2025年5月4日礼拝 説教要旨

見えないところで(マタイ12:38~42)

松田聖一牧師

 

組織を維持するために、その時指導者に求められるものの1つとして、粘り強い根気だと言われています。その一例として、江戸幕府の幕末に活躍された井伊直弼という人に焦点を当てて、こんな紹介がなされていました。

 

「曲がりなりにも井伊直弼が幕府を運営していた時には、幕府は組織としてのまとまりを持っていた。それは、井伊直弼が限られた時間と追い詰められた状況の中で、最大限粘りを見せながら対外国、対朝廷政策を進めたことにも明らかである。加えて言うなら、直弼とまったく立場の違う岩瀬忠震(幕末の外交官。島崎藤村「夜明け前」にも、岩瀬肥後の名前で登場します)ですら、対外交渉の最終段階はともかく、それまでは知りうる知識を総動員して、根気強く交渉を重ねたことはよく知られている。しかも岩瀬自身、井伊直弼個人に対しての批判はあったが、幕府それ自体をないがしろにすることはなかった。」

 

つまり、井伊直弼にとっては、全く立場の違う、敵とも言える、反対派を、自分の腹の中に受け入れて、そして自分にとっては、全く立場の違う人にでさえも、信頼して役割を与えていくという方法を、取っていったということなんです。もちろん井伊直弼に対する別の見方、開国派として、強権をもって国内の反対勢力を粛清したということ、そしてそれらの反動を受けて暗殺されたということも、1つの確かな評価です。しかしそういうことがあっても、自分とは相いれない立場の人たちに対して、粘り強く、反対派の人々をも受け入れ、大切な役割を与えていくということが、井伊直弼においてだけではなくて、いろいろなところで繰り広げられていきました。

 

そんな、自分とは相いれない立場、反対派の人々を、腹の中に、受け入れ、大切な役割を与える、その粘り強さは、今も求められていることではないでしょうか?しかし、そういう時、起こり得るのは、自分とは立場が違う人、考え方が違う人、反対する人を、排除してしまうことです。その結果、どうなるかというと、自分の周りに、イエスマンばかりを置いてしまうことになります。それは、一見自分のやりたいように、何でもできるかのようになりますが、実は、イエスマンばかりで固めてしまうと、その組織は、自ら瓦解、壊れていってしまうんです。そういう意味で、やはり違った考え、立場の方も、上に立たれる方は、大変だけれども、受け入れようとして、一緒にやっていこうとすることが、結果として、その組織が、強められ、前に向かって進んでいけます。ただこのことを実際に十分にできるかというと、なかなか難しいですね。例えば、指導者と、反対の立場の人にとっては、それでも自分を受け入れようとする指導者に対して、ありがとうございますと言えるかというと、自分の言う通りにしてくれないと離れてしまう人もいます。しかしそれは、それで、致し方ありません。実際に井伊直弼も、全員に受け入れられたわけではなくて、桜田門外の変と呼ばれる出来事によって、反対派に殺されてしまいます。

 

そういう視点で、イエスさまに対して、「先生、しるしを見せて下さい」と言った、何人かの律法学者とファリサイ派の人々の姿、そしてその彼らと向き合われたイエスさまが、何をどう語られ、どう導かれたのか?ということを見る時、それは、「先生、しるしを見せてください」と、イエスさまとの関係で言えば、イエスさまを敵としていた律法学者、ファリサイ派の人々がイエスさまに、「言った」に始まります。この「言った」は、ただ言ったということではなくて、「要求した」という意味です。つまり彼らは、「先生、しるしを見せて下さい」と、イエスさまに対して、要求ですから、非常に強く求めているということなんです。しかも、その要求を、一人の律法学者が、とか、1人のファリサイ派の人が、しているのではなくて、律法学者は「何人か」で、またファリサイ派の人は、ファリサイ派の「人々」として、1回だけではなくて、何度も、何度も、イエスさまに求めているんです。

 

この何度も何度も要求するということは、しるし、証拠、何らかの見ることのできる兆し、前兆を、何が何でも見たい、見せてほしいという、欲求ですが、その要求を何度も何度も繰り返すことによって、ただ見せてもらえたらそれで十分になるのかというと、見せてくださいを、繰り返すことで、見せて下さいが、それが欲しいに変わっていくのではないでしょうか?

 

いろいろな商品を紹介したカタログがありますね。そのカタログは、教会にも年に1回、クリスマスの前に届きますね。そのカタログを、机の上においておきますと、いろんな方がそれを見られたり、あっちこっちのページを開いて、一緒に見ながら、ああでもない、こうでもないと、いろいろ楽しそうにされている光景が与えられています。カタログを、見ると、そこにはいろんな商品、かわいらしいものから、高級感のあるものまでいろいろありますから、見るだけでも、楽しい一コマだと思います。では、そのカタログは、見るだけでいいのか?見るだけのために、お店からどうぞと来るのかと言うと、カタログを見て、欲しいものを、あるいは必要なものを、買ってほしいからです。そして見る側も、そのカタログを見て終わりではなくて、これいいな!あれいいな!と感じて、見ることから、それを買いたい、欲しい、と感じて、良いもの、必要なものを買っていくんです。

 

それが、「先生、しるしを見せて下さい」と言った律法学者とファリサイ派の人々の姿なんです。そして彼らが欲しいと願った、そのしるしは、イエスさまに与えられている真理、見えない権威、すなわちイエスさまが神さまであり、救い主であるという真理、見えない神さまとしての権威のしるしです。それを見せてくださいと言いつつも、自分のものに是が非でもしたい!になっているんです。

 

でも、そもそもその権威、真理のしるしは、イエスさまに、与えられているものですから、それを見せて、ほしいと要求しても、それは、あくまでもイエスさまのものですから、彼らのものではないんです。しかし彼らは、自分たちのものではないことが、はい分かりました、ではなくて、それでも、自分たちもその権威、真理を持ちたい!イエスさまと同じ神さまの権威が欲しい!と、求め、何度も要求していくんです。これは、ないものねだりをしていることではあっても、その要求がますます大きくなった結果、イエスさまを捕え、イエスさまを亡き者としようとしていくことに繋がるのではないでしょうか?

 

しかも、そのことを、彼ら自身の手でしようとしたのかというと、実は、彼ら自身は実際にイエスさまに手をかけていませんし、イエスさまに向かって直接十字架にかかりなさいとか、十字架に付けよと言わずに、それを人にさせ、人に言わせていくんです。つまり、自分たちは、直接関係ないところにいて、自分たちの手は汚さないようにしながらも、イエスさまに与えられている神さまの権威、真理を、イエスさまから奪おうとしていくんです。これはストレートに言えば、自分たちは何もしていないのに、ほしい!というその欲望で、人を動かしていくんですから、彼らはずるいです。しかし欲望とはそういうことまでしてしまうんです。その結果、欲望に巻き込まれ、振り回され、被害を被る人が出て来るということではないでしょうか?指導者たちの欲望の構図は、こういうことなんです。それによって一番被害をこうむる、影響を受けるのが、現場なんです。

 

戦後、教師として平和教育に携わられた一人の先生がいらっしゃいました。ご自身は、広島で原爆に遭われ、戦後教師になられた方でした。その先生がある時、戦時中の教育にあった、竹やり訓練について、こんなことをおっしゃっていました。「竹やり訓練を学校でやっていたということは、戦争になると、学校で人の殺し方を教えたということなんです。」学校で人の殺し方を教えていた、今それは考えられません。今、そんなことをしたら、大問題です。しかし、その時は、それをやらねばならぬ、ということで、やらなければなりませんでしたし、やらされていました。もちろん、竹やり訓練は、教師自ら考え出したというよりも、その当時の、指導者の意志、人のものを、自分のものにしたい!本当は自分たちの国のものではないのに、その人たちの国なのに、それを奪おうとする欲望、そして戦争が、現場に降りて来た結果です。

 

そういうことは、この時だけのことではなくて、ファリサイ派、律法学者たちだけでもありません。人の歴史、営みの中で、なくなることなく、何度も何度も繰り返されてきたことなんです。だからこそ、イエスさまが「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」とおっしゃられるのは、欲望は、人の歴史、営みの中で、なくなることなく、何度も何度も繰り返されてきたんだということを、イエスさまは、はっきりとお示しになられるんです。

 

そこでイエスさまは、預言者ヨナ、ニネベの人たち、南の国女王、ソロモンと言う王さまを、続けておっしゃられますが、その方々も、皆、それぞれの時に、その欲望に駆られ、その欲望に負けてしまった人々であり、女王であり、王様です。その中の1つ、預言者ヨナと、ニネベの人たちを見る時、神さまがヨナは、神さまに背を向け、自分の欲望のままに生きてきたニネベの人々のところに遣わそうとするのですが、最初ヨナは、ニネベに行こうとはしませんでした。むしろ、行きたくないという自分の欲望のままに、ニネベとは反対の町タルシシュ行きの船に乗ったんです。ところが、神さまは、嵐を起こして、船が沈みそうになった時に、いろいろな方法で、ヨナを船から放り出して、海に投げ込まれた時、そのまま放っておかれたのではなくて、大きな魚に飲み込ませて、そのお腹の中に受け入れられるんです。そこで、三日三晩過ごすことを通して、ヨナを自分の欲望のままにという姿から、神さまに向かって、神さまに従っていく人へと変えてくださるんです。そしてニネベの人々に、神さまの言葉が語られ、その言葉を通して、欲望のままに生きていたニネベの人々も、神さまに立ち返ることができたんです。そんなヨナを、新しくしてくださったことを、「しるし」と、イエスさまはおっしゃられるんです。また「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」という意味は、ヨナ以外にしるしを与えないといっているのではないんです。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」です。つまり、あれほどに神さまに従おうとしなかった、ヨナでさえも、神さまは、神さまに向かって、新しく生きることができるようにしてくださった、そのことをしるしとおっしゃっているんです。そういう意味では、神さまがヨナにして下さったこと、与えて下さったしるしは、ヨナだけではなくて、ニネベの人々にも、南の国の女王にも、ソロモンにも、またそれ以外の、すべての人々、歴史の中に生きた、人、それぞれに、同じしるしを与えて下さると言う約束になっているんです。

 

だからこそ、その約束の通り、そのしるしを私たちにも、神さまは必ず与えて下さいます。どんなに神さまに背を向けていたとしても、そこから神さまに向かって、向きを変えることができる、そのチャンスを、神さまは、最もふさわしい時に、いつでも、どこにいても、必ず与えて下さいます。その時、分かることがあります。それは、神さまの方を向かなかった時には、自分の影ばかり見ていたということなんです。太陽を背中にしますと、自分の影が地面に映りますね。その影に近づけば近づくほど、その影は、自分に迫ってきますし、その影はだんだん大きくなります。しかし、光となって輝いている太陽の方向を向いた時、影は見えなくなります。もちろん影がないわけではありません。影の方を向けば、太陽を背中にすれば、太陽を背にすれば、太陽と反対に向けば、そこにある影が見えます。しかし、光の方を向いた時、私たちが見ることができるのは、影ではなくて、光になっているんです。

 

三浦綾子さんの作品の中に「ひかりと愛といのち」という本があります。その中に、こんな一文がありました。

 

光に背を向けている間は、私は、自分の黒い不気味な影だけを見つめていた。が、光のほうを向いた時、影は消え、聖なるあたたかい光だけがあった。

 

神さまの方を向くということは、影がなくなるということではなくて、見る方向が神さまの方に向かっていくことで、影はあっても、影を持っていても、神さまに包まれ、神さまに受け入れられている、光だけが見えてくるんです。もちろんその中で、時には、自分の影を見てしまうこともあるでしょう。その影に近づいてしまうこと、その影に飲み込まれてしまうこともあると思います。しかし、神さまは、そんな私たちであっても、イエスさまの十字架の赦しによって、赦してくださり、包んでくださり、神さまの方を絶えず向くことができるように、そのためのしるしを、私たちに示してくださいます。そして、その神さまのもとに帰ること、神さまのもとに立ち返る時を、必ず与えて下さいます。そのために神さまは、見えない神さまでありながら、見えるものを、私たちに与えて下さり、その見えるものを通して、見えるものを用いて、神さまのもとへと導かれるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(5月4日)見えないところで(マタイ12:38~42)