2025年6月29日礼拝 説教要旨
なお用いられて(マタイ5:13~16)
松田聖一牧師
広島大学の先生が、「生命と塩」というタイトルでまとめているものがあります。その中にこうありました。
これまで「生命と塩」というテーマで、塩と生命の接点や生命活動における塩の役割など、「生命の中の塩」について述べてきました。最終回になる今回は逆の観点から「塩の中の生命」について述べたいと思います。しかも、岩塩の中に閉じ込められた「太古の生命」について。岩塩はもともと海水が蒸発してできた塩(海塩:かいえん)が地中で押し固められたものです。もともとは海塩ですから海水中の生きもの(特に微生物)が入ったまま固まることもあります。ギュッと押し固められて岩塩になると、それは中のもの(微生物など)を長期保存します、まるで太古からのタイムカプセルのように。
そんな岩塩から、微生物が息を吹き返すということが、あるとのことです。そんな岩塩は、ヒマラヤ岩塩などいろいろなところにありますが、少し珍しいのは、タイの、ナーン県というところに、ボークルーア村と言う村があります。その村の地下水には、数億年前の海の水が岩塩となった、その岩塩が地下水に溶け込んでいて、その地下水から塩が精製されて、岩塩として売られています。いずれにしても、岩塩は、純粋な100%の塩だけではなくて、他にミネラルや、いろいろなもの、不純物と言える塩ではないものも含まれています。
イエスさまがおっしゃっている地の塩は、そういう塩です。だから、その地の塩には、海の中に生きていた、いろいろな生き物の命も詰まっているということになりますし、そしてその命が、閉じ込められていた岩塩から、「塩気が」なくなり、塩としては何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる時、それは、何の価値も、何の意味もなくなるということではなくて、塩ではなくなった、その岩塩から、その命が出て、あるいは解き放たれて、命が命として、輝き出して、より広い所を照らして、広く用いられていく、ということではないでしょうか?
それはお料理などに塩を使う時と同じですね。というのは、お料理に、塩を少々入れると味が引き締まりますし、素材の味が引き立ちます。その時、使われた塩は、その料理に溶け込んで、塩としての形はなくなります。でも、その塩が、塩の粒、塊でなくなることを通して、塩が、そのお料理に豊かに、広く、そして大きく用いられていくんです。つまり、塩に塩気がなくなるというのは、塩が塩としての役割をきちんと果たして、用いられたからこそ、そうなるということなんです。
では、そういうことが、塩ではなくて、私たちに向けられた時、どうでしょうか?塩が、塩として用いられ、役割を果たして、外に投げ出され、何の役にも立たず、人々に踏みつけられるだけ、ということと同じようなことが、私たちの身に起こった時、それをそのまま、ハイ分かりました、ありがとうございます、と受け入れられるかと言うと、そうはなりたくない!まだまだ役に立ちたい!というのが、正直な気持ちですし、それが本音ではないでしょうか?
役に立たないという言葉について、ある方が、ご自身の思いをこう語っていました。
「あなたの言うことは役に立たない」「あなたにもらったものは、まったく役に立たなかった」もしも、こんなことを言われてしまったら・・・・、わたしはとても悲しくなるだろうなあと思います。「役に立たない」って、とても力が強いことばですよね。でも、わたしたちは日々、これは役に立つ・役に立たない、たくさんの切り分けをしているような気がします。これから役に立ちそうなあの勉強をしようか、しまいか。好きな子が来るかもしれない。あの飲み会に行こうか、行くまいか。クラスで話題になっているあの新作ゲームを予約しようか、しまいか。いつもより安くなっているから特売のあのお肉を買おうか、買うまいか。日々は、たくさんの選択のくりかえし。そんな日々のたくさんの選択の決断をするときに、この選択が、はたして役に立つのかどうかは、やっぱり考えてしまう。でも役に立つとか役に立たないとかって、ほんとうのところ、どういうことなのでしょう。役に立たないと思ったことは、ほんとうに役に立たないのか。
「あなたの言うことは役に立たない」「あなたにもらったものは、まったく役に立たなかった」もしも、こんなことを言われてしまったら・・・・、とても悲しくなると思います。切ない思いをします。人に踏みつけられるということは、自分がつぶされていくということですから、それはその立場に立ったら、大変です。でも、役に立たないと言われたこと、役に立たないと思ったことは、本当に役に立たないのかというと、その時、その場では役に立たなくても、役に立たないままなのかというと、決してそうではないんです。
ごまをすって、ごまをすりつぶして、すりごまにする時がありますね。その時、粒のままのごまを、すり鉢の中で、擦っていくと、ごまは小さく、こまかく、こなごなになっていきますが、その時、もともとのゴマの形は、そのすりごまにはありませんが、でも、ごまのいい香りがしてきますね。それでいろいろと美味しくいただけるものになるのですが、このごますりを、ゴマの立場から見れば、こんなに辛い、残酷なことはないですよね。粒が粒ではなくなるということですから、ゴマの形が失われますから、ゴマにとっては、大変です。しかし、すりごまにしたとしても、ゴマはゴマです。そして、そのゴマの良い香り、良いものが、粉々になることによって、より良く出てくるんです。それは小麦粉も、米粉も、そば粉もそうです。粉にしたら、まずくなるのかと言うと、もっと多くの食べ物に、用いられていきます。でも、小麦や、コメやそばの立場に立てば、粉々にされることですから、これほど大変なことはありません。でもそうなることによって、それらの粉になったものが、より良く、より多く、より広く、用いられていくのではないでしょうか?
つまり、イエスさまが、塩に塩気がなくなった岩塩が、外に投げ出され、人々に踏みつけられることに続いて、あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさいとおっしゃられるのは、私たちに与えられている命が、外に投げ出され、その外で、踏みつけられるという、一見すると厳しい出来事の中でこそ、その命が輝くということではないでしょうか?もちろん、楽しいひと時も、喜びの時にも、その命は、輝いています。しかし、私たちにとって、外に投げ出されること、人々に踏みつけられるという、試練と苦しみ、傷だらけの、自分が自分でなくなるほどに、ギリギリの状態にもなっていくことを通して、そこからその命が、命として輝きだしていくんです。より良く、より広く、用いられて行くんです。そのために、イエスさまは、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」輝きなさいではなくて、「輝かしなさい」とおっしゃられるんです。
そのこともまた、私たちは素直に受け取れない時があると思います。どうしてこんな時に輝かすことができるのですか?そんなどころではないと思うこともあるでしょう。だから、そもそも外に投げ出されること、人々から踏みつけられるなんていうことも、まっぴらごめんだ!そんな目に遭うのは嫌だと、これまでいたところ、岩塩として、そこでとどまっていたい、外に出たくない、一歩も踏み出したくないこと、あるいは、踏み出せない、ということもあるのではないでしょうか?
イエスさまは、私たちが、そうなることを分かっておられます。だからこそ、たとい踏みつけられ、身動きがとれなくなっていたとしても、あなたがたは世の光である、とイエスさまの方から認め、イエスさまの方から、世の光であるということを、与えて下さっているんです。だからこそ、私たちにどんなことがあっても、どういう状態になっても、あなたがたは世の光であり続けるんです。そして、その光は、閉じ込めておく光ではなくて、人々の前に、輝かす光です。光が周りに広がらないところに置くのではなくて、燭台の上に置くんです。そういう光となっているからこそ、イエスさまは、あなたがたの光を、人々の前で、輝かしなさいと、勇気を与えて下さり、時には、私たちの思いに反して、出来ないと受け止めている私たちに、無理やりにでも、そこから輝かしなさいと、声を掛けて下さるんです。それは、自分から輝かすこともできないでいる時であっても、そのところから、イエスさまが、光として、輝くということのために用いて下さるからなんです。そして、その時、もうすでに、イエスさまから与えられた、世の光を、そこで輝かしているんです。
生まれたばかりの子牛を写真で見たことがあります。牛も大きく大人になると、にらまれたら、ちょっと身震いしてしまいますが、生まれたばかりの子牛、赤ちゃんの子牛は、本当にかわいいです。そしてその子牛は、生まれてすぐに立ち上がろうとしますが、その様子を写した映像を見ると、そこには、生まれたばかりの、直後といってもいいかもしれません。子牛がいます。ところが、べたっと座り込んでいる、その子牛が、地面に弱弱しい足を一生懸命に伸ばして、4本脚で、足をガタガタさせながら立ち上がろうとするんです。その時、周りに牧場の人たちが取り囲んでいます。でもその方々は、子牛が立ち上がろうとする時、手助けをしません。自分の足で、立たせようとします。そうは言っても、そのとき、周りの方々も、内心は、ドキドキだと思います。手伝ってあげたいと言う気持ちにもなるでしょう。しかし、ただ見守るだけしかできない中で、その子牛が自らの足で、立つことができた時、周りの方々は、「やった!立ち上がった!」と、喜ぶことができるんです。それは、その子牛に与えられている命が輝く、その時を、一緒に喜べた時でもあるのではないでしょうか?
あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。それはイエスさまから与えられたお恵みです。そしてその恵みは、私たちが、人の世話になるだけで、何の宅にも立たないと、感じていても、イエスさまは、そんな私たちを必要としてくださいます。命輝かせる私たちとして、用いて下さいます。それはまた、イエスさまから与えられた恵み、その恵みを与えて下さっているイエスさまを、人々の前に、輝かせることに繋がっていくんです。
祈りましょう。