2025年7月27日礼拝 説教要旨

人とは何者なのか(マタイ7:15~29)

松田聖一牧師

 

先日、方言と言いますか、言葉で1つまた発見しました。それは床を綺麗にしてみようと思い立ちまして、その時につかった重曹を、私は「じゅうそう」頭にアクセントをつけて、それが汚れを落とすものという意識で、お話しましたら、聞かれた方は、じゅうそう???え???という感じになりまして、戸惑っていらっしゃるんです。私も、???一体何?という感じになりましたが、お聞きしますと、重曹を、こちらではじゅうそうと、後ろに向かってアクセントが付く発音だということが分かりまして、なるほど、目からうろこでした。同じ、重曹でも、頭にアクセントが普通と思っていましたら、いやいや実は違うということに、また気づかされた次第です。その他にも、例えば、半そでもそうですね。こちらでは頭にアクセントがありますが、私の中では、後ろです。ですので、半!そでと聞いた時には、びっくりしました。そんなこれまでそうだと思っていた言葉が、アクセントの違いで全然違う意味になる言葉が山のようにあるんだということを、今さらながら感じた次第です。そういうことは、言葉だけではなくて、人もそうですね。

 

本当にいろんな方がいらっしゃって、考え方もいろいろです。10人いたら10人の色があります。それは100人でも、1000人でも、増えれば増えるほど、それだけの違いが出てきます。そういう意味では、その違いをゼロにして、全く同じ人、同じ考え方ににしよう、なんてことはそもそもできません。

 

だからイエスさまは、「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」偽預言者が、いること、良い木もあれば、悪い木もある、良い実もあれば、悪い実もあると、木にも、実にも良し悪しがあるという、そういう人の現実を、イエスさまはしっかりと見て、知っておられるんです。そして、イエスさまは、それらの人の現実の姿と、どう向き合っていけばいいのか?ということへと、導こうとしておられるからではないでしょうか?

 

その1つにあるのが「偽預言者を警戒しなさい」です。この中にある「~を警戒しなさい」という言葉を詳しく見ると、~を警戒しなさいとは、~から離れることに専念せよとか、離れることに携わりなさい、と言う意味です。つまりその相手からは、離れなさい、関わってはいけない!ということなんです。それはその相手が、表向きは羊の皮を身にまとっていても、内側は狼だからです。

 

さて、狼というと、人を襲い、財産や、つながりや、命までも奪い、何もかも奪う存在ですから、恐ろしい相手ですし、恐ろしいと感じなければならない相手です。しかも表向きは、羊の皮を身にまとっているということですから、一見狼とは分からない姿です。しかし一皮めくれば、「その内側は貪欲な狼」ですから、そんな相手に立ち向かったり、やっつけようとしても、それは出来ないと言うことではないでしょうか?だから離れることに携わり、専念しなさいということであり、つまりは関わるなということでもあるんです。

 

その理由として、もう1つあります。それは、これほどに恐ろしい貪欲な狼であっても、その狼である相手の仲間になろうとする人も出て来るからです。というのは、狼の仲間として受け入れられれば、ある意味力強くて、恐ろしい相手に、自分が守られることになります。強い者にまかれるという言葉がありますが、自分にとって、恐ろしくて、全く相いれない相手であっても、自分の身を守るために、その仲間になろうということも起こり得るんです。そうなると、仲間になったその人は、貪欲な狼と一緒になります。自分が違うとどんなに思い、どんなに言ったとしても、その狼の仲間入りした時点で、もう狼と同じです。

 

このこととの関連ですが、「狼に育てられた子」というタイトルの本が1955年に出ています。その中でインドで幼い子供2人が、狼に育てられたということで、発見された時、その子どもたちは、まだ幼い子供でした。しかし生まれて間もない時から、数年であっても狼と共に過ごしたということで、狼の鳴き声のような声を出し、人間の言葉を話すことができなかったり、二本足で立つことができなかったり、食べるものも人間とは全然違うといった、姿がありました。その後、二人とも、施設に引き取られましたが、狼から離れてしまったからでしょうか?具体的には分かりませんが、それぞれ病気になり、短い命となりました。ただ本当に狼に育てられたかどうかについては、いろいろ所説がありますが、いずれにしても、この本においては、2人の子どもたちは数年ではあっても、狼に育てられ、狼の仲間になりました。でも人間です。狼ではありません。しかし、狼に染まっていったのです。

 

このお話は極端な内容かもしれませんが、そうでなくても、相手が狼である時、そしてその仲間になった時には、狼と同じになっていくんです。しかしそうなったとしても、その狼の仲間であり続けられるように、貪欲な狼に狙われないようにしなければ、襲われるかもしれないという恐れがあると思います。それで、その狼にいつもへつらい、忖度をし、ご機嫌取りをし続けて、自分の身を守ろうとしていくのではないでしょうか?そして狼から離れられなくなってしまうものです。

 

しかし、貪欲な狼である、彼らは、そもそもあなたがたを必要としているのではなくて、あなたがたから奪う者、命までも奪う、貪欲な狼です。財産も、何もかも奪うという目的で生きています。あなたがたを利用することに一生懸命に貪欲になっているかもしれません。そういうことに凝り固まっていますから、仮にその仲間になったとしても、その貪欲さは変わりません。たといどんなに人が変えようとしても、それはできません。変えようと立ち向かったりする相手ではないんです。

 

それは、これに続けてイエスさまがおっしゃられる良い木と、悪い木の関係も、良い実と悪い実の関係もそうです。悪い木に、良い木になれといっても、悪い木が良い木に向かって、悪い木になれと言っても、良い実が悪い実に良い実になれとか、悪い実が良い実に、悪い実になれとどんなに言っても、どんなに関わろうとしても、お互いに何もできません。それなのに、何とかしようと一生懸命になったとしても、お互いにどうすることもできないんです。なぜなら、木は自由に動けないからです。

 

人と人との関係もそうです。ところが、時と場合によっては、相手を良くしようとか、悪く使用ということに一生懸命になってしまい、そうしようとすればするほど、それは狼と同じになってしまうのではないでしょうか?そして、その貪欲さを、自分の土台としてしまい、そこから離れられなくなってしまうのではないでしょうか?

 

ここで、この一連のいろいろに共通しているのは、狼と向き合うことも、狼の仲間になることも、良い木と悪い木、良い実と悪い実がそれぞれに何とかしようとすることも、人との関係の中で、お互いに何とか良くしようとすることも、あっという間ではなくて、それぞれにお互い時間を使っています。それは与えられた人生の時間を、そのことのために一生懸命に使ってしまっているということではないでしょうか?

 

イエスさまは、離れることに専念せよ、ただ離れることに携わりなさいとおっしゃるのは、ただ離れることに、一生懸命になりなさいというだけではなくて、むしろ、これまで何とかしようと、一生懸命に使っていた時間と労力とを、あなたがたにとってもっと大切で、必要なことを、するために、その時間を使いなさいということを望んでおられるからではないでしょうか?

 

なぜなら相手が偽とつくものであり、貪欲な狼であっても、良い木、良い実、悪い木、悪い実の関係に対して、自分が貪欲になって、自分にとっての相手を何とかしようと、一生懸命になっていたとしても、その相手の人生は自分の人生ではないからです。さらに言えば、相手に関わり続ける人生を生きるために、自分に与えられた時間を使う、あなたがたではなくて、あなた方の人生は、あなたがたの人生であり、その人生は、神さまから私に与えられ、託されたかけがえのないわたしの人生であり、時間だからです。そういう意味でも、私に与えられた人生は、人にペコペコし、へつらい、ご機嫌取りをして、その相手から、自分を評価してもらえるために、相手をどうこうしようということのためだけの、人生でもありません。そんな時間はもったいないです。だからこそ、離れることに専念しなさいと、神さまは、私たちに願っておられるんです。

 

こんな言葉があります。

 

気遣う相手を間違えないでください

気遣いは嫌いな人に嫌われない為でなく

大切な人に心地よくいてもらう為のものです

 

この言葉は、その通りだと誰もが受け止められることでしょう。しかし、気遣う相手を間違えないということが、実際には、どうかというと、どんなに自分には間違うことはない!と思っていても、またそう言っていたとしても、間違う時には、間違うんです。あるいは間違った相手に気遣わなければならない立場になったら、間違うんです。だからその時は、そうはならないと思っていても、人は、その時、その場合で、その相手によっても、自分の立場によっても、どうなるか、どう出るか、それはその時にならないと分かりません。

 

ということは、人とは何者なのか?ということを問う問いは、お互いにお互いを変えることができるか?という問いでもあり、いやそれはできないという答えにも繋がるんです。もちろんお互いに影響し合うことはあるでしょう。素敵な出会いによって、私の人生に素晴らしいものが与えられることもあります。しかし、私の人生とその相手の人生とは同じではありません。違います。それぞれに託された人生が違うんですから、相手の人生を変える必要も実はないし、誰も、何も出来ないんです。しかし、それでも変えようと貪欲になればなるほど、変える事はできないということの前に、変えようとするこちら側が、かえって、動かされてしまうのではないでしょうか?そういうことは、無駄だと言えてしまうんです。一体何のために、一生懸命にやってきたのか?という、あれは何だったんだろう?という気持ちにもなっていくんです。

 

それは砂の上に家を建てる時にも、岩の上に家を建てる時にも、いろいろ起こる嵐や、雨が降って川が溢れると言う時にも、家を建てると言うこと以外の、余計な事に、時間を費やされることとも、同じ感覚ではないでしょうか?せっかく建てた家が流されてしまった。。。せっかく建てて、家でゆっくり過ごそうとしていたら、雨が降って、川が溢れて、風が吹いてその家を襲ってきたら、そのために費やす時間と労力はもったいない、無駄なことだと、そう感じてしまうと思います。しかし、神さまであるイエスさまは、イエスさまと言う岩の上に自分の家、自分の人生を建てる時にも、無駄と思えるようなことを与えられるのは、それは無駄なように見え、感じ、受け止めてしまうことでさえも、イエスさまが、私たちの家の土台、私の人生の土台であるからこそ、決して無駄なことではない!無駄と思えるような時間と労力でさえも、良い実を結ぶ祝福へと、イエスさまと言う土台の上で、造り変えてくださるんです。

 

エデンの会では、今年に入ってから、1つの本をテキストにして、一緒に学んでいます。先日はカナの婚礼のことについて、ご一緒に学び合いましたが、その時のテキストに、こう記されていました。そしてミシェル・クオストというカトリック神父の祈りの言葉が紹介されていました。

 

最後に私たちが考えさせられることは、この主イエスによる奇跡はあのガリラヤのカナでだけ行われたのではなく、その後の人類の歴史の中で繰り返し行われている神の働きであるということです。それは時間に対する奇跡だと言ってもよいでしょう。神さまは私たちのしばしば徒労に見えるような、無味乾燥に見える時間を全く違う豊かな時間に変えて下さるお方だからです。

 

主よ、わたしは仕事を終えて外に出ました。人々も外に出ようとしていました。彼らは、あちらこちらに往き来して、歩いたり走ったり、みんな急いでいるようでした。車も、バイクも、トラックも、道も、町全体も、人々は時間を無駄にすまいと急いでいました。時間を追いかけるように急いでいました‥‥さよなら、ごめんね、時間がないので、また来るね、待てないの、時間がないから、この手紙早く書かなきゃあ、時間がないので、お手伝いしたいのですが、時間がないので‥…どんなに努力しても、まだまだ時間がないのです。ほんとに時間が足りないのです。主よ、もしや、あなたの時間設定が間違っていたのでは、どこかに大きなずれがあったのではありませんか。1時間が短すぎ、1日が短すぎ、一生が短すぎるのではありませんか。‥‥時間はあなたからの贈り物‥‥しかも滅びゆく贈り物、保存のできない贈り物なのです。主よ、私には時間があります、たくさんの時間が。あなたがわたしに下さった時間はすべて、わたしの人生の年数も、私が生きる年月の日数も、私が過ごす日々の時間数も、それらはすべて、わたしにくださったものです。だから、わたしのなすべきことは、静かに穏やかに、完全に満ちあふれるまで一杯にすることです。そしてその味気ない水のような時間を、あなたは、かつてガリラヤのカナでなさったように、濃いぶどう酒に変えて下さるでしょう。主よ、わたしはこよい、あれをする時間、これをする時間が欲しいとは言いません。あなたがわたしに下さった時間の中で、あなたがわたしにせよ、とおっしゃったことを、心静かに行うことのできる恵みを、ただそれだけを、あなたから頂きたいのです。

 

人とは何者なのか?それは、私たちに何があっても動くことのない土台、イエスさまという岩の土台を与えてくださる、そのお方の上で、イエスさまから与えられた時間を、イエスさまと共に、イエスさまからこれをしなさいと言われたことをしていきながら、時には、無駄だと思うことも味わいながらも、それでもそれを祝福へと造り変えてくださるイエスさまの上に、自分の人生を建てていくことです。それによって、人は、私に与えられたわたしの人生を、イエスさまと共に歩む人生を持つ、人となっていくんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(7月27日)人とは何者なのか(マタイ7:15~29)