2025年6月8日ペンテコステ礼拝 説教要旨
神さまからの贈り物(使徒2:1~11)
松田聖一牧師
今から14年ほど前、新聞の投稿に、こんなエピソードが紹介されていました。
祖父のリンゴ。結婚式わいた。
長野でのいとこの結婚式に出席し、幼なじみの彼女の花嫁姿に涙がこみあげた。和やかに披露宴も進み、招待客退場の時が来て、突然、花嫁と暮らしてきた祖父が立ち上がってマイクをつかんだ。
驚いて見ていると、祖父は「私が作った林檎を来場の方々へお土産に持ってきた」と言う。粋なサプライズに会場は拍手喝采。出口で退場者に挨拶する新郎新婦と並び、祖父は1つ1つ丁寧に包んだリンゴを手渡す。毎年、長野から段ボール箱いっぱいに送られてきたリンゴ。しわだらけの手から受け取ると今さらにリンゴの重みを感じた。
昨年米寿を迎えた祖父が農業引退を考え、リンゴの木を近く切るという話が伝わっていた。そんな心中でこれだけ用意するのは大変だっただろう。目頭が熱くなった。
後日、あまりの甘さに感激した人たちの熱い要望に、木の切断を先送りしたという。おじいちゃん、曲がった腰で大変でしょうが、孫たちの大好きなリンゴを、もう少しだけ食べさせてください。
作ったりんごを、披露宴に来られていた方々に、花嫁のおじいさんが分けていかれたと言う、心温まるお話ですが、その時、分けて配られ、与えられた、そのリンゴは、配ることで、その数は減ったとしても、そのリンゴに寄せたおじいさんの孫への気持ち、愛情と言ってもいいかもしれない、その思いが、分けられ配られたリンゴと共に、そこにいた方々にも、与えられ、広がっていったのではないでしょうか?そして受け取られた方の中に、感激が生まれ、切ろうとしたリンゴの木が先送りされて「おじいちゃん、曲がった腰で大変でしょうが、孫たちの大好きなリンゴを、もう少しだけ食べさせてください」という、もう一つの言葉が生まれていくんです。
そういうことは、このリンゴのことだけではありません。私たちに与えられたもの、持っているもの、持てるものを分けて与えていくこと、分けて配ることで、分けられたそのもの、あるいは、その言葉に、別のもう一つのものが生まれていくのではないでしょうか?
それは、今日の聖書の中にあります、集まっていた弟子たちに、神さまの言葉が与えられた時の出来事もそうです。というのは、(3)「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とある言葉は、舌である神さまの言葉が、そこにいた弟子たちに、分けて配られ、分けて与えられたというということなんです。そして、その神さまの言葉を、神さまが語らせるままに、弟子たちが「ほかの国々の言葉で話しだした」時、神さまの言葉を語る弟子たちの口から出た神さまの言葉は、これまで彼らが持っていた言葉とは、異なる、もう1つの言葉となっていたということなんです。その言葉を話しだした弟子たちは、自分たちから話しだしたのかというと、神さまが語らせるままに、別の意味では、神さまが素直に語った通りに、語り出したということですから、それは神さまが素直に語った通りに、語り出すと言う時、彼ら自身が、神さまが語った言葉を、そのまま素直に受け取っているということではないでしょうか?
ここで、神さまが語ったことを素直に、そのまま受け取っていくということを確認しましょう。素直に受け取っていくということは、語られたことを、そのままハイ分かりましたと受け取ることも、1つの素直なかたちですが、いいえ分かりませんと、素直に分かりませんと言うことも、素直な姿ではないでしょうか?そして、言われた通りにしようとはしない、ということも、それだけを見れば、良いとは言えないかもしれませんが、それはそれで素直です。
例えば、聖書の言葉の中に、イエスさまが赦しなさいとおっしゃられた言葉がありますね。その言葉「赦しなさい」を聞いた時、いつでも、どんなことでも、どんな相手であっても、ハイ分かりました、赦しますと本当に思えるか?ゆるしますと言えるかというと、事の内容によって、また相手によっては、そんなことは思えませんし、出来ませんということもあると思います。それはそれで素直な反応です。だから赦しなさいと言われた時、その言葉の通りにしようとしても、自分ではできない時には、神さまから、赦すということを与えて頂かないと、それはできないのではないでしょうか?その赦すということを与えられる時の、方法、内容は、私たち自身が、赦そうと思えるようになることもあるでしょうし、反対に、赦せないけど、赦さざるを得ないというところに、神さまが、時には無理やりにでも、そうさせてくださると言うこともあると思います。
三浦綾子さんのご主人である、三浦光世さんが、ある本の中で、綾子さんとの結婚に際して、病床にあった三浦綾子さんを見舞うのですが、その時のこととして、こんなくだりがあります。
訪れるたびに光世は綾子のために回復を祈ってくれていたが、その日、彼はこう祈った。「神さま、私の命を堀田さんにあげてもいいですから、どうか治してあげてください」これほどの祈りを綾子は聞いたことがなかった。真実のこもった祈りに、綾子は思わず彼に手を差し伸べた。強く力を入れたら骨が砕けてしまうのではないかと思われるほどに、弱弱しい手を、光世はしっかりと握りしめた。この日を境に、2人の心の中でお互いの存在が日増しに、確実に大きくなっていった。しかし、ほどなく綾子の病状は再び悪化し、面会謝絶となる。光世のひたむきな祈りは、やがてある決断に迫られる時がきた。そして、彼は深い祈りの底から「愛するか」という神の語りかけを聞いた。「愛する」とは、彼女と共に生きて行く覚悟があるかということか。身動きもできず、いつ治るとも見通しのつかない病人と共に生きて行くということか。それは厳しい決断であった。光世はまたしても神に懇願した。「もし、それが神のご意志であれば、どうかその愛を与えて下さい。私にはその愛がないのです。」
「どうかその愛を与えて下さい。私にはその愛がないのです。」愛がない時には、愛がないんです。赦せない時には、赦しがないんです。でも、そうであっても、私の側に、それらのものがなくても、神さまには、与えて下さいと言うことができるんです。こちらにはない、でもそれで終わりではなくて、ないけれども、いやないからこそ、神さまに与えて下さいと求めていくことができるんです。そういうことを、神さまはダメだではなくて、そういうことをも赦して受け入れてくださり、こちらにはないものを、ちゃんと与えてくださるんです。
そういう神さまだということを、神さまによって、語らせていただく時、分け与えられた神さまの言葉が、増えて、広がっていくんです。
その結果、神さまの言葉のもとに集まって来た、当時の全世界である地中海を囲むところから、集まって来たありとあらゆる国の人々にも、通じる言葉、分かる言葉になって、広がっていくということではないでしょうか?不思議です。どうしてそうなったのか?それは、弟子たちにも分からなかったことでしょう。また一般的に、分けて、配られ、分けて与えられたら、分けて配られたものは、分ける前と比べれば、小さくなっていますし、増えるどころか、大きさも重さも減っています。しかし、神さまの言葉が分けられていく時、それは増えて、大きくなって、広がっていくんです。
それは、分けて配っていくことで、受け取る方が、どんどん増えて、その方の中で、神さまの言葉が、どんどん大きくなっていくからではないでしょうか?それは言葉と共にある、神さまのいのちそのものが、その人の中で、どんどん大きくなり、どんどん増えていくということではないでしょうか?そして、神さまの愛、神さまがいつもついていてくださる!神さまがいつも守って下さり、いつも支えて下さる!神さまと共に生きることができる、そのいのちのことばが、減るどころか、どんどん大きくなって、どんどん広がっていくんです。
だからこそ、私たちは、神さまがしてくださったこと、神さまが語って下さったことばを、分けて配っていくことができるんです。それは私たちの力でではなくて、神さまが、語らせるままに、時には無理やりにでも、語らせてくださるんです。そういう神さまでいらっしゃるんです。
先日の教区婦人研修会での講演の中で、こんな歌が紹介されました。
<ふしぎなポケット>作詞:まど・みちお 作曲:渡辺 茂
ポケットのなかには ビスケットがひとつ ポケットをたたくと ビスケットはふたつ もひとつたたくと ビスケットはみっつ たたいているたび ビスケットはふえる そんなふしぎな ポケットがほしい そんなふしぎな ポケットがほしい
この歌詞に対して、いろんな反応はあると思います。ポケットを叩いたら、その中にあるビスケットが、割れるだけではないか?と思われるかもしれません。確かにそうかもしれません。しかし、そのたたいて割れて、割れたビスケットを、分けて配っていく時、たとい割れてしまい、欠けたビスケットであっても、それを受け取った方々の中で、そのビスケットは増えていきます。そのビスケットに込められた思いは、ますます大きくなっていきます。
神さまの言葉は、そのようなものです。自分だけ独り占めするものではありません。分けて配っていくものです。その時、分けて配られた神さまの言葉は、どんどん増えて、大きくなっていきます。これが神さまからの贈りものです。
祈りましょう。