2025年2月2日礼拝 説教要旨

礼拝の恵み(マタイ21:12~16)

松田聖一牧師

 

身近なテーマを題材にしたマンガがあります。その単行本の第一巻に、【銀行】というタイトルで、お金をテーマにして、主人公がそこに登場してくるのですが、その中で、主人公が進学した中高一貫校に、秘密の投資部があるというストーリー展開です。その中で、主人公は、投資部の先輩からこう尋ねられました。「ちなみに”銀行”という言葉の由来はわかるか?」「銀行……なんだろ?」「銀行とは元々イタリア語で「ひじ掛けイス」「座ってるだけで金が儲かる」という意味だ」

 

その説明に、へえと思いました。銀行とは、もともと肘掛け椅子、そこから、「座ってるだけで金が儲かる」という意味と由来があるということですが、もちろん実際の銀行業務は、そこで働かれている方々が、座っているだけで何もしていないわけではなくて、銀行の窓口業務が終わってからも、大変忙しく働かれていますから、今の銀行の業務の内容は、銀行の由来となった肘掛け椅子の意味通りではありません。ただ、銀行の由来が肘掛け椅子であったというのは、新たな発見でした。

 

その肘掛け椅子が、イエスさまが入られた神殿の境内にあった、お金の両替をする両替人の台のことであり、また、鳩を売る者の「腰掛け」のことでもあるんです。ということは、両替をする者や、また鳩を売る者は、その台や、腰掛けに座っているだけであったということであり、神さまに礼拝をささげるために、神殿に来られた方々と、直接やり取りをしないで、お金を儲けていたということになるんです。

 

それは儲けという結果からすれば、儲かっているわけですから、商売としては成功と言いますか、成り立っていることです。でも、買いに来られた人や、両替に来られた人と、直接あれこれ話したり、商品やお金を手渡しすることもありません。じゃあそれはもうかっているから、それでいいのかというと、どうなのでしょうか?

 

兵庫県に明石と言う町があります。東経135度の子午線が通っている町ですが、その明石にある商店街では、魚棚(うおんたな)と言って、近くの港で上がった、タコなど新鮮な魚がたくさん売られています。そして朝取れたタコなど、その日の朝11時からセリに出されるお魚のことを、昼網と言っています。それはその日の夕食に間に合うように、出来るだけ新鮮なうちにお客さんに届けたい、という漁師さんと魚屋さんの思いが、朝11時からのセリになったとか、言われていますから、その魚棚で売られているタコも含めて、お魚は本当に新鮮で、生きがいいものです。なので、収まっていた箱から、飛び出したりして、出てしまうんですね。例えばタコも、箱から脱出をしまして、商店街の道の真ん中をうねうねといらっしゃる、それをお店の方が、捕まえて元に戻されるということが、普通にあります。そんな活気のある商店街では、タコを使った明石焼きというのが、目の前で売られているのですが、いろいろなお店の前を歩くと、お店の方から声がかかります。「おいしいよ~このタコいかが?今上がったばかりだよ~」とか、いろんな声が飛び交いまして、そのお店の商品を買ってほしいと言わんばかりに、お誘いがかかります。そんな飛び交う声の中で、こんな言葉もありました。「いらっしゃいませ!いかなごのくぎ煮、おいしいよ!」「兄ちゃん!どう?いかなごのくぎ煮どう?」わたしに向かって、兄ちゃんと言っていただくと、気持ちが良くなりますね。普段、兄ちゃん!何て言われる機会がありませんから、余計です。機会があれば、同じところにまた行って見たいなと思いますが、今度は何と呼ばれるか、兄ちゃんなのか?どうなのかは、分かりませんが、ものを売ったり、買ったりする時に、そういうやり取りがあるのと、全くないのとでは、全然違うように思います。

 

そういう意味で、両替人、商売人が、腰掛けに、ただ座っているだけというのは、確かに儲かるということでは、商売としては成り立っていても、また必要なこと、必要なものは、お客さんも手に入れることはできても、そこに人と人とのふれあい、会話、関係はあるかというと、やり取りはありません。

 

イエスさまが、その台や腰掛を、倒されたということは、座っているだけでお金が儲かるという、その商売のやり方も「倒された」すなわち、投げ出し、投げ捨て、壊されたということでもあるんです。その結果、両替をする人も、鳩を売る人も、これ以上、商売ができなくなってしまいます。でもそのことを通して、座っているだけの商売のやり方から、解放され、自由にされていくのではないでしょうか?その結果、その時、ただ座っているだけ、儲けるというだけの商売ではなくて、人のためになる商売、人の幸せ、喜びに繋がる商売というものに、目を向けさせようとしておられるのではないでしょうか?

 

同時に、イエスさまが、鳩を売る者の腰掛けを倒され、投げ出し、壊された時、売られていた鳩はというと、イエスさまは、鳩を追い出したり、鳩を滅ぼされたわけではありませんから、鳩は生きています。その鳩は、鳥ですから、それまで売り物にされていた時には、飛べない状態になっていたでしょう。しかしその時、鳩は、自由に羽ばたき、自由に飛んでいけるようにもなるのではないでしょうか?もちろん、神殿の境内に残った鳩もいたことでしょうが、この鳩たちは、もう売り物ではなくなり、売り物からも解放され、自由にされていくんです。

 

それは、神殿に来られて、神さまを礼拝される方々が、そのために、決められたものを、ささげなければならない、ということからも、解放されるんです。というのは、当時の礼拝は、神さまに傷のないささげものをささげることが決められていました。そのために、傷のない羊や、牛や、鳩といったものを、礼拝に来られた方々は、自分のところから持ってこなければなりませんでした。しかし現実問題として、神殿に一緒に連れて旅をする時、そのささげるものを、抱えるわけにはいきませんから、一緒に歩くか、引っ張ってくることになります。となると、その途中で、無傷と言うわけにはいきません。牛や羊や鳩も、生き物ですから、動き回ります。飼い主のいうことを、おとなしく聞くかというと、途中ではいろいろあると思います。その結果、わずかなかすり傷も含めて、傷が出来てしまいます。そういう意味で、全く傷のない状態のまま、エルサレム迄連れてくることは、大変難しいことです。そして、傷があると、ささげられなくなりますから、連れてきた人々は、礼拝にあずかることが、できなくなってしまいます。だからそうならないために、神殿の境内で、傷のないささげものを、お金で購入することができるようになっていました。

 

そのために、両替人がいるんです。それは、例えば外国から来られた方々が、神殿でその傷のないささげものを買うために、神殿の境内も含めて、エルサレムで通用するお金に両替ができるようになっていました。そしてそのお金で、傷のないささげものを、境内で購入することができたんです。そういう意味では、神さまに礼拝をささげ、礼拝にあずかることができるように、神殿の境内が市場のようになっていたとも言えます。それはそれで便利だったと思います。神殿に着いた時に、そこで、必要なものを手に入れることができるようになっているのは、助かりますね。

 

そういう神さまに礼拝をささげるための、必要なものが揃えられるようになっていた、商売、両替というものを、イエスさまが追い出し、壊していったことで、この時の、礼拝に必要とされていたものが、手に入らなくなってしまったことは確かです。しかし、それによって初めて、両替人も、両替をする人も、鳩を売る人も、買う人も、神さまに礼拝をささげるために、ささげものを、自分たちで用意しなくても良くなっただけではなくて、売る者も、買う者も、そして売られている鳩なども、それまでの生き方、それまでのやり方から、解放されて、自由になれるんです。

 

それは、同じ境内にいた目の見えない人や、足の不自由な人たちもそうです。イエスさまはこの人たちを、いやされた結果、この人たちの目が見えるようになり、不自由だった足から、解放されていくんです。その時にイエスさまがなさったこと「いやされた」とある、この言葉には、奉仕する、仕えると言う意味があります。つまり、イエスさまは、目の見えない人や、足の不自由な人たちに、奉仕してくださり、仕えてくださり、サービスして下さったんです。

 

ここに礼拝の意味と目的があります。礼拝というと、サンデーサービスとも呼ばれますね。それは、私たちが礼拝で、神さまに向かって、奉仕するとか、サービスするのではなくて、まず神さまが、私たちのために、奉仕してくださった、サービスしてくださった、からこそ、礼拝があり、その礼拝に、神さまがお恵みによって、どんな私たちであっても、どなたであっても、分け隔てなく、招いていて下さるんです。たとい私たちが何もできなくても、何もできないと思っていたとしても、どんな私たちであっても、その礼拝に神さまが招いて下さり、神さまが、私たちのために、奉仕し、サービスして下さるという恵み、そのものが、礼拝にあるんです。

 

そのお恵みに、子どもたちも招かれ、神さまへの讃美を与えて下さったからこそ、「ダビデの子にホサナ」と讃美できるんです。子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。とイエスさまが尋ねた時、腹を立てていた彼らの耳にも、聞こえていたことでしょう。子どもの声というのは、本当によく響きますね。あの声は大人には出せない声です。

 

最初に赴任した教会の礼拝のことを思い起こします。子どもたちも幼い頃でしたが、同じくらいの子どもたちが、礼拝に、お母さんに連れられて来られていました。礼拝が終わるまで、別のところで、思い思いに過ごしていました。そんな毎回の礼拝の最後に、頌栄を歌いますね。その頌栄に続いて祝福の祈り、祝祷がありますが、ある日の礼拝のこと、いつだったかは覚えていないのですが、この頌栄を歌い始めた時、子どもたちが過ごしていた畳の部屋から、子どもたちの歌が聞こえてきました。何を歌っていたかというと、一緒に頌栄を大きな声で歌っているんです。大人の皆さんもびっくりです。大きな声で、「あめつちこぞりて ほめたたえまつらん めぐみの御神を 父御子御霊を アーメン」最後のアーメンは、張り裂けるような声で、顔を真っ赤にしながら、嬉しそうに歌っていました。それが礼拝堂全体を包むような感じになりました。それから毎週の礼拝の最後には、子どもたちもみんな、この頌栄を大きな声で賛美してくれるようになりました。お年を召された方々も、うれしくなられて、うしろときょろきょろ眺めながら、一緒に讃美歌、頌栄を歌いました。礼拝が終わってから、口々に「あれはいいですなあ。子どもたちが大きな声で、あーめつちこぞりて~と歌ってくれはりますわ~あれはいいですなあ」ニコニコしながら、おっしゃっていました。

 

子どもたちが、この境内で、イエスさまに招かれ、イエスさまに受け入れられた礼拝の中で、「ダビデの子にホサナ」と、神さまを賛美したとき、神さまを心から喜んでいました。そしてその姿を神さまであるイエスさまも、喜んでくださっていました。でもその時、祭司長たちや、律法学者は、腹を立てたり、いろんなことを言いました。しかしその声よりも、またその声に左右されることなく、子どもたちの讃美が、高らかに歌われていきました。

 

神さまが招いて下さった礼拝は、神さまが奉仕し、神さまが仕え、神さまがサービスしてくださるのが、礼拝です。その礼拝の恵みにあずかり、礼拝を通して与えて下さった、神さまのお恵みをいただいて、ここからそれぞれのところへと、神さまが遣わして下さいます。その時、下を向いていません。上を見上げ、神さまのお恵みに心満たされ、ニコニコして出かけていきます。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月2日)