2025年7月20日礼拝 説教要旨
求める先には(マタイ7:1~14)
松田聖一牧師
以前仁鶴さんの司会で法律相談の番組がありました。その中では、いろいろなトラブル、問題を話題にして、まずは漫才師がそれを面白おかしく、そして大切なポイントは押さえて演じていかれ、その番組のゲストの方に、法律的にどっちが正しいかを判断してもらうという番組です。最後に、弁護士の方から、これが正しいと答えが出るのですが、その時、レギュラーの方ではなく、その時だけのゲストの方の答えが大体正解という流れがありました。その番組の冒頭に、こんな決まり文句がありました。それは仁鶴さんのこの言葉です。「四角い顔が、ま~るくおさめまっせ」という言葉でした。丸く収めるということは、問題解決する、丸く解決しようという意味ですが、それは、お互いのトラブル、問題を丸ごと全部OKとするというよりも、お互いのトラブルとなっていること、問題と感じている中で、お互いにどこかを削ったりするということではないでしょうか?それはある意味で妥協と言いますか、両方にとって、これならという落としどころに、落としていくということでもあると思います。ですので、本当に丸になるようにすればするほど、丸にはならないもの、納得できないこと、妥協が、出て来ると言うことでもあると思いますから、ま~るく収めまっせというのは、お互いにとって、難しいことでもありますね。
それは、イエスさまがおっしゃられた中にある、兄弟の目の中にあるおが屑と、自分の目の中の丸太との関係にも繋がります。というのは、「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである」にある「裁く」という言葉にある意味、すなわち人を分け、分離し、区別し、自分が優れていると判断する、思うということですが、それをするなと、イエスさまがおっしゃるのは、そういうことが私たちにないからではなくて、私たちにとって、人と人との間で、何かあると、人を分け、分離し、区別し、自分が優れていると判断し、思ってしまうこと、があるからです。そういうことがなければ、イエスさまはこんなことはおっしゃいません。あるから、言われるんです。
それは、自分の中で、相手であるその木を、丸太にしようとすることでもあるでしょう。自分にとっては、ま~るく収めまっせというつもりではあっても、どこか相手を削ってしまっているのではないでしょうか?
杉材の製材所の様子を見たことがあります。その時、大きな杉の木が大きなのこぎり、チェーンソーで切られていました。すると、切っている最中に、その木材からどんどんおが屑が出て、飛び散っていました。おが屑というのは、そういうものですね。丸太を切れば、おが屑は出てくるんです。つまり、おが屑は最初からおが屑ではなくて、人が丸太にしようとするからこそ、出てきますから、同じその木から、丸太も、おが屑も、その両方が出て来るということではないでしょうか?そしてその丸太の大きさと、おが屑の大きさとを比べると、お互いに両極端です。でもその両極端なものが、人の手によって、製材するということを通して、出てくるわけですから、人が、その同じ木に関われば関わるほど、丸太も、おが屑もどんどん出て来るということではないでしょうか?
つまりイエスさまがおっしゃられる、丸太とおが屑の関係というのは、丸太がおが屑を生み出したり、おが屑が丸太を生み出すということではなくて、1つの木を丸太に製材するときに、丸太も、またそれにともなっておが屑も出て来るということではないでしょうか?しかも、丸太にしようとする木には、いろいろな形があります。まっすぐだけではなくて、節くれだっているものもあります。加工しにくいものもあるでしょう。それを、本当に丸にしようとすれば、時には無理やりにでも、その木を丸太にしようとしますが、丸太にしようとするその人にとっての丸太にならなければ、また削っていきます。それでもまだ満足できなければ、ますます削られていきます。つまり、その人の思い通りの丸太にしようとしすればするほど、どうなっていくかというと、どこかで止めない限り、その木は、丸太になることなく、全部おが屑になって、丸太が消えてなくなってしまうということにもなりますね。
ということは、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」と言う問いかけは、丸太がどうとか、おが屑がどうどかというよりも、丸太にしよう、丸太にしようとする人の問題であり、そこから出て来るおが屑も、人の問題であると言うことなんです。そういう意味で、人と人との関係も、人が人を丸くしようとすればするほど、相手のその人からは、おが屑がドンドン出て来るんです。
そういうことが、どこから出て来るのかというと、人と人とを比べること、自分と人とを比べるところから始まっていくのではないでしょうか?
【比べれば比べるほど、満たされなくなる理由】というタイトルで、こんな言葉があります。「もっと上を目指せば もっと手に入れれば もっと認められれば、幸せになれると思っていた。でも手にしても、すぐに消える満足感。また次の目標、また次の数字へ。10億が50億、50億が100億。広い部屋、高い年収、理想の肩書き。手にしても、気づけば誰かと比べている「自分はまだ足りない」と。それが、比べる世界の終わりなき罠。比較の物差しに立っている限り、どれだけ積み重ねても“今ここ”には満足できない。他人と比べた幸せは、永遠に不安定。誰かの基準は、あなたの本当の幸せじゃない。・・・」
その通り、人と人とを比べるというのは、きりがないですね。ところが、そのきりのないことに一生懸命になってしまうと、結局は自分が正しくて、相手は正しくないというところに、その人を立ててしまうものだと思います。その時、自分が優位に立とうとしますから、相手を不安にさせたりしながら、相手を思い通りに、削っていくことになるのではないでしょうか?しかしそうすることで、安心できるのかというと、いっときはできるかもしれません。でもまた満足できない、安心できない、ということを繰り返していくものです。それは、相手がどうとかというよりも、自分が満足できていない、不安だから、その不安を何とかしようとして、もっと、もっと自分が優位に立とうとしていくんです。でもそれは、実はますます、自分で、自分に不安をあおってもいるということでもあるのではないでしょうか?その結果、極端な過激な言動、行動に走ってしまうことにもなるのではないでしょうか?
だからこそイエスさまは、人を裁くな、すなわち、人を分け、分離し、区別し、自分が優れていると判断するな、思うなと、おっしゃられるんです。それは、人と人とを比べて、分けて、どちらが優れていて、どちらが劣っているかということを判断して、こっちとあっちに分け、自分の思う通りに、木を削って丸太とおが屑とに分けようとすればするほど、こっちの人も、あっちの人も、自分が削られてしまう!と、不安になってしまうということを、分かっておられるからです。
もう1つのことは、自分が優れているところに立って、人をあっちとこっちとに分けて、区別して判断する時、自分だけが正しいと判断してしまいがちです。そうですよね。自分だけが正しいという思いが、強くなればなるほど、周りの人は、間違っている、正しくない、だからその間違いを正そうとする思い、その判断も強くなっていくのではないでしょうか?確かにそれは、自分にとっては、相手のその間違いを正そうとすることかもしれません。しかし、そうしようとすればするほど、相手のその人にとっては、自分が削られてしまうということを感じてしまいますから、そうはなるまい、そうはさせまいと、ますます頑なになっていくのではないでしょうか?
それでもなお丸太にしようとすればするほど、おがくずにしようとする極端なことに、どんどん突き進んでしまうのではないでしょうか?そうなると余計に、その正しさは、とがった針か、何かで突き刺すようなものに変わっていきます。それを繰り返すことは、する方もされる方も、その不安、頑なさが、ますます大きくなり、イタチごっこ、チキンレースのようになって、際限ないものとなり、ますます先鋭化し、極端なものに変わってしまうんです。
それは、パンをほしがるのに、石を与えようとすること、魚を欲しがるのに、蛇を与えようとすること、も同じことですね。パンではなくて石を子どもに食べさせようとしたら。魚ではなくて、蛇を食べさせようとしたら、相手は死んでしまいます。なくなってしまいます。でも極端になると、そうなります。
しかし、だからこそ、イエスさまが、求めなさい。そうすれば与えられるとおっしゃられる意味は、自分の正しさ、自分がこうだと思い、丸太の大きさ、その丸さはこうだと相手に求めていくことではなくて、自分が求めていることは、ただ自分の願いを実現するために求めるということが目的となってはいないか?それは結果として、丸太にしようとしても、全部おが屑に変わってしまうことではないか?と問いかけておられるんです。
もちろん求めなさいとおっしゃる通り、求めていくこと、求めることは大切です。ただし、求めるということだけが目的となってしまうと、求めるということが際限なく広がり、大きくなり、極端になっていきます。だからこそ、何のために、何を求めていくのか、誰に求めていくのか、その求めることの先は、何なのか?を、イエスさまは、大切なこととして、私たちに気付かせ、本当に求めるものを、イエスさまは、私たちに与えようとしておられるのではないでしょうか?
星野富弘さんの詩にこんな詩があります。
結婚指輪はいらないと言った。朝 顔を洗う時、私の顔を傷つけないように、体を持ちあげる時、私が痛くないように、結婚指輪はいらないと言った。今、レースのカーテンをつきぬけて来る 朝日の中で、私の許に来たあなたが、洗面器から冷たい水をすくっている。その10本の指さきから、金よりも銀よりも美しいしずくが落ちている。
この詩に、シンガーソングライターの岩渕まことさんが、こうおっしゃっていました。
世界で一番美しいラブソングは?と聞かれたら、「がくあじさい」と答えます。富弘さんの作品からはメロディーが聞こえます。きっと作品をご覧になる方それぞれにメロディーが聞こえているのではないでしょうか。
ところが最近は寝床で買い物ができる時代になりました。例のスマホでポチ、です。欲しいものをいくら手に入れてもそれが自分を幸せにし続けてくれることはないと知っていますが、何か空白を埋めるように物を欲しがる私。「結婚指輪はいらない」にはっとさせられました。持つ豊かさもあるが、持たない自由もあるのだと。その毅然とした場所から、冷たい水を指輪のようにまとわせる妻・昌子さんの歌が聴こえてくるようです。
自分が優位に立って丸太にしよう、おがくずにしようということを求めることから、相手を受け入れていく自由を求めていくこと、そして私も相手も、愛して受け入れて下さっている神さまを求めていくこと、そのことへと変えて下さるお方がいらっしゃいます。その時、求める先にあるものは、求め続けることではなくて、求めている私を受け入れてくださっているイエスさまがいらっしゃるのです。
祈りましょう。