2025年5月25日礼拝 説教要旨
見てもらおうとして(マタイ6:1~15)
松田聖一牧師
虚栄心という言葉があります。その言葉の意味について、こんな解説がなされていました。
虚栄心の「虚栄」とは、見栄を張って本当の自分以上に、見せようとすることです。従って「虚栄心」の意味は、周囲に対して自分のことを実質以上によく見せようと、見栄を張りたがる心を表しています。他人の前で、本来の自分よりも背伸びしたくなることは、誰にでも多少はあることです。
見栄を張って、本当の自分以上に見せよう、本来の自分よりも背伸びしたくなること、誰にでも多少はある・・・皆さんはいかがでしょうか?あからさまではなくても、きっとどこかにある思いだと思います。でもそれは、本当の自分を見せているわけではありませんから、それをずっと続けられるかというと、どこかで無理が来てしまうのではないでしょうか?
というのは、それとの関連ですが、虚栄心に似た意味の言葉の1つであり、めっきから見えてくるものがあるからです。メッキとは、金属で表面をコーティングすることですが、日本語の語源としては、滅金(めっきん)と言って、例えば東大寺にあります奈良の大仏を作る時に、金を水銀に溶かしたものを、大仏に塗って、それを加熱して、水銀を蒸発させて金だけを残す時に使われる方法から来ています。その時、金は水銀の中に溶けてしまう意味で、滅金と呼ばれていたものが、メッキになったとされています。そして、この滅菌に携われた方々は、加熱した時に、蒸発した水銀を吸い込んでしまわれるために、病気になったという記録もあります。だから、メッキをするということは、非常に、危険な作業でもありましたから、そういう意味でも、人が表面だけを装って素の姿を隠そうとすることは、実は、危ないことをやっているということですし、それは長続きしないのではないでしょうか?
それでも、人の前で本当の自分以上に見せようとするのは、なぜでしょうか?それは、本当の自分であるということを、自分が受け入れられないからではないでしょうか?もっと言えば、本当の自分を赦せないからではないでしょうか?それは、姿、格好だけではなくて、自分の置かれた環境とか、自分の身に起こったこととか、今、自分が直面していることも含めて、受け入れられない、赦せないということが、どこかにあるからではないかと思います。
そういうことも含めて、イエスさまは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」とおっしゃられるんです。でもそれは、善行、善いことをするなとか、続けておっしゃられる「施し」や、祈りも、するなということではありません。イエスさまは、そういうことをするなとは、おっしゃっていません。なぜかというと、善行も、「施し」も、そして、祈りも、素晴らしいものだからです。そうですよね。善行は、文字通り善いこと、慈善です。施しも、人に与えるということです。人のために、与え、助けていくということです。祈りもそうです。神さまに祈ること、これもまた素晴らしいお恵みです。そしてそれらのことは、人と人との関係、また神さまとの関係の中でなされることですから、そこには、必ず相手がいます。だから善行や、施しであれば、誰かのためになされていることですし、祈りであれば、神さまに向かって、神さまとの祈りの中で、誰かのために、祈っていることです。
そんな素晴らしいことが、素晴らしいことをする側の人の中に、「自分を見せよう」「人からほめられよう」「人に見てもらおう」ということが、先に立って、それが大きくなってしまうこと、そしてそれを、善行、施し、祈りの目的、結果としてしまうことがあるのではないでしょうか?
それは見方を変えれば、自分を受け入れてほしい!わたしをわたしとして、認めてほしい、という願いがあるからではないでしょうか?例えば、小さな子どもが、何かを作った時、何かをしようとしているとき、よくある言葉が、「見てみて!」ですね。見て!こっち見て!それは、それを見てほしいというだけではなくて、何かを作った私を見て!何かをしている私を見て!です。それは、そういう私を、受け入れてほしい!という、欲求です。
そのことで、ある保育園に勤めておられる方が、こんなことをおっしゃっていました。
「見て見て!」は、基本的にこっちを見てほしい、かまってほしいという気持ちの表れ。だから、子どもが自分の描いた絵を持ってきたときに、しっかりと見ないまま「あ~上手に描けたね~」と適当な返事をすると、子どもはそれを敏感に感じとって、また「見て見て」になりがちです。子どもが絵を持ってきたら、単に「上手だね」ではなく、「ここの線がまっすぐですごくかっこいいね」「赤と青がまざって紫になってるところが素敵だなってパパは感じた」などと具体的なポイントをほめてください。そのほうが「ちゃんと見ているよ」ということが子どもに伝わりやすくなります。それが難しいと感じる場合は、もっと単純に「お魚の絵を描いたんだね!」と、見たままを伝えるのもOK。この言い方なら、子どもが「見てほしいのはそこじゃないのに」ということもなく、満足しやすいです。
自分を見てほしい、自分を認めてほしい、自分を受け入れてほしい、それは子どもだけではなくて、私たちにもいつもあります。どんなことをするにしても、そのことをしている、そのことだけではなくて、そのことをしている自分を認めてほしいんです。
ということは、結局は、「自分を見せよう」「人からほめられよう」「人に見てもらおう」という欲求は、なくなるものではないということですね。ずっと続いていくものではないでしょうか?それはまた、自分を受け入れられない、自分を赦せないというものも、ずっと続いていくということではないでしょうか?たとい、そんなものはありません!と思っていても、あるいは人前で言っていても、なくなることはありません。持ち続けています。だから「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われても、右手と左手は、つながっています。右手のすることは、左の手にも分かります。でもそんなことはないと言っている時には、右手にあるものを、左手に、左手にあるものを、右手に持ち替えているだけ、そして右手の中に、あるいは左の中に、隠しているだけなのかもしれません。ではないしょうか?そして、その隠されたものを、持ち続け、思い続ければ続けるほど、小さくなるのではなくて、ますます大きくなってしまうのではないでしょうか?
イエスさまは、そこを見ておられるんです。そして神さまも、ちゃんと見ていて下さるということを、「隠れたことを見ておられる」と、おっしゃるだけではなくて、その神さまは、「あなたの父」あなたの神さまだということなんです。あなたの神さまだから、神さまは、あなたを、あなたとして、見ていて下さるんです。そして「報いて下さる」渡して、差し出して、交付して、返してくださるんです。
では、何を渡して、何を差し出して、何を交付して、何を返して下さるのか?それはイエスさまです。あなたの神さまである、神さまが、私たちに、イエスさまを差し出してくださり、イエスさまを与え、イエスさまを、自分を見せよう、見てもらおう、とし、そのままの自分を赦せないでいる、わたしに、そうなってしまう度毎に、そしてそれが大きくなればなるほど、神さまは、イエスさまを、与えて下さるんです。
そのイエスさまが与えて下さった、祈りが、主の祈りであり、その祈りを通して、「御名があがめられますように」神さまが大きく、大きくなりますようにと言う祈りも、与えて下さり、その祈りを通しても、あなたの神さまが、私の中で、大きく、大きくなっていくんです。
ある一人の方が、教会に来られるようになり、神さまを信じていかれた時のことを振り返って、こうおっしゃっていました。
私には神さまを信じるまでの30数年間、ずっと心の中に、不安がありました。具体的な不安というよりも、何か悪い方へ、失う方へ向かっていくのではないかという、漠然とした不安です。ですから、うれしいこと、幸せなことがあっても、すぐに、これも長くは続かず、壊れてしまうのではないか、とか、大切な物、例えば、家族が病気や事故で死んでしまうのではないかと、不安が次々と湧いてくるのです。物事を否定的に考えて、プラスに考えることができませんでした。
幼い頃、両親が離婚して、私は、父のいない家庭を当たり前として生きてきました。特に不都合を生活に感じたことはありませんでしたが、やはり何かあったとき、女性である母だけでは不安、とにかく慎重に慎重に、何ごともなければ、ああよかったという癖が幼いころから自分についていたのかもしれません。一人っ子のため、そんな不安を共感する相手もいませんでした。いつもどこかで、強い者にすがりついて、「大丈夫だよ」と言ってもらいたかったのだと思います。
そんな自分が、友人に連れられ、教会に足を踏み入れ、聖書を学び、そこで、自分が求めていたもの、父である神さまを知り、その父が、ずっと私を愛して守って下さっていたことを知って、生活は変わりました。何事も、私一人でなく、神さまが一緒に知っていて下さると、思えるようになったのです。毎日の生活の中でも、予定が変更になったりなど、ささいなことですが、自分の考えとは違ったことが起こります。でもこれも、きっと神さまがこの方が良いとされたことなのだと、以前なら、予定通りにいかなかったことに腹を立てていましたが、受け止められるようになってきました。子どもに対しても、自分の描いていた姿に育たないと、この子はダメだ、将来も良くない、と衝突していましたが、今は、神さまが与えて下さった子、神さまが必要とされた子、この子を信じて、見守って行こうと、以前のような焦りもなくなりました。
ここまで書くと、今、私はバラ色の毎日を送っているかのようですが、そうではありません。神さまから与えられた試練の中で、もがき苦しんでいます。でも、きっと神さまは私を見捨てはしないという頼る場所があります。どうなるかは分かりませんが、神さまに祈り導いていただこうという自分が、ここにあります。
私たちの神さまは、「あなたの」神さまです。そのあなたの神さまは、あなたに、イエスさまを差し出し、イエスさまを与え、イエスさまと共に、神さまと共に、いろいろなことがあっても、ずっと変わることなく、共に歩み続けてくださいます。その神さまと共にあるわたしが、今、ここにいます。
祈りましょう。