2025年5月18日礼拝 説教要旨
分かるようになる時(ヨハネ14:1~11)
松田聖一牧師
一月ほど前のことでしたが、車を運転していた時、スピードがなかなか出ない・・ということになってしまいました。いくらアクセルを踏んでも、5キロか10キロにしかならないので、交差点を右折する時、どうしようかと思いました。それでも調子が出てくると、スピードも出てくるので、様子を見ていましたが、日曜の夜、富県公民館に出かけた時のことです。こちらから富県までは、最初は下りでしたので、何も問題なかったのですが、天竜川を越え、三峰川を越えたあたりからの坂道になった時、だんだんとスピードが出なくなってきました。それでも、スピードが落ちないようにと、とにかくアクセルを踏み続けていくのですが、坂道が何段も続いていくうちに、見る見るうちにスピードが落ちてしまいましたが、何とか公民館に辿り着いたことでした。さて、帰りはというと、富県から伊那北駅までは、下り道なので、何とか大丈夫だったのですが、伊那北駅から、伊那北高校前の坂道に差し掛かった途端、本当にスピードが出ないんです。速度計を見ると、5キロ。本当にのろのろ運転でしたので、左に寄って、ハザードランプをつけて、後ろからやってくる車に追い越してもらえるように、歩くよりも遅く速度で、のろのろと坂道を進んでいきました。運転しながら、いつ車が止まるか?とひやひやでしたが、良かったこともありました。普段は、その坂道はあっという間に通過してしまいますが、5キロだったお陰で、景色も、じっくり眺めることができたことでした。へえこんなものがあったんだという感覚にもなりました。そうは言っても、坂の途中で止まったら、教会に辿り着けないと思いましたので、アクセルをいっぱい踏み続けて、何とか坂を登りきることができ、無事に帰りつくことができたのでした。それから修理に出して、今は元気に走っています。
そんなひやひや、ドキドキ、どうしようという、動揺はどうして起こるのかというと、車が思うように動かないからです。別の見方をすれば、どうしよう~と、心が揺れ動く時とは、こちらの思うように動かない車という相手がいるからです。
それは車だけのことではなくて、他にもいろいろありますね。そんな時には、どうしていいか分からなくなります。何を頼りにしていいかもわからなくなることもあるかもしれません。そしてその動揺が、自分自身に起こるのは、自分にとって思い通りに、動いてほしいもの、人、あるいは事柄が、動かない、動こうとしないと言うことが、目の前にあるからではないでしょうか?その結果、こちらの心が動く、動揺してしまうのではないでしょうか?
弟子たちの、動揺もそうです。この時彼らは、何があっても、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったほどに、彼らは、ずっとイエスさまについて行きたい、イエスさまとずっと一緒にいたいんです。イエスさまから離れたくないし、自分たちから、イエスさまが離れていってほしくないんです。それなのに、イエスさまは、「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」と、これまで彼らを導き、共に過ごしておられたイエスさまのところに、ついてくることができないと、何度も何度も言われるんです。でもそれは、彼らの思いではありません。彼らのずっと一緒にいたい、という思いに沿って、イエスさまが動いて下さらないという内容です。
では、そうなることを、イエスさまは、喜んでおられるのかというと、決してそうではありません。イエスさまにとっても、弟子たちから離れるということは、身を切られるような、辛いことではなかったでしょうか?それでもこのことをおっしゃられるのは、今、まだ一緒にいる間に、これからのこと、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と、イエスさまは、今ついてくることはできないとおっしゃりながらも、それが永遠ではなくて、神さまのところに場所を用意したら、戻って来て、わたしのもとに迎えると、約束しておられるんです。
それに対して、トマスは、イエスさまが、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃられたことに対して、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」分かりませんとか、その道を知ることが出来ないと、答えていくんです。また同じところにいた、フィリポは、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と、イエスさまが言われたことに対して、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と答えているのですが、この答えを見ると、イエスさまからは、父、すなわち神さまを知る、いや、既に見ていると言われているのに、フィリポは、見ていますとは言わずに、これからお示しください、証明してください、指し示してください、です。だから、トマスのように、分かりません、とは言ってはいませんが、フィリポも、分かったつもりになっているだけで、結局は、分かっていないのではないでしょうか?つまり、この2人が答えた内容は、イエスさまのおっしゃっていること、おっしゃっているイエスさまのことを、分かっていないということなんです。
私たちにも、分からないこと、分からない時がありますね。その時、どう答えるでしょうか?算数の授業をしたときに、何かの計算だったと思いますが、そのことを一通り説明した時、子どもたちにこう聞きました。「分かった?」すると全員が「分かった!」大きな声で、威勢のいい返事が返ってきました。そこで、分かった人は手を挙げて!と言うと、全員が手を挙げるものですから、当てて聞いてみました。具体的に、これはどういうこと?と、聞きましたら、あてられたその子は、「分からん!」と答えていきました。別の子にも、聞きましたら、分かっていなかったんです。不思議なものですね。分かった!と威勢のいい声を上げても、全員手を挙げてはいても、分かったつもりになっている子もいれば、分からないのに、手を挙げている子もいるんです。周りにつられて、つい手を挙げてしまった子もいるでしょうし、自分だけ手を挙げないということが、恥ずかしかったからかもしれません。それは子どもだけのことではなくて、私たちにも、同じようなことがあるのではないでしょうか?分かっていないのに、分かりませんと、なかなか言えずに、分かったような顔をすることもあります。分かっていないのに、分かったつもりになっていることもあるのではないでしょうか?
そう言う意味で、トマス、フィリポは、その答え方は、それぞれですけれども、分かっていないんです。でも、分かりませんと言っているトマスからも、分からないまま言っているフィリポからも、イエスさまは、彼らが分からないから、一緒にいなくなったのではなくて、それでも一緒におられて、これからのことを語り続けているんです。そして、その分かりませんということも、分かったつもりになって、分かっていないことも、イエスさまは、その両方を受け止めてくださっているんです。だから、トマスは、分かりませんと答えることができ、フィリポも、「わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、イエスさまに返していけるんです。それは、イエスさまが、トマスや、フィリポが、どんなに分からなくても、それでも、イエスさまは、動いていないからではないでしょうか?どっしりとそこにいて下さっているからではないでしょうか?
イエスさまは、そういうお方です。だから、弟子たちがこれから、自分の身を守るために、イエスさまから離れ去っても、イエスさまを裏切っても、そういう心に向かって、心が動いて行っても、それでも、イエスさまは、離れ去られるという立場からも、裏切られるという立場からも、動かなかったんです。逃げずに、そこにとどまり続けたんです。それは、十字架の上においてでさえも、そうです。しかし、その時、周りはどうだったかというと、弟子たちだけではなくて、イエスさまを十字架に付けるために、動いていましたし、イエスさまに対しても、神の子なら、自ら十字架から降りたらどうだと、イエスさまを十字架の上から、動かそうとした人もいました。イエスさまが十字架に付けられたことで、弟子たちの心は騒ぎ、動揺し、逃げ隠れました。イエスさまを十字架に付けよと言われた人々も、イエスさまの十字架の出来事に、心を打たれ、心が動揺したんです。心が動かされたんです。それは、どんなに周りが動いても、騒いでも、十字架の上で、決して動かなかったイエスさまが、そこにおられたからこそ、周りの人々は、その心が動いたんです。
どんなに騒ぎ、どんなに心が動いていても、動かないイエスさまが、そこに、どっしりと共におられるということは、私たちにとっても、大きいですね。すごく安心できます。こちらがどうあっても、動かないお方が一緒だから、分からないことも、分かりませんと言えるようになっていきます。頓珍漢なことも、言えてしまいます。それはイエスさまにだったら、何でも言える、何でも言ってもいいという信頼となっていくのではないでしょうか?
その信頼が、フィリポの、イエスさまへの「主よ」主よ、神さま!と呼びかけにも、現れているのではないでしょうか?主よ、神さま!は本当に短い言葉です。しかし、この主よ!と呼びかけていくことを通して、イエスさまが、どんなにイエスさまのことが分からなくても、それでも、一緒にいてくださる!動くことなく、聞いてくださり、受け入れて下さる!ということが、大きな安心となっていたのではないでしょうか?そして、主よ!神さま!と、呼ぶことができるということは、私たちにとっても、凄く大きな安心につながるのではないでしょうか?
吉田晋悟という一人の牧師先生が書かれた本で、若年性アルツハイマーになられた奥さんとの日々を綴ったものが、最近出されました。そのタイトルは「ぼくを忘れていくきみと」アルツハイマー病の妻と生きる幸せ、というものです。この中には、60代で病気と診断され、それからの約20年に渡る介護の日々などが紹介されています。そして、奥さんの多美子さんの記憶力が、次第に低下していく中でのことが、こう書かれていました。
「神さまを忘れたらどうしよう」アイデンティティーの危機を神への信仰によって克服した多美子でしたが、記憶力の衰えを自覚するたびに、「神さまを忘れたらどうしよう」と不安を口にするようになりました。神を忘れることが、「自分の信仰の危機」と感じたのかもしれません。この危機に対して多美子は、人格の尊厳について確信した時と同じ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」の御言葉によって、神からの答えを得て安心していました。「たとえ自分が神さまを忘れても、神さまは覚えて下さるから大丈夫」という、神の真実さに頼っていたように思います。ただし神を忘れることの不安は、記憶力の衰えが進行するのを感じるたびに、繰り返されるようでした。そして、彼女は不安を覚えるたびに祈っていました。
彼女は祈りのたびに、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」や、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」などの御言葉によって、神の守りを信じて平安を得ていました。多美子は「私が忘れても、神さまが覚えてくださるから大丈夫!」と平安を得ていましたが、私には、「妻も決して神さまを忘れることがない」という確信がありました。初めの内は、聖書の学びから得た確信でしたが、認知症が進んで、彼女が「主よ」とか「イエスさま」という言葉を語らなくなっても、神との交わりから来る平安と喜びを保ち続けている様子を見ることで、それはさらに強い確信となりました。
アルツハイマー病は、多美子の心と身体に障害をもたらしましたが、彼女のたましいの中心とも言える霊を損なうことはなかったと私は考えています。彼女が御言葉によって、自分の人格の尊厳は損なわれないと信じたとおり、神は天に召される時まで彼女と共にいて、愛しておられるのを私は感じていました。「神さまを忘れたらどうしよう」と、認知機能の衰えを自覚するたびに抱いた心配に対しても、神は最後までご自身がわかるように示し続けておられたのを、多美子の様子から感じることができました。
そして次の聖書の言葉で結ばれていました。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」私たちの外なる人、目に見えるところも含めての、外側は、変化していきます。年齢と共に、衰えていくものです。そういう中で、分かりませんと言える時もあれば、分かったつもりになっていても、分からない時も出てきますし、分かっているのか、分かっていないのか、それも分かっていないことも起こる事でしょう。しかし、そんなことが現実にあっても、その衰えが自分自身にあったとしても、イエスさまは、いつも私たちと一緒に歩み、「あなたがたをわたしのもとに迎える」いつも、イエスさまは迎えていて下さいます。そのことが、分からなくても、いつもイエスさまは、私たちに、分かる時を与え続けてくださいます。
祈りましょう。