2024年12月22日礼拝 説教要旨

神は我々と共に(マタイ1:18~23)

松田聖一牧師

 

これまで、沢山の方々の結婚式をさせていただきました。1つ1つの結婚式には、いろんなドラマがあります。新郎が入場し、その後から、お父さんなどと腕を組んで、新婦が入場し、新婦を新郎に受け渡していきますが、もうその時、お父さんは、腕を組みながら涙ぐんでおられたり、また笑いありの結婚式もあります。また、ペットがその結婚式に参列したりすることもあり、ひと口に結婚式とっても、そこにはいろんなスタイルがあるなと思います。そんな結婚式の中で、最も厳粛な場面は、新郎と新婦がお互いに、神さまの前で誓約をするところです。その時、新郎、新婦、それぞれに向かって、こう尋ねます。

 

「新郎〇〇さん、あなたは新婦〇〇さんを、病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も、他の者が見捨てるような時も、妻としいて愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」「新婦〇〇さん、あなたは新郎〇〇さんを、病める時も 健やかなる時も、富める時も 貧しき時も、他の者が見捨てるような時も、夫として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」この問いかけに、新郎、新婦は、はい、約束しますと、真剣な表情で答えていかれます。

 

さて、この誓約の内容を見る時、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、は、お互いに全く反対のことです。さらには他の者が見捨てるような時というのも、大変なことです。それがあるというのは、結婚には、いい時ばかりではなくて、そうではないこともあるからです。その通りですね。健康な時ばかりではなくて、体調を崩して病気になったり、夫となったその人を、あるいは、妻となったその人を、他の者が見捨てるような時、傷つき、引き裂かれるようなことが、ないわけではないからです。

 

ヨセフ、マリアの結婚に際してもそうです。この時、ヨセフ、マリアは結婚するという約束をしていました。それは、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。当時は、これによって正式に結婚が成立しました。ただ、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのでしいた。つまり、婚約はしていても、結婚が成立していても、夫婦としての生活は、1年~1年半先に始まるのが、当時の婚約であったのです。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしました。

 

その準備の期間の中で、起こったことが、「母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と、結婚し、夫婦としての生活を営むまでの準備期間の間に、マリアに、聖霊、すなわち、神さまが、マリアの胎内に命を与え、命を委ねたということが、認められ、確認されたんです。その結果、マリアは母マリアとなったということが、明らかになったんです。

 

では、そのことをヨセフは、そのまま受け入れられたのかというと、ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」、ヨセフは、マリアが準備期間中に母となったことを、神さまが預けたとか、神さまが委ねてくださったことを、受け取ることができたとか、受け入れられなかったとか、そういう言葉はありません。ただ、ヨセフとの結婚準備期間中に、マリアの胎内に、命が与えられ、宿しているということを、周りの人々が知った時、人々は、結婚準備期間中に、誰か別の男性との子どもを、その胎内に宿したと受け取ることになるということを、ヨセフは分かっているんです。そしてマリアは、結婚準備中に不貞の罪で、さらし者にされ、石打の刑で殺されてしまいます。

 

そこでヨセフは、「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と、マリアとの結婚は、そもそもなかったことにしよう、そうすれば、マリアは、律法に背いたことにはならなくなり、さらし者にもなることなく、マリアと、その子供の命も助かるということを、彼は彼なりに考えて、「ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。でもそれはヨセフにとって、仮にマリアは子どもの命が守られることであっても、それは悩んで悩んでのことだったと思います。素直な人の思いからすれば、ヨセフはマリアに裏切られたと受け取っても仕方のないことだったと思います。誰だか分からない男性の子どもを、結婚の約束をし、その準備期間の間に宿したということも、当然思ったことでしょう。そうであっても、結婚しようと決め、約束したことが、そもそもなかったことにということは、ヨセフにとって、マリアとの出会いも、結婚までのいろいろなことも、一体あれは何だったのか?何のために、その時を過ごしていたのか?と、自分自身を問い詰め、追い詰めてしまうようなことではなかったでしょうか?

 

それほどに、結婚というのは、重いものです。厳粛なものです。だからこそそれがなかったことになるということの、衝撃、ショックは計り知れないものがあるのではないでしょうか?

 

そして、彼はもう1つ決意したと思います。それは、マリアとひそかに縁を切ることで、ヨセフはヨセフなりに、これからに向かって、もがきながら、悩みながら、苦しみながらも、新しい出発をしようとし、自分自身の将来も考えようとしたのではないでしょうか?

 

それは転職することとも、似ていますね。少し前に、NHKで72時間という番組がありました。その中で、伊那のグリーンファームでの72時間の様子が放映されていましが、いろんな人が登場して、インタビューを受けていた中に、もともと農業をやっておられる方だけではなくて、全くやったことがない方が、農業を始めて、出来た野菜などを、持ってこられる。1人の方は、それまで都会で会社勤めをしていましたが、会社を辞めて、農業を始めたとのことでした。その理由をこうおっしゃっていました。「このままこの会社にいたら、自分がつぶれてしまう~それで農業を始めたんです」とか、都会から移って来られて、農業を始めた別の方は、「田舎は熊とか動物が怖いけど、都会は、人間が怖いね~」と意味深なことをおっしゃっていました。そういういろいろな理由で、農業を始められた方もいらっしゃるんだと思いました。そんな新しいことを1から始める転職には、それなりのご苦労があったと思います。でもそれまでの環境から、新しい仕事に就くということは、それまでの仕事から逃げなければならないと苦渋の決断は、もちろんありますが、結果としては、新しい仕事に就くことで、それまでなかった新しい可能性が開かれていくということでもあるのではないでしょうか?

 

そういう転職というものも含めて、これまでから、新しく切り替えていくこと、切り替えようとすることは、ヨセフだけではなくて、私たちにもあると思います。その結果、新しい可能性、新しい出会いが生まれて来るものです。転勤とか、異動もそうかもしれません。

 

そうであっても、ヨセフは、マリアとの結婚をなかったことにしようとするんです。神さまが与え、神さまが委ねてくださった幼子、イエスさまからも、イエスさまを与えて下さった神さまからとの、関係も、そもそもなかったことにしよう、神さまからも離れようとするんです。

 

それは何に基づいているのかと言うと、「ヨセフは正しい人であった」ヨセフの正しさに基づいているんです。ヨセフの正しさという物差しで、マリアとの結婚はなかったことにしようとしましたし、マリアに与えられたイエスさまからも、離れようとし、神さまからも離れようとするんです。

 

ここに人の正しさの曖昧さがあります。というのは、ヨセフが、マリアと婚約した時には、これから生涯歩むと、判断した時、その判断も、ヨセフは正しい人であったということ、ヨセフの正しさに基づくことです。でも、マリアが神さまによって身ごもっていると知った時には、「ひそかに縁を切ろうと決心した」と、その判断の内容が婚約した時とは、同じヨセフにおいて、全く変わっていくんです。

 

つまり、ヨセフであれ、誰であれ、その時、その時に、自分の正しさで判断したことであっても、その正しさの基準は自分の正しさである限り、その正しさも、その正しさによってなされる判断、決意も、その内容も、時と場合によっては正反対なものに、変わってしまうことがあるのではないでしょうか?その結果、マリアとの関係も、イエスさま、神さまとの関係も、なかったことにしようとすることに変わってしまうんです。つまり、人の正しさ、自分が正しいと思う基準は、変わらないのではなくて、変わってしまうものであり、同じ人であっても、その同じ人が、変えてしまうものなんです。

 

そんなヨセフに、神さまが夢を通しておっしゃられたことは、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」すなわち、神さまがおっしゃられたこと、神さまの言葉は、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」です。これは、ヨセフの正しさに基づいた判断を、完全に否定し、完全に覆すんです。縁を切ろうとしていたこととは、全く正反対です。でも、どうしてそうおっしゃられるのでしょうか?それは、マリアに与えられた幼子イエスさまは、「聖霊によって」人の手によるのではなくて、神さまによって宿り、与えられた命であるということ、神さまが約束しておられた、自分の民を罪から救うからだという約束の実現のために、神さまが神さまの手によって、マリアに与えた幼子イエスさまの母となったマリアだからです。

 

ということは、ヨセフの判断の基準である、ヨセフ自身の正しさと、その正しさを正しいものとしている、当時の決まり、律法を、神さまは越えておられるということなんです。だからこそ神さまの言葉も、ヨセフの判断とは、全く反対であり、ヨセフ自身が判断したその判断も、ひっくり返していかれるんです。

 

こういうことと同じことが、私たちにいつもあるわけではないかもしれません。しかし、自分の判断に対して、神さまの判断が全く違う時、全く正反対の時、それは私たちが判断して、決めたことが、完全にひっくり返されていくということではないでしょうか?その時、神さまがなさることは、神さまの言葉、神さまから語られたことが、その通りに実現していくということなのですが、それは、人の判断には全く左右されないということでもあるんです。見方を変えれば、人がどんなに考えて、決めて、決意をもっていこうとしても、神さまの判断が、それとは全く正反対である時には、どんなに努力しても、どんなに知恵を尽くしても、考えて考えても、それはその通りにはならないということでもあるんです。ではその時、素直に納得して、受け入れられるかと言うと、そうではないことが多いと思います。なぜ、自分の決意が、その通りにならないのか?いったいこれがどういうことなのか、分からなくなってしまうこと、それで悩んでしまうこともあるでしょう。さらには、神さまが本当におられるのか?神さまの言葉である聖書は、本当のことを言っているのか?と疑ってしまうこともあるでしょう。自分には関係ないと、受け止めようとすることもあると思います。

 

そういういろいろなことを味わいながらも、ヨセフは、マリアを妻として迎え入れたんです。またマリアも、最初は、神さまがおっしゃられたことを拒んでいました。しかし、最終的には「お言葉通り、この身になりますように」と、神さまを受け入れていくんです。それは最終的に、自分には頼れない、神さましかいないというところへと導かれたからではないでしょうか?

 

ちいろば先生物語という三浦綾子さんのかかれた本の中に、後宮俊夫先生が神さまを信じて、洗礼を受けられるきっかけとなったことが、記されています。それはある年の春に行われた農村で働かれる方々のための、福音学校という学校の講義に、あまりにも人数が少ないから、出てくれないか?と言われたので、義理もあって参加されたのが、きっかけでした。

 

「俊夫君、大変や!講師が来ても生徒が一人もおらへんのや。君、2,3日農村青年になってくれへんやろか」「生徒がいない?そら困るわな」・・こうして一週間にわたる最後の講義の日となった。保郎が講師の紹介に立った。「いよいよ今日が今期、最後の講座となりました。今日語って下さるのは、ここにおられる舛崎外彦先生であります。先生は紀州のみなべにおいて、尊い伝道のお働きをなさっておられる有名な牧師であります。私は以前より先生を尊敬している者でありまして、農村青年諸君に、是非先生のお話をお聞かせしたく思っておりました。しかし、事、志と違い、ただ2人の出席者しかなかったことはまことに残念なことであります。先生に対しても、主催者としてもお詫び申し上げねばなりません。先生、どうぞよろしくお願いいたします」とお話が始まりました。

「私は今、少しは名前の知られた伝道者のように紹介いただきましたが、私の人生は、神の前に失敗だらけでありました。しかし、神という方は不思議な方でありまして、人間の失敗を用いて、思わぬ成功に導く方でもあります」何となく、俊夫は引き入れられるように、舛崎外彦の一言一句に耳を傾けた。かつての伝道地でのエピソードを、舛崎外彦は次々と語った。夜の辻に立って、路傍伝道を始めたが、キリスト教を嫌うあまり、村人は、舛崎を借家から追い出し、年に18回転居したこと、ついに行くところがなく、発狂し、変死した娘の家に住みついたこと、食器や夜具(やぐ)を、おトイレで出たものなどをためておくところに投げ込まれたこと、そうした伝道生活を、淡々と語った。その日、舛崎外彦の話を二度聞いた俊夫は、夜道を歩きながら、かつてない感動に浸っていた。舛崎の受けた迫害は耐えがたいものだった。その迫害の中での生活は、筆舌に尽くせぬ忍耐を要した。それだけの忍耐と努力を重ねたなら、他の社会であれば、実に大いなる報いがあるはずだった。その報いの少ない生活を語りながら、何と舛崎外彦の顔の輝いていたことだろう。喜びに満ちていたことだろう。改めて俊夫は、保郎の毎日をも思った。保郎は、一杯の茶を飲む時間も惜しんで、教会のために、信者のために、保育園児のために、全時間をささげている。いや、時間だけではない。わずかな収入の中から、信じられぬほどの額をささげている。「あの2人をあのように喜ばせ、生き生きと奮い立たせ、動かしているものは何や。それこそがキリストではないやろうか」「信じてみよう」俊夫の顔に光がさした。今まで見えなかったものが、不意に目からうろこが落ちたように、見え始めてきたのだ。「神はいるか、いないか、そのいずれかや」いないと信じて生きるのも、いると信じて生きるのも人生なら、どちらの人生にかけるべきか。いないと信じて生きる人生に平安と希望があるかどうか、榎本保郎に見る活力に満ちた人生、舛崎外彦に見る喜びにあふれた人生、それが欲しければ、いるほうにかけるべきだ。俊夫はそう思った。その年の8月5日後宮俊夫は、洗礼を受けた。

 

神さまがいないと信じるのも人生です。神さまがいると信じるのも人生です。そのどちらの人生にかけるべきか?その問いに、今日、答えがあります。それが「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という約束です。その約束は、それが分からない時にも、納得できない時にも、疑っている時にも、神さまの、共におられる、インマヌエルは、私たちの思いに左右されることなく、変わることがありません。

 

祈りましょう。

説教要旨(12月22日)