2025年8月17日礼拝 説教要旨

収獲は多いから(マタイ9:35~10:16)

松田聖一牧師

 

教会には2つ掃除機がありますね。その内の1つは、掃除機のスイッチを入れると、吸い込み口の中にあるものが、回り出します。そうしますと床に落ちているゴミなどが、吸い込まれやすくなり、回らないものよりも、よりゴミを吸い取っていきます。この原理は力学と呼ばれる学問に繋がりますが、それはいろんな事柄にも当てはまります。例えば、台風や竜巻が、そうです。台風でしたら、台風の目があって、その周りで吹いている、風速20メートル以上の風に、周りのものが、吸い込まれ、巻き込まれていきます。竜巻も、その周りに吹き荒れている、ものすごい風が、ありとあらゆるものを巻き込み、巻き上げていきます。ですので、巻き込まれたものの中に、魚があると、その魚が、空から落ちてくることもあります。つまり、掃除機であれ、台風であれ、竜巻であれ、ある1つのものがぐるぐると回る時、回っているものが回るだけではなくて、回っている、その周りのものも、回っているものに引き込まれて、一緒に回るというところに導かれていくんです。

 

イエスさまが、「町や村を残らず回って」ということもそうです。というのは、イエスさまが、「町や村を残らず回って」には、町や村にある、人も含めて、「全てを回りに導いた」という意味が込められているからです。つまり、イエスさまが、町や村を残らず回っていく時、イエスさまだけが、あちこち回っているのではなくて、その町や村を回りながら、そこに住む人々も、イエスさまの回りにいた人々も、またその人々にあるすべてが、イエスさまと共に導かれていくということなんです。ということは、イエスさまと共に導かれていくものは、その人々のすべてですから、その人々にとってのいいことも、そうでないことも、その時の気持ちも、そして、「ありとあらゆる病気や患い」も、その病気だけのことではなくて、その病気などによって、出て来る不安も含めた、すべての営みであるということではないでしょうか?

 

例えば、病気とは言えないかもしれませんが、ここが痛いとか、あそこが痛いと言う痛みがある時、辛いですね。痛みというのは、見た目では分かりませんから、ここが痛いといくら言っても、なかなか相手には分かってもらえないものです。そういう時、お医者さんに行って、診ていただくこともあると思いますが、悔しい言葉がありますね。それは「加齢による!それは加齢だ!」確かに言われた通りであっても、そう言われてしまったら、どうすることもできませんから、悔しいですし、その痛みが、いつ治るか、収まるかも分かりませんから、不安にもなると思います。それは痛みを抱えるご本人だけではなくて、ご家族にとっても、苦しみや、不安や、いろんなものを背負っていくのではないでしょうか?

 

それは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆もそうです。そして12使徒として派遣されていく弟子たちも、そうです。それは、弟子となる前の、仕事であったり、熱心党のシモンであれば、いわゆる過激派としての活動を生涯のものとしていたこと、またそれらのことをイエスさまに従っていく時、捨てていったということも、背負っているんです。さらには、遣わされていく、その先に出会う、異邦人、サマリア人、イスラエルの家の失われた羊、失われた人々も、失ったということを背負っているんです。具体的には、異邦人であれば、もともと住んでいたところには、住んでいない、いろんなことで故郷から出て、故郷を失い、住めなくなった人々ですし、サマリア人も、その歴史の中で、さげすまれ、いろんなものを失っていた人々です。イスラエルの家の失われた人々も、その言葉の通り、失ったものがあったんです。また病人も、重い皮膚病を患っている人も、悪霊に取りつかれた人も、それぞれ健康を失い、家族から引き離され、失ったんです。

 

そんな失うということを、背負っていた人々、そこに遣わされる弟子たち、その先に出会ういろんな人たちを、イエスさまは見ておられ、「深く憐れまれた」すなわち、はらわたがひっくり返るほどに、ねじれよじれるほどに、憐れまれたということなんです。それは、お腹の中にある、腸がねじれよじれるということです。今で言えば、腸ねん転とか、腸閉塞に当たりますが、

 

ある時、腸閉塞になってしまわれ、入院された方が、入院生活のことを振り返って、おっしゃってくださったことがありました。「もう苦しいですよ!何も口から食べることができない、水もダメ。だからずっと点滴でした。もう苦しくて、苦しくて・・・でも、食べたら腸の中で食べたものが詰まってしまいますから、それは大変なことです。でも腸閉塞が治って、点滴が外れて、味も何もほとんどないおもゆを、スプーンで人さじ頂いた時は、本当に美味しかった!」腸閉塞で苦しかったことを、しみじみ話してくださいました。

 

それほどに、イエスさまは、苦しんで、人々の失ったところ、背負ったところを残らず回って、向き合い、自分のこととして受け取っておられるんです。それは人々の背負った一切が、他人事ではなくて、自分事になっているんです。そしてそのことを、イエスさまは、弟子たちにも、与え、委ねていかれるんです。

 

「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』その内容は、弟子たちが直接、群衆のために働きなさいとか、働き手になる人を見つけて、リクルートしなさいということではなくて、弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない」ということと、だからこそ、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に、神さまに願いなさい、すなわち、祈りなさい、ということなんです。それは、具体的に今、すぐに聞かれなくても、それでも、神さまに祈ることができるということを、イエスさまは、弟子たちに与えておられるということと、イエスさまが言われた「収穫は多い」ということが、遠い世界のことではなくて、彼らの目の前にいる群衆だということに、気づかせようとしておられるのではないでしょうか?だからこそ、自分たちはたった12人で「少ない」という現実はあっても、今、自分の目の前にいる人々を覚えて祈ることを通して、「収穫は多い」が、目の前のことだと、自分事として、受け取っていける時となっていくのではないでしょうか?

 

そのことについて、2つのことを紹介したいと思います。ある教会で、奥さんは信仰を持たれて、教会の礼拝に来られていましたが、ご主人はそうではありませんでした。ところが、ある時、お正月元旦の礼拝に、奥さんが教会に行こうとされた時、ご主人は奥さんにこう頼まれました。「おい!わしの分まで、わしの代わりにお祈りにいってくれ!」それで奥さんは、教会でご主人の分までお祈りされました。後に、ご主人も教会に導かれて、洗礼をお受けになりました。もう1つは、ご主人が教会の礼拝に通っておられましたが、体調がすぐれずに、奥さんに、こう頼みました。「今日は、僕の代わりに教会に行ってほしい!」それで奥さんは、初めて教会の礼拝に来られたのでした。その時、教会でこう自己紹介されました。「今日は、主人の代わりに教会に来ました~」すると、教会の皆さんから思わず笑いが出たとおっしゃっていましたが、その奥さんもやがて洗礼をお受けになりました。

 

この2つのことは、奥さんや、ご主人というお互いに目の前にいる人が、それぞれに自分の代わりにお祈りに行ってくれとか、礼拝に行ってくれです。でも、イエスさまは、目の前にいる人が、最初は他人事であったとしても、イエスさまは、その他人事を、イエスさまの手の中で、他人事から自分事へと、新しく造り変えて下さることを、目の前の人から始めて下さるんです。それは彼らが願い、祈ったことに対する、ご褒美としてではなくて、ただ、神さまからのお恵みがあるからこそ、与えて下さることなんです。

 

そして、その神さまの恵みは、イエスさまが遣わされた12人の弟子たちが、これから先、直面するいろいろな出来事にも、与えて下さるお恵みでもあるんです。

 

具体的には、「天の国は近づいた」と宣べ伝えること、病人がいやされること、死者を生き返らせ、思い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払うことも、「ただで」神さまから「受けた」与えられたお恵みです。また「帯の中に金かも銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」も、内容は何も持つなですが、しかし何も持たないと言うことの中にも、必要なものを、毎日ちゃんと与えて下さる、神さまの恵みがあります。

 

その他、彼らが出会う人々の中には、平和があるようにと挨拶出来る人もいる一方、弟子たちを迎え入れもせず、弟子たちの言葉に耳を傾けようとしない者もいるとおっしゃいます。その時には、「その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」すなわち、迎えいれるように、ご機嫌を取れとか、耳を傾けてくれるような話をしたらいい、のではなくて、一切関わるなということで、弟子たちはもうその人々に関わることはなくなります。しかし、だからこそ、彼らの手を離れても、何もできなくても、そこにこそ、神さまのお恵みが、「ただで」与えられ、神さまの恵みの働きが、始まっていくんです。

 

神さまのお恵みとはそういうものなんです。私たちにとっての「ない」から、神さまの恵みの働きが、始まっていくんです。私たちには何もない、何も方法がない、何もできないと、受け止めるしかないことの中にこそ、神さまの恵みは十分である、私の恵みは汝に足れりなんです。

 

伊那に来る前のことです。ある方からお手紙を頂きました。そのお手紙の中で、今日御言葉が与えられましたので、それをお贈りしますとあり、次の聖書の言葉が添えられていました。

 

「主はヨブの前の半生より、あとの半生をもっと祝福された」ヨブ記42章12節の御言葉でした。神さまはこの先に、御言葉にあるように、大きな祝福を用意してくださっていることを心から信じています。と結ばれていました。その時、前の半生よりも、あとの半生をもっと祝福されたと言う意味が、具体的には分かりませんでした。それと思えるようなことは、頂いた時には、何もないと思いましたから、これはどういう神さまからの祝福だろうかと思ったことでした。しかし、ふと、車のことを思いました。最初のお見合い説教で参りました時、礼拝後「車が見つかりました!」ということで、車が必要なくなった先生から、譲っていただけることになりました。まだ招聘を承認する前に、車が先に決まっていましたので、びっくりしました。それから引越しの直前になって、もう一台が与えられました。パジェロです。それで2台も与えられたという思いで、過ごしておりました。ところが、そのパジェロの具合が悪くなり、修理いただいて、後2年は乗れるようになった時に、3台目の車が、与えられたことでした。今度は、インサイトでした。最初インサイトいう名前が、どうしてもサッカーチームでヴィッセル神戸の選手であったイニエスタ選手の名前を重なってしまったり、車でシエンタという名前と、どういうわけか、自分の中でかぶってしまい、インサイトという名前がなかなか出てきません。それで、何度も何度も頭の中で、イニエスタ?シエンタ?とブツブツも言いながら、繰り返すのですが、なかなか出てこないと、車のところまで行って、インサイトだったということを繰り返しながら、ようやくインサイトも頭の中に入ってきたようです。そういう車1つのことでも、神さまは、1台だけではなく、2台だけでもなく、3台与えて下さっていたということを思う時、「前の半生よりも、あとの半生をもっと祝福された」この御言葉は、本当だったということを改めて受け取るのです。

 

収獲は多いと言われた時、弟子たちは、半信半疑だったかもしれません。収穫の主に、働き手を送ってくださるよう、願いなさい、祈りなさいと、言われた通りにした時にも、半信半疑だったかもしれません。しかしそうであったとしても、イエスさまが約束された、神さまの約束は、約束通り本当に、その通りにしてくださいました。それは12人から、今、イエスさまを信じて、教会の礼拝に導かれている方々が、今、世界中で何億、何十億となっていることが証ししています。だからこそ今、確かに少ないという事実はあっても、神さまは、目の前にいる人々の中から、働き手を立て、送ってくださいます。だからこそ私たちは、神さまに、「収穫の主に願いなさい」と言われた通り、自分事として、これからもずっと祈り続けていくことができるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月17日)収獲は多いから(マタイ9:35~10:16)