2025年2月16日礼拝 説教要旨

幸いである、(マタイ5:1~12)

松田聖一牧師

 

文章を書く時に、必ずあるのが、〇とか、点(、)ですね。句読点と呼ばれますが、それはどういう意味と目的があるかということについて、いろいろな例文を紹介しながら、こんな解説がありました。

 

大事なのは読み手への思いやり。なんとなく感覚で付けていた句読点にも、さまざまなルールがあることがわかったと思います。ただ大切なのはルールを丸暗記するのではなく、読みやすく正しく伝えるために句読点を意識することです。ぜひ、読む人のことを考えながら自分の書いた文章を見直してみてください。きっとより良い文章になります。句読点を付けるも付けないも、読み手への思いやりなのです。

 

そういう視点で、イエスさまがおっしゃられた言葉、山上の説教とも呼ばれている中にある、幸いであるという言葉と、そこに付けられている句読点は、読み手への思いやりだということです。そして、幸いである、には、〇が付けられているのではなくて、点であるということにも注目しながら、なぜ〇ではなくて、点なのかということも、確認させていただく時となればいいと思います。

 

そこで、まず点ということは、それで完了、完成ではなくて、続いていると同時に、途上でもあるということです。ということは、この「幸いである」が、そのまま完了し、完成したとは言えない現実も、イエスさまのもとに来られた、人々にも、続いているということでもあるのではないでしょうか?

 

というのは、イエスさまが、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を、癒されたわけですが、癒されて、後はハッピーになったのかというと、癒されたことは確かですが、癒されたことで、バラ色の人生になったとは、書かれていないからです。つまり、癒された人々は、確かに癒されたけれども、これまで病気だったこと、病気などで苦しんでいたこと、悩んでいたこと、取りつかれていたといった、これまでの過去をどこかで引きずっているのではないでしょうか?そんな中で、癒された後の、これからを生きていく中で、「幸いである」ということが、完成したとは言えない現実も、続いているのではないでしょうか?また、この人々は、自分の力ではイエスさまのところに来ることができませんでしたから、その人々を、連れて来て下さった人々が、イエスさまのもとにいます。さらには、その病気を抱えたその人を、毎日お世話をされるご家族や、周りの方々も、この群衆の中にいたことでしょう。その方々にとっても、癒されたその方々を、受け入れていくことが、ハッピーハッピーとは言えない、幸いであるとは言えない現実が、これから待ち受けているということでもあるのではないでしょうか?

 

元ハンセン病の患者でいらした方が、ご自分や周りの家族のことを、こう振り返っておられました。

 

私は12歳で発病し、故郷の愛知県から父親に連れられて療養所に入りました。すぐに本名を俗名※に変えることを勧められました。私の実家は真っ白になるまで消毒され、村八分のようになって引っ越しせざるをえなかったと後で聞きました。いずれ日本に「ハンセン病の元患者」はいなくなります。しかし、偏見と差別が残るまま、我々の人権が侵されたままでは見過ごせない。そういう思いから、私たちが置かれた境遇を若い人たちに話す機会を大事にしています。つらい病気を経験する人はどの時代にもいます。でも、国の政策や法律によって悲惨な思いをするのは、私たちを最後にしてほしいのです。

 

患者でなくなり、病気が癒されても、故郷に帰れるようになっても、それでもご本人に対してだけでなく、家族に対しても、偏見といったものが残されている現実があったことでした。その結果、故郷に帰れないままに、亡くなっていかれた方々もおられましたし、存命中の方も、今もなお、苦しみ続けています。そのご家族もそうです。そういう意味でも、「幸いである」が、〇ではなく、点であると言う現実があります。

 

それはまた、イエスさまが続いて語られている、心の貧しいことも、悲しみも、柔和なことも、義に飢え渇くことも、憐れみ深いことも、心の清いことも、平和を実現することも、義のために迫害されることも、群衆それぞれにあったし、それが、実現した中にも、幸いである、が、まだ実現できていないことも、続いているんです。そう言う群衆であることを、イエスさまは見て、分かっておられるんです。

 

それと同じことは、私たちにもあるのではないでしょうか?具体的に、心の貧しいこと、を振り返ってみましょう。心の貧しい、心が貧しいとも言えますが、具体的には、いろいろあると思いますが、その中の1つには、心に余裕がなくなってしまい、1つの見方しかできなくなることもあるのではないでしょうか?

 

靴屋さんに出かけた時のことです。指定された靴を買いに行ったことがありました。というのは、指定の靴が、近くの靴屋さんにはあちこち探しましたが、なかったので、そこに行けばあると思い立って、出かけたことでした。そこである靴屋さんに入って、お店の方に、こんな靴はありますか?と尋ねますと、「あるよ、あるよ~」と返事が返ってきましたので、やれやれと思いました。それで、やっとこの靴が手に入ったという安心と言いますか、そういう気持ちになりまして、お金をレジで支払った時、ふとお店の中に、沢山の靴があるということが目に入ってきました。それで思わず言ってしまったことがありました。「ここには靴がたくさんありますね~」お店の方も、??という感じになられて「そうですね~」と、余り愛想のないお返事が返ってきました。その時も、どういうことか分からなくて、何で愛想のない返事をされたんだろう?と思いながら、そのお店を出た後で、はっと気づかされたのでした。靴屋さんに、靴がたくさんあるのは、当たり前なのに、ここには靴がたくさんありますね~と頓珍漢なことを言ってしまった~ということに、後から気づいた次第でした。本当に変なお客だと思われたのではないかと、思いますが、靴を買うまでは、その靴、指定の靴を買わなきゃという、その1点にどうも集中していたと思います。それで、周りの靴に全く気付かずにいて、ようやく必要な靴が手に入った時に、初めて、周りを見る余裕ができたのではなかったと思います。

 

そういうことはありますね。1つのことに集中していると、周りに靴がたくさんあるのに、「ない」かのように思っているんです。そんな、ないと思っていた、思い込んでいたところに、あると気づかされた時、たくさんありますね~になってしまっていたのですが、靴屋さんのお店には、ちゃんと靴が「ある」んです。だから、お店の人には、靴がないのではなくて、たくさん「ある」ことがちゃんと見えていますし、分かっているんです。ところが、あるのに、あることに気づかなかったら、ないと思い込んでしまうんです。

 

これが心の貧しさの1つの現われです。それは靴だけのことではなくて、他のことでも、「ない」ばかりに目がいってしまうと、自分の中の「ない」ということが、自分の心の中で、どんどん大きくなり、あるいは大きくしてしまうこともあるのではないでしょうか?その結果「ある」が、どんどん狭くなって、どんどん小さくなってしまうんです。そして「ない」から、出来「ない」となり、他にもっと良い方法が「ある」のに、「ある」が、見えなくなってしまうんです。

 

それは悲しみや、柔和にも繋がります。柔和というと、優しいと言う意味に行き着きますが、この優しいという言葉は、その漢字を見ると、にんべんに憂うですね。悲しみも、憂うことも、そうです。そればかりに心が向いてしまうと、それがどんどん大きくなってしまい、その結果、悲しみからも、憂うことからも、抜けられなくなってしまうんです。義に飢え渇く、もそうです。正義、正しさ、公平、平等のために、一生懸命になって、それこそ飢え渇いて、これじゃいけない!だから、正義、正しさ、公平、平等のために、何かの活動をすること、求めていくことも、それ自体は、尊い働きであっても、そのことばかり考えて、そのことばかりに、心が向いてしまうと、それが心全体になってしまい、他のことが、心の中からなくなってしまいます。憐れみ深いも、そうです。というのは、人の憐れみ深さというのは、その時々で変わるからです。そしてその憐れみ深さが、相手に対して、強くなればなるほど、逆説的ですが、その相手を、自分の思い通りに動かそう、支配しようとしてしまうんです。心の清い、もそうです。心が純粋で、綺麗で、汚れていない、混じりけのない、心が、心の清いということですが、全く純粋で、何の混じりけもない人が、果たしているのでしょうか?そうじゃないですよね。

 

私たちの心もどうでしょうか?100%、純粋ですかと問われた時、どうでしょうか?不純な心ですね。どんなに純粋であろうとしても、そこには何かしら混じっています。清い心ではありません。

 

ですから、悲しみも、柔和も、義に飢え渇くも、憐れみ深いも、平和を実現することも、義のために迫害されることも、言葉としては、確かにあり、そのために、人はいろんな思いをもって、行動に移していこうとしたり、その運動や活動に関わっていきますが、その根っこにある心は、100%純粋ではなくて、どこか不純なもの、何か別のものが、そこには混じっていくということではないでしょうか?

 

それは、自分の中からだけではなくて、別のものが外から、周りから入ってしまって、最初の心、気持ちから離れてしまうこともあるのではないでしょうか?それは、迫害、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることで、そうなってしまうこともあるでしょう。その結果、混じりけの、不純な心になってしまうんです。そういったことも含めて、心が、貧しくなるということではないでしょうか?

 

そんな私たちの心の貧しさを、イエスさまは見ておられます。そして貧しい心で物事を見、とらえてしまうことも、自分の物差しで物事を判断し、時にはあるのに「ない」と、制限を加えてしまい、いつしか心が貧しくなってしまうことも、知って、見ておられるからこそ、イエスさまは、私たちの思いとは、全く逆転の発想と、逆転の幸いがあるということへと、向けさせようとしてくださるんです。

 

主人の受洗に寄せて、というタイトルで、ある方がこう書いておられました。

 

私の今までの生涯の中で、何が一番うれしいかと言うと、主人と子ども3人の受洗ほどうれしかったことはない。結婚、子供の誕生なども、もちろんうれしかったが、受洗は、一人の人間の新生であり、永続的な喜びがあるからである。正直言って、主人がこんなに早く救われるとは思ってもいなかった。よそのご主人が救われても、うちの主人だけは・・・などと思っていたのだから、神さまの御力を自分のはかりで制限していたことになる。3年ほど前、ふと、主人はこの私と結婚して、何の「得」があったかと考えさせられたことがある。容姿は見た通りであるし、家事はやらないで済むものなら、それに越したことはないと思っている。主人の世話はろくにしないし、不器用で、特技はない。つまり、主人は時々冗談で「若気の過ちで結婚した云々」と言うが、さもありなんと思われるような私なのである。(冗談にかこつけた本音かもしれないが)こんな何のとりえもない自分と結婚した主人が1つだけ「得」をすることがあるとすれば、それは、イエス・キリストを主と信じる私を通して、教会を知り、主イエスを知ることができるということではあるまいか。いや、そうでなければ、私と結婚した意味がないとまで思いついた。私はそれから、真剣に、主人の救いのために祈り始めた。祈り続けるうちに、主人が救われるということはまあないだろうという思いが消え始め、主に対する信頼が生まれ、人間的な思い煩いが軽減され、心が楽にされていった。それと平行して、主人は毎晩、熱心に聖書を読み、カセットテープに耳を傾けるようになった。高ぶる心がすぐ生じる罪深い私にとって幸いだったのは、私が聖書の話を主人にするということではなくて、主が直接的に主人の心に働きかけ、聖書の御言葉によって、信じる心を与えて下さったということである。私が主人を導いたなどとは間違っても言えないということは、高慢な私には大きな恵みであった。主は驚くべき短期間に、主人の心を砕いて下さった。そばにいた私は、ただ驚くばかりだった。ある姉妹は、この主のみわざを奇跡だと言った。私が口を出す隙間すらなかったのである。私はただ祈りを通して、主を信頼することを学び、祈りにも答えてくださる主の恵みを見た。こうして、主人と私は共に主を仰ぐ者とされたのであるが、受洗に至る迄の主の恵みをいつも心に留めておきたい。「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」と、主に言われないように、いつも主に向かって燃えている2人でありたい。

神さまは、ご主人が教会に来られ、神さまを信じて洗礼へと導いてくださいました。その背後には、奥さんの祈りがあり、その祈りに、神さまは、こたえて下さったのでした。でも最初は、「救われることはまあないだろう」ない、でした。でも神さまは、そのない、を、ない、ままにしておかれるお方ではなくて、ない、を、ある、に造り変えてくださるんです。それが、奥さんからご主人に聖書のお話をすることではなくて、神さまが直接的に、聖書の言葉を通して、働きかけて下さるということでした。

 

イエスさまが、幸いである、とおっしゃられるのは、最初から、幸いであるということが、ある、と受け取れないような中にあったとしても、最初は、ない、としか受け取れなくても、それが心を支配し、心が貧しくなっていたとしても、そこにも、「ある」を与えて下さるお方です。

 

だから悲しむ人々は、悲しむことで終わりではありません。「慰められる」んです。慰められることが、あるんです、柔和な優しい人々も、憂うことばかりで終わりではありません。憂うことから、「地を受け継ぐ」ことへ、そして義に飢え渇いている人々には「満たされる」ものがある、満たされるを、あるものとして、与えてくださるんです。

 

私たちは、いろいろなことで、心が貧しくなることがあるでしょう。目の前のことしか、入って来ないこともあると思います。しかし、いろいろなことがあっても、ある、を与えて下さるイエスさまからの、幸いが、与えられる時があります。だからイエスさまは、最後におっしゃられた幸いであるは、点ではなく、〇、と結んでおられるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月16日)幸いである、(マタイ5:1~12)