の象徴です。ところが、「蛇のように賢く」すなわち、蛇のように分別のある、思慮深い、賢明さをもって、賢くなりなさいとおっしゃられるんです。それは、弟子たちがこれから直面する、狼の群れに送り込まれるような、命の危険と隣り合わせのような中で、蛇のように、また鳩のようになることによって、危険を乗り越え、生き抜くことができるということを、教えておられるのではないでしょうか?

 

というのは、まずは狼と蛇という関係の中で、狼の食べ物という視点から見えて来るからです。具体的には、狼は蛇を食べるのか?というと、狼の食べ物には蛇は紹介されていません。狼は、肉食ですので、鹿とか、ウサギとか、豚、羊といった肉を食べますし、腐った肉も食べる動物です。でも、蛇には毒があるので、狼は、蛇に手出しできなくなりますので、弟子たちに蛇のようになることによって、狼に食べられずに済むということを、示しておられるのではないでしょうか?

 

また鳩のように素直になれ、も、鳩のように、単純な、無邪気な、混じりけなく、素直になれということですが、まずは鳩というと、平和の象徴ですね。それは、聖書の中にある、ノアの洪水のお話で、大雨が終わった後、降り立つことができる陸地があるかどうかを確かめるために、ノアが鳩を飛ばす場面があります。その中で鳩が、オリーブの若枝を加えて帰って来て、ノアとその家族が、もうこれで大丈夫と、舟から出ることができるようになったことから、鳩が、神さまと人間の和解のシンボル、人間が神さまとの和解によって得た、平和な世界を共に築いていくシンボルとなりました。さらにもう1つ加えると、この鳩は、家鳩といって、神さまに礼拝をささげるために、貧しい人々でもささげられるものとして、用意されたものです。つまり、高価なものでなく、取るに足りない、小さな存在であっても、神さまにささげることができること、神さまはそれを喜んで受け取って下さるという意味が、この鳩には込められています。ということは、その鳩のように、素直になれ、は、鳩に与えられている、高価なものではないということも、どんなに小さくても、取るに足りないものであっても、それがそのまま、素直に用いられて、平和をもたらし、現し、与えていくということではないでしょうか?その鳩の素直さというのは、価値とか、大きさということだけではなくて、性格にも、その素直さが現れます。

 

あるお寺の境内に、鳩がたくさんいます。その鳩に餌をあげてもいいと言うことで、また鳩の餌を売る売店も、ちゃんと境内にありまして、餌を買って、やっておられる方もいらっしゃいました。そしてその方が、餌を蒔くと、鳩にもいろんな性格があるのかして、我先に餌をついばむ鳩もいるかと思えば、奥手と言いますが、ゆっくり食べる鳩もいたり、また鳩同士でも餌の取り合いをしたりと、鳩にも、優しい鳩と、いじわるな鳩がいるものだ~と思ったことでした。そういう意味で鳩の素直さというのは、単に優しいとか、従順ということだけではなくて、鳩自身の個性に、鳩は素直に従い、その素直さが、我先にか、奥手かはいろいろですが、出ているということではないでしょうか?

 

それは狼もそうです。例えば、狼が子育てをする時、他の動物の肉を食べるようには、もちろんしません。同じ狼の仲間に対しては、他の動物たちにするようなことはしません。守ろうとします。一緒に生きようとします。それがその時の狼の素直さです。でも羊が入って来ると、その素直さが、羊を襲うという素直さに変わっていきます。

 

ということは、狼と羊、狼と蛇の関係と、同じ狼同士の関係によって、同じ狼の中にある、それぞれに対する全然違う姿が素直に出る、ということではないでしょうか?それも狼にとっては素直に出ているんです。それは羊も、蛇もそうです。同じ羊、同じ蛇はいません。羊もいろいろです。蛇もいろいろです。

 

つまり、イエスさまが、送り込むようなものだと言われる、その狼の群れの中にいる狼にも、羊にも、そして蛇にも、鳩にも、それぞれに正反対の姿、素直さがあるということなんです。それはそれぞれお互いの関係の中で、恐ろしくなったり、優しくなったり、いじわるになったり、と、良いことばかりではなくて、良いことも悪いことにも、それぞれの時に応じて素直になって、変わっていくということではないでしょうか?それは八方美人のようになるということではありません。八方美人ですと、どんなに人にも美人に見せようとすること、良い人であろうと自分を良く見せようとすることですが、ここにおいての素直さは、それぞれの時に応じて、必要な素直さです。必要に迫られて、その素直さがでるということでもあるでしょう。

 

それは弟子たちもそうです。いろんな性格があります。それこそ狼のような過激な弟子もいたり、蛇のような弟子も、鳩のような弟子もいましたし、狼のようであっても、蛇の性格も、鳩の性格も持ち合わせた弟子たちです。その鳩のように素直になれということと、蛇のように賢くなれと、イエスさまが弟子たちに求められるというのは、どんなに厳しい、命の危険と隣り合わせの中にあったとしても、イエスさまは、弟子たちを神さまの働き手として守り抜くために、狼と鳩、そして蛇という、それぞれに正反対の性格、性質を持つものを、お互いに用いてくださって、弟子たちを神さまの働きのために、遣わして下さるということなんです。

 

そしてその遣わされた先で、蛇のようにでなければ、出会えない人、鳩のようにでなければ出会えない人、狼のように、羊のようにでなければ、出会えない人が、きっと、必ずいるということなんです。その弟子でなければ、出会えない人もいるんです。そのために、イエスさまは、それぞれの性質、持ち味を生かして、適材適所に遣わしてくださるんです。だからこそ、「わたしはあなたがたを遣わす」が、実に豊かな、神さまの恵みに満ちた約束の言葉となっているのではないでしょうか?

 

ある病院で脳神経外科として働いておられる女性の先生がいらっしゃいます。手術が非常に長けておられ、運ばれて来た患者さんの緊急手術を何度もなさっておられる方ですが、この先生は、かつて中学から高校にかけて、自分が何のために生きていいのか、自分の目的が分からずに、悪の世界にはまり、悪の限りを尽くした方でした。高校に入ってすぐに停学となり、やがて退学。夜な夜なバイクを乗り回すという生活でした。そんな生活を振り返って、ご本人もおっしゃっていました。「もう~悪の限りを尽くしましたね~」そんなある時、同じバイク仲間と乗り回していた時、一人の仲間、友人が交通事故で亡くなってしまわれました。その時、担ぎ込まれた病院の医師が、亡くなった友人のレントゲン写真を見せながら、頭蓋骨が折れてしまっている写真を見せながら、「お前らな~こんなことしていたら、ダメだ!こんなにバキバキに折れているんだぞ~」と、こんこんと叱られたことでした。でもそのことが切っ掛けとなって、彼女は、命を救う医師になろうと決意するんです。そして、高校卒業の資格を取り、3時間睡眠以外はずっと勉強し続けて、医学部に入学し、医師となられたのでした。現在は、凄腕医師として、活躍されていますが、そんな先生の仕事ぶりと、家での様子がテレビで紹介されていました。そんなすごい先生だから、家でもすごいのかというと、塩を入れた瓶のふたをしっかりしめないとか、結構おおらかな面と、方や、医師として手術をしている時、研修生である医学生が、小さなおしゃべりをしていた時、「学生うるせ!」「うるせ!」という、過去の一面を垣間見るひと時や、同僚の医師からは、「あねごのような姉貴肌のような、そんな先生ですね」とか、「僕より男前です」と言った感想もありましたが、その先生のもとに、緊急手術で助けられたお一人の方が、診察に来られました。その時、かつてのおらおらな時代の写真を、先生の許しをとって、その患者さんに「実は先生にはこんな過去があったんですよ~」と、見せられた写真をじっと見ながら、「あらま~いや~勇ましいね!」と、びっくりしながらも、しみじみこうおっしゃっていました。「これくらいのド根性があるから、こんにちがあるんだね~ほんとにね~」

 

おらおらな生き方をしていた時に、思いっきり叱ってくれた先生、その友人の事故、停学、退学、3時間の睡眠、学生うるせ!うるさい!と叱ること、「僕より男前です」と言ってくれる同僚の医師、「これくらいのド根性があるから、こんにちがあるんだね~ほんとにね~」と言ってくださる、患者さん、それぞれの内容だけを見れば、良いとか、悪いと言えるのかもしれません。しかしそうであっても、良いことも、そうではないことも、長所、短所と呼ばれるものも、好き嫌いも、こだわりも、それぞれ正反対のものも、人間関係の中で、いつも同じではありません。時と場合によって、立場によっても、変わっていきます。それこそ、それぞれに出て来る素直さが、その人の全てではないけれども、その人の1つの素直な姿、が現れていく、そんな持ち味、個性が、どんなに狼のようであっても、羊のようであっても、蛇や鳩のようであっても、良いことも、悪いことも、イエスさまは、用いてくださって、神さまの素晴らしい働きのために、すべてのことを益に変えてくださるんです。だからこそ「ようになれば、それで十分である」とイエスさまは、認め、受け入れてくださっているんです。その時、大切な、また必要なことは何か?それは、イエスさまの言葉、その言葉を与えてくださるイエスさまに任せて、イエスさまがおっしゃられる通りに、遣わされていくことです。イエスさまは、「わたしはあなたがたを遣わす」と遣わされた先で出会う、いろいろな人にもある、「うまい話」だけではなく、「うまくない話」も、その両方を用いて下さいます。

 

祈りましょう。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

説教要旨(8月24日)うまい話なのか(マタイ10:16~25)