2025年8月10日礼拝 説教要旨

主の招き(マタイ9:9~13)

松田聖一牧師

 

皆さんは納豆はお好きですか?実は私は、もともと納豆が食べれませんでした。あの匂いと粘り気がどうしても苦手で、納豆には手を付けることができませんでした。そんな納豆嫌いの私が、社会人となって、学校に赴任した時、給食に納豆が出てきてしまいました。内心「どうしよう?納豆!」本当にそう思いました。でも、そんなことを、担任の子どもたちに話すことはできませんし、先生は嫌いだから残すねなんていうことは、口が裂けても言えません。そういう時に限って、納豆好きな子どもたちからは、今日は納豆!喜んでいるんです。こちらも嫌いな顔はできません。でも内心は、どうしよう!今日は納豆!ドキドキです。そうこうするうちに、給食の時間を迎えました。給食が全員に配られて、納豆を子どもたちが食べ始めます。すると、納豆のにおいがしてくるんです。それでも食べないわけにはいきませんから、納豆についているたれと、納豆が食べられるようにと、付けてあったネギを納豆に混ぜました。でも、味わって食べようとしたら、食べられないと思いましたので、納豆をひと口で口の中に放り込むような感じでいただいたことでした。それが納豆の始まりです。でもそのおかげで、納豆が食べられるようになりました。結局は食わず嫌い、食べられるのに、食べられないと判断していた自分自身の問題だったのかもしれません。

 

そういうことは、納豆に限らず、いろいろなことでありますね。これまで食べたことがなかったもの、したことがなかったこと、あるいは行ったことがないところ、という初めてと言う時には、何も感じないのではなくて、大なり小なり、不安になります。何か不利益を被るのではないか?大変なことが起こり、巻き込まれてしまうのではないか?という思いが出て来ます。そんなことを考え始めていくうちに、やはり出来ないと判断してしまい、自分ではなかなか踏み出せなくなることもあるのではないでしょうか?しかしその時、そんな自分自身の背中を押して下さる方や、引っ張り上げて方がいてくださったら、あるいは踏み出すしか、方法がないという時にも、出来ないと思っていたことに、一歩踏み出せるようにもなっていくのではないでしょうか?

 

それが、イエスさまに出会ったマタイにおいて起こったことなんです。というのは、この時マタイは、「収税所に座っている」状態、すなわち、目の前を通り過ぎていく人たちから、税金を取り立てるという世界の中だけで、籠の中の鳥のように、ずっと過ごしていた状態です。だからマタイは、収税所以外の世界を、知らないのではないでしょうか?ということは、マタイが出会うものは、お金と、お金を取り立てる、その人しかいませんし、同じ税金取りの仲間しかいなかったと思います。では、そのいつも接する人たち以外の人に会うことができるのかというと、どんなに、マタイがそれ以外の人と会いたくても、この当時、税金を取り立てる徴税人と呼ばれる人々は、罪人と同じ扱いを受けていましたから、収税所以外の人、罪人と呼ばれる以外の人は、マタイを相手にしてくれないんです。

 

しかしイエスさまは、そうじゃなかった。「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」「わたしに従いなさい」と、おっしゃられるんです。それはたまたま通りがかったイエスさまが、わたしに従いなさいと言われたということではなくて、イエスさまは、収税所に座っていた、マタイの側にいて、そのそばから導いてくださり、マタイを連れて通り過ぎられるんです。「通りがかりに」にはそういう意味があるんです。ということは、イエスさまのマタイに対する呼びかけ「わたしに従いなさい」は、非常に積極的な呼びかけであり、マタイを見かけた時からだけでなく、それ以前から、イエスさまの計画の中にあったということではないでしょうか?だからこそ、マタイの方から、イエスさまのそばにいこうとしたわけではなくても、イエスさまの方から、収税所に座っているマタイの側にいようとしたんです。そして、そこからマタイを一緒に連れていこうとするんです。

 

だからマタイは立ち上がってイエスさまに従ったんです。それは、収税所に座っているところから、すっと立ち上がったというだけではなくて、「立ち上がって」には、よみがえる、復活するという意味から言えることは、イエスさまから、「わたしに従いなさい」と呼びかけられるまでは、マタイは死んだ状態、死んだ人生であったのではないでしょうか?死んだ状態とは、実際に亡くなっているということではなくて、収税所での税金を取り立てていくという仕事を、どんなに一生懸命にしていても、マタイの中では、このまま死ぬだけだ、このまま一生を終わるだけだと受け止めていたことでしょう。つまり、彼の人生の目的は、仕事でもなく、誰かとの繋がりでもなく、収税所で名を挙げるということでもなく、生きているのに、仕事もしているのに、彼の人生の目的が、ただ死ぬということに、向かっていたということではないでしょうか?

 

人生の目的、生きる目的が、死ぬこと、ということは、死ぬという目的のために生きているということになります。そうなると、何のために、誰のために生きるのか、何のための、誰のための人生なのか、という相手がいない、何もないということになっていくのではないでしょうか?つまりそれは、自分にとって、あなたと呼べる相手がいないということにもなるのではないでしょうか?そうなると、相手がいない自分、私は、孤独そのものとなってしまいます。もちろん、マタイと同じく、仕事もし、そこで一生懸命にお金を稼ぎ、地位も築くことができてはいるかもしれません。しかし、どんなにお金があり、そこから出る必要のない、仕事場があったとしても、わたしにとって、あなたと呼べる相手が全然いないというのは、本当に寂しいことです。でも、そんなことを、誰も願ってはいません。どんなに強がっていたとしても、誰も本当のところでは、私にとって、あなたと呼べる相手が、欲しいのではないでしょうか?

 

でも、自分ではどうしていいか分からないと、そういう状態から、どうやって抜け出せばいいのか分からないです。となると、誰かに助けていただかないと、誰かがそばにいて連れ出して下さらないと、時には無理やりにでも引っ張り出して下さらないと、そこからは出ることができないのではないでしょうか?

 

災害や地震、今から80年前の原爆などで、家の下敷きになって、助け出された方の中で、ご自分の体験をこうおっしゃっていました。「だれだか分からない方が、助けて~という私の叫びを聞いて、引っ張り出してくれた・・・あの時、助けてくれる人がいなかったら、助からなかった。」自分ではどうすることもできない時には、誰かの助けが必要です。誰かに助けていただかないと、助かりません。そのまま死んでしまいます。

 

イエスさまがしてくださることは、そういうことなんです。だからこそ、イエスさまが、そばに来てくださり、そばで一緒に歩みながら、そこから連れ出し、通り過ぎてくださるんです。その結果、わたしは生きることができるんです。そのためにイエスさまは、もうすでに、そばにちゃんといてくださり、「わたしに従いなさい」と呼びかけ、招いてくださり、立ち上がらせてくださるんです。そしてもうすでにその時、わたしは、イエスさまにとって、あなたとなっているんです。

 

それは、マタイだけではなく、マタイがイエスさまと弟子たちと一緒に食事をしていた時に、やって来た大勢の徴税人や、罪人も、そうです。イエスさまにとっては、あなたになっているんです。

 

さらには、この食事の光景を見たファリサイ派の人々も、イエスさまにとっては、あなたです。だから、そのあなたであるファリサイ派の人々が「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、弟子たちに言った時、弟子たちが直接答えるのではなくて、イエスさまが応えていかれるんです。そして「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」出て行って学びなさいと、イエスさまが求める時にも、「わたしが求めるのは」と、「わたし」とおっしゃられるのは、その言葉を語るその相手も、その言葉を受け取る相手も、イエスさまにとって「あなた」になっているんです。

 

このことを通して、イエスさまから呼びかけられ、招かれた、それぞれの人々は、もはやひとりではないんです。あなたと呼ばれ、呼ばれた私も、あなたと呼べるイエスさまが、すぐそばにいて、あなたと呼べる、その相手と一緒に生きる、その生き方を目的にできるようにして下さっているんです。

 

だからこそ、イエスさまがあなたと呼び、招かれたマタイや、徴税人、罪人、ファリサイ派の人々も、イエスさまにとって、あなたであるからこそ、イエスさまの前に「わたし」になれるんです。その結果、もはやひとりではありません。あなたと呼ばれ、呼ばれたわたしも、あなたと呼べるイエスさまがすぐそばにいて、導いてくださっているんです。

 

神戸女学院というミッションスクールがあります。その学校の新入生歓迎会のスピーチの中に、こんな呼びかけがあります。

 

私たちが、時々耳にするのは、「なぜ生きていかなければならないのか」「何のために生きるのか」「なぜ生んだの」という声だ。生きていくことがそんなに楽なことばかりではないと感じるからだ。誰でも自信を持って、喜んで、自分らしく生きたいと考えている。しかし、そうさせない障害が、私たちを取り巻き、次々といろんなことが起こる。まるで「お前なんかダメ人間だ」「お前なんか生まれてこなければ良かったのだ」と言いたくて仕方ないように。だから私たちはつい自信を失い、気分が落ち込み、何をしても失敗するのではないかと不安になってくるのだ。自分が大の幸運者で、勝利者として人生を生きているなんて考えられなくなるのだ。でも、皆さんの仲間の1人がこう言っている。

 

「人類が誕生した百万年の昔から、この地球上に、どんなに多くの人間が生まれ出たことでしょう。しかし、その中に「あなた」はいなかった。いま、この地球上に、何十億の人間が生存しているという。だが、その中に「あなた」は一人しかいない。これから先、長い長い地球の未来に向けて、どんなに多くの人間の命が生まれ出るのか、それは誰も知らないけれど、もう一度「あなた」が生まれ出ることは、決してない。きっと「あなた」より勉強のできる人はいくらでもいるでしょう。「あなた」より速く高く飛ぶ人もいくらでもいるでしょう。しかし、「あなた」と同じように考え、同じように悩む人は、決していないのです。「あなた」と全く同じに生き、「あなた」と全く同じ価値を持つ人は、決していないのです。過去にも未来にもたった1つのかけがえのない「あなた」の命、ふたたびはない「あなた」の人生、「あなた」のゆくてには、「あなた」にしかできないことが、「あなた」にだけ結ばせることのできる、実があるはずです。」

 

マタイも、徴税人、罪人も、ファリサイ派の人々も、それぞれが同じ人ではありません。それぞれがたった1人のかけがえのない「あなた」です。だからお互いにあなたとして受け取ることができるようになっていくんです。そして、ふたたびはない「あなた」の人生、「あなた」にしかできないこと、「あなた」にだけ結ばせることのできる、実があるはずの「あなた」の人生を、イエスさまは、与えて下さるんです。

 

私たちも同じですね。いろいろなところに住み、いろいろな考え方を持っています。それは誰一人として同じではありません。それでいいんです。イエスさまにとって、「あなた」だから。あなたにしかできない、あなたがいるから、あなたにだけ結ばせることのできる、実があることを、誰よりも知っておられるからです。イエスさまの招き、神さまの招きは、いつもたった1人のかけがえのない「あなた」に向けられています。「わたしに従いなさい」も、そうです。

 

祈りましょう

説教要旨(8月10日)主の招き(マタイ9:9~13)