2024年12月24日クリスマスキャンドルサービス 説教要旨
受け入れられた喜び(ルカ2:8~14)
松田聖一牧師
ある方が、今のお気持ちとして、こうおっしゃっていました。
どこにも居場所がありません。学校も家も苦しいです。友達からは避けられ、ひとりぼっち。家族からは暴言暴力、否定、比較。 コミュにケーション障害だから人と上手く話せません。私はどこにいても空気で、誰にも必要とされてません。・・・私はどうしたらいいですか?
誰からも相手にされない、どこにも居場所がない、どこにいても私は空気だ。誰にも必要とされていない・・・それは辛いとか、寂しいということだけではなくて、自分がここにいるのに、自分でなくなっていることが、恐ろしくて怖いから、そこから何とかしたい、何とかならないかと、もがいているのではないでしょうか?だから「私はどうしたらいいですか?」と訴えているのではないでしょうか?
羊飼いたちも、そうです。彼らも居場所がありませんでした。誰も心に留めてくれる人はいませんでした。羊飼いを、あなたと呼んでくれる人も、また羊飼いにとって、あなたと呼べる人もいませんでした。それは人間関係だけのことではありません。彼らには、戸籍もありませんでした。なぜなら住民登録に値する方々ではないと見なされていたからです。だからいつ生まれて、今どこに住んでいるのかも、いつなくなったのかも、何も残らないのです。それが「野宿」ということの、実態なんです。そういう生き方、生活をしていた彼らは、神さまからも離れている人たち、神さまの祝福を受けることができない人たちだ、とも、されているんです。そういう中にいたら、孤独でしかありません。
もうすぐ新しい年を迎えます。今、年賀状のシーズンですね。先日からハガキ代が値上がりしましたので、年賀状じまいをされた方もいらっしゃることでしょう。そんな年賀状のことで、あるドキュメンタリー番組で、公営住宅に住んでおられた一人暮らしのおじいさんが、年賀状が届いているかどうかを、確かめるシーンがありました。1月1日元日の朝、おじいさんは、階段を降りて、自分の名前が書いてある郵便受けを、開けるのです。でも、中は空っぽでした。一枚も年賀状は届いていませんでした。その空のポストを見ながら、こうつぶやきました。「今年も来なかった・・・」すごく寂しそうでした。
誰からも何もない・・・明けましておめでとうと言う相手もいなければ、明けましておめでとうと声を掛けてくれる人もいない・・自分のことを心に留めてくれる相手がいない・・
孤独というのは、そういうことです。相手になる人が誰もいない・・・そんな中にいた羊飼いのところに、神さまが、天使を通して、クリスマスの喜びを伝えるのですが、その時、「主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」神さまが、羊飼いたちのいるところを、照らした時、彼らは、喜んだのではなくて、「非常に恐れた」んです。不思議です。誰からも見捨てられていると、受け取っていた中で、神さまが近づいてくださり、自分たちを照らして下さったのに、「非常に恐れた」というのは、何を非常に恐れたのでしょうか?
いろいろあると思います。真っ暗だったのが、突然明るく照らされたこと自体を恐れたと思います。何が起こったのか分からない恐れもあったことでしょう。さらには、羊飼い自身にあった、誰ともつながりがない、誰も自分のことをあなたと呼んでくれない、あなたと呼べる人が誰もいない・・・そういう自分自身の孤独な姿が明らかにされることも、彼らは恐れたのではないでしょうか?
私たちにとっても、そうですね。今自分が置かれていることが、全部明らかに照らされたら、いかがでしょうか?照らしてもらっていいものもあれば、困ることもあると思います。私たちの気持ちもそうです。今、何を考え、何を感じているか、何を言おうとしているか、ということまで、全部明るく照らされたら、良い面ばかりではなくて、真っ黒な心、それこそ怒りや憎しみといった、とんでもない姿も明らかになるということですから、困るというよりも、自分にこんな恐ろしい姿があったんだと、気づかされ、時には、こんな私だったんだと、愕然とさせられることも出て来るのではないでしょうか?
しかし神さまが照らされたのは、恐れさせるためにではないんです。責めておられるのでもありません。ただ、自分がどういうものであるか、逃げも隠れもできない、私の真実を明らかにするのは、本当の私を知って、受け入れておられるからこそ、照らされるんです。そして、受け入れて下さっているお方の前で、照らされた時、どんなに自分にとって、嫌な自分でも、苦手なことを抱え、弱さがあり、あるいは得手とすることも、強さも含めて、それらすべてを、包み込んでくださる神さまに、受け入れられている、私となれるのではないでしょうか?その時初めて、私は私になれるんです。そして、肩の力が抜けて、一番自然体になれるのではないでしょうか?
それが、大きな喜びになっていくんです。その喜びを、与えるために「今日ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになった」と、どんな私であっても、受け入れて下さり、必要としてくださっている救い主イエスさまが、「あなたがたに」生まれ、そのお方と一緒に、これからに向かって生きることができるようになると、伝えておられるんです。
北海道に恵泉塾というところがあります。その塾を舞台に、著者の水谷先生との関わりと、そこで聖書に出会っていかれた方々とのエピソードが紹介されている本があります。そのタイトルは「壊れた私、元気になった。北の大地で始まったいのちの教育」です。その中で、一人の学校の先生のことがこう記されていました。加藤さんという方です。
加藤さんは、産みの母親を知らずに育った。まだ少女のころ、知人が口を滑らせたことから事実を知り、母親を探しに会いに行った。母親は彼女を見て驚き、思わず口走った。「あんたには会いたくなかったんよ」彼女はショックを受けた。自分の忘れていた古傷を思い出させられる苦しみから出たことばにしろ、娘を心の中で抹殺していた母親に、彼女は深く傷ついたのだ。自分は生まれてくるべきではなかった、という思いが重たく心にわだかまった。彼女は、自分と同じような、弱い立場の子どもの味方になろうという気持ちから、大学の教職課程に進んだ。学園紛争にも積極的に身を投じた。教員になっても組合運動で熱心に闘って教育委員会ににらまれた。いつも生徒の側に立って意欲的に教育に従事し、身体表現に対する感性が豊かでダンスへの情熱を燃やし続けた。結婚して築いた家庭に介護を必要とするお年寄りを次々に3人も抱えながら、子育てと仕事と趣味に、どれも全力投球してきた。
4年前に交通事故に遭った。まるであやつり人形のように、関節と言う関節が抜けて、その後遺症で思うように体を動かせなくなった。ラケットをもっても、スナップをきかせられないし、走ることもできなくなった。体育教師の加藤さんは同僚に厄介者扱いされ、「あんたは、おらんくてもいい人間なんよ」と耳元でささやかれ、それが昔の母親の言葉と重なって、彼女をどん底まで突き落とした。加藤さんは、職場での人間関係に行き詰まり、孤立感を深め、自律神経失調症になった。「自分の力で生きられるだけ生きたらそれでいい。神頼みする生き方はしたくない」そう思って、苦しい中を随分無理をして生きてきたのだ。それが事故にあって、無理がきかなくなった。苦しみから抜け出したいとあがき、自分の知るあらゆる方法を試みてことごとく失敗した彼女は、それまで、それだけは避けてきたという、見えない偉大な存在に帰依(きえ)する信仰というものにこそ、自分が救われる道があるのかもしれない、という漠然とした予感がして、北海道に行く決心をした。
加藤さんが礼拝堂で私の前に横たわったのは、決心した翌日だった。その次の日にはもう帰るという。彼女は5時間立て続けに私に話した。「疲れるから、もう休んだら」と言っても「わたしがここにいられる時間は20時間もないんよ。時間が惜しい」と言って、話すことをやめなかった。ひとしきり告白を聞き終えてから夕食に誘った。私は彼女がスプーンでゆるゆると食べ物を口に運ぶのを見ながら言った。「この世に存在している人間で不要な者はひとりもいませんよ。たとい世の人が不要だと言っても、神には必要とされているから死なずに生きているのです。あなただって何の目的もなく生まれてきたなんてことは絶対にないのです。神があなたを必要としたからこそ生まれてきたのです」彼女はその言葉を聞いて、自分の出生についての苦しみが一気に吹き飛んだのでした。
「この世に存在している人間で不要な者はひとりもいませんよ。たとい世の人が不要だと言っても、神には必要とされているから死なずに生きているのです。あなただって何の目的もなく生まれてきたなんてことは絶対にないのです。神があなたを必要としたからこそ生まれてきたのです」
神さまは、私たちを必要としてくださっています。たとい自分では、どこにいるかも、分からないままであっても、いてもいなくても、どちらでもいいと受け取っていたとしても、自分では価値がないと思っていたとしても、どんな私であっても、神さまが必要とされているからこそ、おぎゃあと生まれた私が、今、ここにいます。神さまが必要としておられるから、人との関係の中で、社会の中で、死なずに生きているんです。そこに、命そのものとなって、生まれた救い主、イエスさまが共におられます。だからイエスさまが、あなたがたの救い主、メシアであり、私にとっての、メサイアとなっているのです。
祈りましょう。