2025年2月9日礼拝 説教要旨
気づいていない時から(マタイ13:10~17)
松田聖一牧師
『小さく分けて考える「悩む時間」と「無駄な頑張り」を80%減らす分解思考』と言う本があります。今から3年ほど前に出されたものですが、この本は、大まかに言えばどういうものかというと、物事を、大きな一塊で捉えるのではなくて、小さく分けて考えることで、解決されていくということを、教えています。物事を小さく分けて考えること、それは具体的にはどういうことかというと、
例えば、毛糸が絡まってしまった時、それをどう見て、受け止めるでしょうか?ああからまって、ぐしゃぐしゃになっている~と、その毛糸を一塊に見てしまって、とにかくからまっているから、ほどかないと・・・という思いが先に立ってしまい、やみくもに毛糸を、一生懸命に引っ張ってしまうことがあるかもしれません。でもそうすればするほど、かえってその毛糸は、ますます絡まってしまいます。では、どうしたら、絡まった毛糸をまた元にもどすことができるのかというと、絡まった毛糸を、絡まっていると一塊に見るのではなくて、絡まっている毛糸の1本1本に分けて、絡まっている糸を、1本ずつ、少しずつほどいて、それを繋げていくことですね。そうすると、最初は一塊のようになっていた毛糸の塊が、1本の毛糸にだんだんになっていきます。つまり、その時に必要なことは、一塊になっていると受け取ることではなくて、一塊になっている毛糸は、1本の毛糸であるということを、絡まった毛糸の玉を見ながらも、分けて捉えるということではないかと思います。
それは毛糸だけではありません。物を整理することもそうですね。散らばっているものを、整理する時、散らばって散らかっている・・とそれだけを、一塊に見てしまうこともありますが、1つ1つを分けてみていくと、種類ごとに分けていけるようになります。そして、分けていく中で、必要なものと、そうでないものとが分かってきます。ただこれも時々あるのは、1つのものに目が留まった時、その1つのものにある、思い出に繋がってしまうと、分けられなくなってしまうこともあるかもしれませんね。他にもいろいろありますが、だからこそ、一塊にするのではなくて、分けていくと、何が何だかが分かるようになっていくものです。
それは、イエスさまの弟子たちもそうです。というのは、イエスさまが、大勢の群衆に神さまのことを話された時、弟子たちは、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と、尋ねるのは、自分たちが群衆と区別されたということ、自分たちだけ、違う扱いを受けたという、そこだけを一塊に考えて受け取ってしまっているからではないでしょうか?だから、弟子たちは、なぜ、群衆にはたとえを用いて話しているのに、自分たちには、たとえを用いなかったのですか?と、イエスさまに、尋ねていくんです。
それに対して、イエスさまは、群衆と、弟子たちとを、同じではなくて、分けた理由を、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」と答えていかれるのです。この中で、「あなたがたには天の国の秘密を悟ること」にある意味は、弟子たちであるあなたがたには、神さまの教えを知ることを与え、神さまの教えを行うように、任せ、委ねているということなんです。それで、弟子たちは、知ることが委ねられている、悟ることが許されていると繋がっていくのですが、ではストレートに何でも分かるようになっていくのかというと、実はそうではありません。そのポイントは、「悟ること」この言葉にあります。なぜかというと、「悟る」には、自分の知恵をもって、知ろうとすると言う意味があるからです。
つまり、弟子たちが、イエスさまから語られ、委ねられた神さまのことを、自分の知恵で、理解しようとしたら、分かるようになるのか?というと、自分の知恵では、分からないということなんです。確かに弟子たちに「悟ること」が委ねられてはいます。もちろん、自分の知識や、これまで経験したこと、蓄えたことで得られたいろいろなことをもって、考えることは、弟子たちもここでもうすでに考えていますし、その知識や、経験といったこと、そしてそこから身について来た、自分の考え、考え方は、確かに彼ら自身の中に、持っています。そういう意味では、イエスさまがおっしゃる通り「持っている人」です。
しかし、イエスさまが、語られ、委ねられた「天の国の秘密」神さまの教えである、神さまの言葉を、全部、自分の知識、自分の考えをもって、理解しようとすれば、分かるようになって、悟るようになるのかというと、そうではなくて、神さまの言葉を語られたイエスさまと共に、イエスさまと一緒に歩むことを通して、分かるようになっていくんです。
そのスタートが、洗礼なんです。ある方が、洗礼を受けられるにあたり、聖書の学びを、その先生と一緒にする中で、その先生がこうおっしゃいました。「〇〇さん、洗礼はスタートですよ」「洗礼はゴールではありませんよ。洗礼を受けてから、神さまを信じて、これから神さまと共に歩む、新しい歩みが始まるのですよ~そしてその中で、だんだんと神さまがおっしゃられたこと、神さまのことが分かるようになっていくんですよ~」その通りです。洗礼はスタートであり、卒業ではありません。そういう意味で、洗礼を受けたら、何もかも分かるということではなくて、洗礼という、そのスタートから、始まって、だんだんに神さまのこと、イエスさまがおっしゃっておられる神さまの教えが、分かるようになってくるんです。
それは、マラソンとよく似ています。フルマラソン、ハーフマラソンなど、いろんなマラソンがありますが、スタートして、走り出すと、いろんな景色が見えてきます。走り出す前、スタートする前には分からなかった景色もあるかもしれません。またスタートしてから、走っているうちに、靴の紐がほどけたり、筋肉痛などで、痛い思いをしたり、こけてしまったりと、トラブルに見舞われることがあります。その時、マラソン走者に何かあった時に備えて、走者と一緒に、少し離れたところで走ったり、車で一緒に走ってくれている方々がいます。沿道で声援を送ってくれる人も、水分を補給してくれる人もいます。折り返し地点にも、いろんな人がいて、出迎えてくれます。応援してくれています。それがマラソンです。だからスタートしたら、もちろん一人で走りますが、それは何もかも1人の力で、ゴールまで走るのではなくて、一緒に走ってくれる人にも、周りの人にも助けていただきながら、ゴールに向かって走り続けることができるんです。短距離走でも同じことが言えますね。
洗礼というのは、そういうことなんです。神さまを信じて、スタートしたとき、スタートしてからもある、いろいろなことの中に、神さまであるイエスさまに、助けていただきながら、支えていただきながら、イエスさまと共に、神さまと共に一緒に歩み続けていくんです。そういう意味で、スタートしたら、後は1人で何もかもやりなさいではなくて、イエスさまと共に、一緒に歩みをスタートしていくことでもあるんです。
しかし、その後、イエスさまと一緒に歩もうとしなかったら、それは、神さま抜き、イエスさま抜きになってしまいますし、その結果、イエスさまがおっしゃられる、「持っていない人」となっていくのではないでしょうか?つまり、自分の知識や、経験というものは持っていても、イエスさまと共に、一緒に歩み続けることが、抜け落ちてしまうと、持っている人も、持っていない人に変わってしまいます。そして「持っているものまでも取り上げられる」取り除かれ、片づけられてしまうのは、与えて、委ねて下さった神さまを持たなくなると、神さまから与えられ、託され、委ねられたものも、持たなくなるからです。それは困りますね。自分の知識、経験、自分の考え迄も、取り上げられたら、自分が自分でなくなってしまいます。私が、私でなくなり、私はどこかに行ってしまいます。
それは別の見方をすれば、私のことを、あなたと呼んでくださり、私を、私として、認め、受け入れて下さっているイエスさまが、どこかに行ってしまいます。そうなると、一緒に歩んでくださり、その歩みを助け、支えてくださり、励まして下さり、私をあなたと呼んで下さり、受け入れて下さるイエスさまがいなくなってしまいますから、そういう意味でも、私は、私でなくなってしまうんです。
そんな中で、「持っている人はさらに与えられて豊かになる」と、弟子たちにイエスさまがおっしゃいますが、そもそも、イエスさまの弟子たちが、具体的に持っているものは、イエスさまが弟子たちを、ご自分の弟子として呼びかけ、招かれた時、着る物など、持ち物について、必要最低限のものしか持つなとおっしゃいましたので、持っているものはごくわずかです。その後、弟子たちがいろいろなところで、神さまの働きをしていきますが、その時にも、「金銀はわたしにはない」と、お金になるようなものは何もないと言っていますから、本当になかったと言ってもいいでしょう。
しかし、本当に、ごくわずかしか持っていなくても、持っている人とされ、さらに与えられて豊かになると、おっしゃってくださるのは、彼らが、彼らと共に歩み、彼らと共にいてくださる、イエスさまを持っていたからです。そして、イエスさまと共に、一緒に歩む弟子たちに、さらにイエスさまが与えられ、さらにイエスさまを持つようになっていくんです。そして、イエスさまから与えられるものも、イエスさまと一緒に歩む中で、さらに豊かに与えられていくんです。
もちろん、弟子たちにとって、イエスさまと一緒に歩む中で、いろいろな苦難も経験しました。失うことも、傷つくことも、いろいろ持つ人になりました。それを喜んで、彼らが受け取れたかというと、失うことも、傷つくことも、喜んで受け取ります。喜んで、頂戴しますという言葉はありません。しかし、イエスさまと共に歩むことを通して、イエスさまを通して語られた、神さまの言葉が、彼らを支え、立ち上がらせ、前に向かって歩み出すことができるように、神さまがしてくださっているんです。
そして、その弟子たちから、イエスさまは、十字架へと奪われ、取り上げられていきます。弟子たちから、イエスさまが失われてしまうのです。しかし、そうであっても、そしてまた、群衆も、イエスさまを取りあげる群衆となっていったとしても、イエスさまと共に歩み続ける時、イエスさまを持っている人なんです。
なぜならば、神さまの言葉を語られたイエスさまが、取り上げられ、持っていない人となっても、神の言葉は、残り続けるからです。その言葉と共にイエスさまが共にいて下さり、共に歩んでくださるんです。その約束、イエスさまが一緒に歩いて下さると言う約束が、その言葉を通して、与えられ続けていくんです。だから神さまの言葉を持ち、持っている人になっているんです。
そしてその言葉が、私たちにも語られ、その言葉を通して、私たちにも、共にいてイエスさまが、これからの人生を豊かに祝福してくださると言う約束と、そのことを信じる信仰が与えられていくということではないでしょうか?
昨年、教会は創立140年を迎え、共にお祝いの時が与えられました。最初の教会に集われた方々にとって、また設立された方々にとって、その時まだ教会堂はありませんでした。そこに住む牧師先生もいらっしゃいませんでした。いわゆる無牧の中で、教会が設立されました。巡回してこられる先生によって、礼拝が守られ、ささげられたことですが、毎週先生が来られたわけではなかったようです。家庭集会のような形で、会堂もなく、もちろんオルガンもなかった教会で、どのように聖書の言葉が語られていたのか?というと、実は、聖書が日本語に訳されたのと、同じころに、教会が設立され、聖書を販売する人が、売りに来られていました。メソジスト教会の働きの1つであったわけですが、日本語に訳されたばかりの、当時であれば、できたてほやほやの日本語訳聖書を用いて、聖書の説き明かし、説教があったと言えますが、今のように、いろいろと聖書の言葉について、解説されている本は、ほとんどありません。皆無と言ってもいいでしょう。だからギリシャ語がどうとか、ヘブル語がどうとかということも、解説のしようがなかった時代、会堂もない、注解書もない、ないないづくしの中で、聖書の言葉をそのまま語り、紹介していかれたことを通して、その聖書の言葉が、神さまの言葉であるということを、神さまが、何もない、分かるようにしてくださったということなんです。
そしてイエスさまを信じて、洗礼を受けられる方々が、始まったばかりの教会に、続出していくんです。伊澤修二さんが、伊那小学校に講演会のために来られた時にも、どういういきさつかは分かりませんが、教会青年会主催の講演会が開かれ、そこに数百人が集まったという記録も残っています。どうやって、あの最初の会堂にそれだけの人が入れたのか?集まれたのか?それも、また不思議ですが、そういうことが、伊那だけではなく、高遠教会においても、あったんです。
どうしてそうなったのか?それは具体的には、分かりません。しかし、ただ言えることは、何も持たない、持っていない人であっても、持っているものがあったんです。イエスさまを持っていたからこそ、イエスさまの言葉が語られ、その言葉を通して、教会に人が集められ、呼びかけられ、イエスさまが確かにいらっしゃるということを、神さまが分かるようにしてくださったんです。
教会の始まりの、不思議な、そして確かな出来事が、140年前に、確かにあったということ、それは、今日、私たちにとっても、同じです。たとい、何も持たない人だと、何も持っていないものだと思うことがあったとしても、イエスさまを持っていること、イエスさまが共に歩み、イエスさまが一緒であるということから、難しいと感じるような中でも、それに気づいていない時でも、聞こうとしない現実があっても、それらを越えて、イエスさまの言葉が、語られ、与えられ、広がっていきます。そのことを、今、私たちは見ることができるんです。なぜならば、教会の歴史を与え、導かれるのは、神さまの言葉によるからです。
祈りましょう。