2024年12月15日礼拝 説教要旨

見聞きしたこと(マタイ11:2~19)

松田聖一牧師

 

アメリカにハーバード大学という大学があります。そこで卒業式が持たれ、卒業生代表として、一人の方が挨拶をされました。その中で、彼女はこう言いました。「知らないことに力がある」いろいろな世界情勢、戦争のことにも触れながら、知らないこと、分からないことがダメではなくて、知らないこと、分からないことに力があること、そこから質問すること、分からないから、教えてもらえること、そのことを聞くことができる力が与えられていくこと、そしてその知らないことをも受け入れながら、知らない世界、分からない世界の中で生きて行くことの大切さを、集まった多くの方々を前に、語ったのでした。その時、会場から大きな拍手が沸き起こりました。

 

「知らないこと」それは、わたしたちにもたくさんあります。それこそ、知らないこと、分からないことは山のようにあると思います。その知らないということを、知った時、分からないということが、分かった時、どう受け止めるでしょうか?不安になることがあるでしょうし、知らない、分からない自分に自信がなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、知らないこと、分からないことがあるということは、知らないまま、分からないままに終わってしまうだけではなくて、これから知ることがある、これから分かることがある、その可能性があるということではないでしょうか?だからこそ、知らないことに価値があり、知らないことに力があります。そして、知るために何かをしようとする力が、その知らないということから、何かが与えられ、何かが動き始めます。

 

それは牢の中、獄中にいたヨハネ自身の姿でもあります。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」時、ヨハネは、牢の中にいますから、外には出られません。自分のしたいこと、自分の行きたいところに行くこともできません。もちろん、直接イエスさまのなさったことを目にすることも、聞くこともできません。そういう意味では、牢の外で、イエスさまが何を教え、何をなさったのかは、ヨハネは、知らないし、分かりません。しかし、そのヨハネに、「キリストのなさったことを」誰かは分かりませんが、伝えてくれる人がいたことによって、牢の中にいたヨハネは、イエスさまのなさったことを聞くことができたんです。

 

「そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』と、ヨハネは、ヨハネの弟子たちを、イエスさまのところに送って、イエスさまが来るべき方か、それとも「ほかの方を待たなければなりませんか」尋ねさせるのですが、この問いにある、「ほかの方」とは、他の人とか、もう1人の、もう1つのという意味ですが、そこには前提があって、そもそも2人の中で、あなたでしょうか。他の方か、もう1人か、ということを問う、二者択一の問いであって、大勢の中から、あなたか、他の人かを尋ねているのではないんです。

 

しかも、「待たなければなりませんか」には、期待するという意味で待たなければならないのか?という意味と、希望しないのに、待たなければなりませんか、という、お互いに正反対の意味があるんです。

 

ということは、1人がだめなら、他の人ではないか?を希望し、期待しながらも、同時に、1人がだめなら、もう1人も、希望しないという、正反対のことが、待たなければなりませんか、にはあるということなんです。そして、その問いが、弟子をして、尋ねさせているヨハネにはあるということなんでしょうか?

 

不思議です。というのは、ヨハネは、牢の中で、「キリストのなさったことを聞いた」んです。つまり、ヨハネは牢の中で、この目で見たわけではないけれども、イエスさまのなさったことは、キリスト、救い主がなさったと、受けとっているんです。ヨハネは、イエスさまがキリスト、救い主であると分かっているんです。ところが、自分の弟子たちには、イエスさまが、本当に救い主なのか?という期待と、そうではないのではないか?という希望しないという思いが、入り混じっている内容で尋ねさせたというのは、その答えをヨハネが知りたかったというよりも、ヨハネの弟子たち自身に、イエスさまが救い主であるということを、確かめさせたいから、弟子たちを送り、弟子たちに尋ねさせたということではないでしょうか?

 

つまり、この問いは、ヨハネ自身の問いというよりも、ヨハネの弟子たちのための問いを、ヨハネが、弟子たちに与えたということではないでしょうか?それは、ヨハネの弟子たちが、イエスさまのことを、この方が、救い主なのか、どうなのか、と期待しながら、救い主は、イエスさまではないかもしれない、と疑い、期待できない、希望しないという思いもあったからではないでしょうか?

 

そんな弟子たちに対して、イエスさまは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、イエスさまがなさった、目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩くことができ、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされているという、見たり聞いたりしたことを、そのままヨハネのところに行って、伝えなさいとおっしゃられるんです。

 

見たり聞いたりしたことを、そのまま伝えること、これは出来ないことではなくて、出来ることですね。自分が見たり、聞いたりしたことは、その通り、見たり聞いたことですから、それをそのまま伝えなさいということは、そのままヨハネに言えばそれでいいわけです。それを聞いたヨハネがどう判断するかとか、どう判断させるかということは、弟子たちの知ることではありません。だから、そのまま言えば、それでいいんです。

 

例えば、あそこの卵は安いとか、おいしいとか、あそこのお店の鶏肉はおいしいとか、あそこのお米はおいしいとか、品質がいいとか、といったことは、私たちも、見たり、聞いたりしていますね。実際に味わってもいることでしょう。そのことを、そのまま伝える時、おいしいことを、いいということを、あなたも信じなさいとか、あなたも認めなさいとまで、言う必要はありません。自分にとって、おいしいとか、いいということを、押し付ける事でもありません。ただ見たり聞いたりしたことは、自分が受けたことですから、それを、そのまま伝えたら、それでいいんです。きわめて単純なことです。

 

それはその通りなのですが、ただ、それは弟子たちの問いに、来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか、に、直接答えるものとはなっていません。だから、弟子たちには、イエスさまがおっしゃられたことの意味が、分からないままであったかもしれません。しかし、イエスさまは、期待と疑問を抱えていた弟子たちに、正しいとか、間違っているとか、あるいは、そういう期待と疑いを持つことはいけないんだと、頭ごなしに否定するのでもなくて、そんな彼らであっても、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と、ヨハネのもとに、イエスさまは、送り出していかれるんです。その結果、彼らが、見聞きした、イエスさまがなさったことを、ヨハネに伝えることを通して、彼らもまた、イエスさまがなさったこと、見聞きしたことを、もう一度思い起こす時となったのではないでしょうか?そしてその見たり聞いたりしたことを、ヨハネに伝えることを通して、イエスさまがおっしゃったこと、その言葉も、思い起こすことになったのではないでしょうか?そしてそのことを通して、ヨハネに伝える、彼ら自身にも、伝えられ、分かって来るものがあるということではないでしょうか?

 

ある方が、洗礼を受けるということを心に決めた時のことを、こうおっしゃっていました。

 

片目のハンディなどを持った私を、神がわざわざそのような者につくられたことが分かり、受洗しました。振り返れば、生まれてから20年ほどたって、ようやくイエスさまの復活と、新しい人生を、イエスさまと共に歩めることが分かりました。それまでは分からなかったけれども、後になって、神さまが1つ1つ、関わって下さったのに気が付いたのです。また教会の奉仕は、感謝からできるのであって、神さまに認められるためにするのでは決してないことも、長くはかかったけれども、ようやく分かり、今、肩の力が抜けてのびのびできる喜びがあります。

 

分かるようになるまでには、分からないという所を通ります。でもそれでいいんです。分からないという時も、大切な、また必要な時です。そんな分からなかった時にも、神さまは1つ1つ関わって下さっておられるんです。神さまが聖書の言葉を通して、また人を通して、真実を語り、伝えて下さっていたんです。

 

それは、ヨハネの弟子たちが、帰った後に、ヨハネについてイエスさまが話し始められた群衆もそうです。群衆は、イエスさまから「何を見に行ったのか」と尋ねられた時、荒れ野に行き、そこでヨハネがイエスさまに洗礼を授けるところも、ヨハネが、イエスさまを指し示して、私はメシアではないと言ったことも、また荒れ野で洗礼を受けたイエスさまに「あなたはわたしの愛する子。私の心に適う者」と言う、神さまからの言葉も、見聞きしています。でも、そんな彼らに、イエスさまが「では、何を見に行ったのか」と問われるのは、群衆は確かに、ヨハネがしたこと、またイエスさまを、見てはいたけれども、本当に見なければならないものを、見ていなかったからではないでしょうか?また分からなかったからではないでしょうか?だからこそ、イエスさまは、ヨハネが「預言者か。そうだ。」と語り、ヨハネが語ったことが、イエスさまは救い主、メシアであるということだということを、群衆に語るのです。

 

と同時に、そういうヨハネを、預言者以上の者であるとおっしゃり、また「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と語りながらも、「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と、矛盾したようなことをおっしゃるのは、ヨハネであっても、ヨハネではなくても、どんな人でも、神さまの前では同じであること、神さまの前では、みんな平等であることをおっしゃっているんです。

 

でもこの内容は、歴史の中で、困難と向き合う内容です。神さまの前には、どんな人も同じであること、はその時々の、権力者にとって、都合の悪い内容でありました。それは、歴史が証明しています。例えば、日本に初めてキリスト教が伝えられ、キリシタンと呼ばれる方々が、急激に増えていきました。その数は数十万に上ったと言われています。しかし、豊臣秀吉、徳川家康といった時の、将軍により、キリシタンを取り締まる数々の決まりが出されたことによって、キリシタンが、弾圧されます。迫害され、当時の村社会からも、のけ者のような扱いを受け、殉教する者もいましたし、棄教する者も出ました。では、その迫害と弾圧をなぜ起こしたのかというと、それは神さまの前に、皆が同じであり、平等であるということが、当時の権力者にとっては、都合が悪いものであり、それはまた非常怖いものとなったからです。なぜなら、みんな同じであれば、お殿様も同じということになり、権力をもって治めるという構図が壊されかねないという恐れが、権力を持った側にあるからです。だから、そんな教えはとんでもないと、弾圧していくんです。

 

そうなることを、イエスさまは、もう既に分かっておられるんです。だから、「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者が、それを奪い取ろうとしている」と、ヨハネだけではなくて、イエスさまも、そしてイエスさまを信じる者も、迫害され、神さまの国が来ることを妨害されるということと、その神の国が、政治的運動などによって、すなわち人の手によって、人が神さまの国を、支配し、人が神のようになっていくことが、無理やりなされようとするとおっしゃられるのです。そのことがあるかもしれない、ないかもしれない、とは言わないで、あるとはっきりおっしゃられるんです。しかし、そういうことだけが、この言葉の意味なのかというと、この言葉にはもう1つの意味もあります。それは良い意味で、「熱烈に追及される」「道をひらいて押し進む」という、前進していく意味もあるんです。

 

ということは、確かに迫害され、奪われるという、とんでもないことがありながらも、しかし、神さまは迫害されるがまま、奪われるままでは終わらせるのではなくて、そういう中にあっても、神さまの国、神さまがなさることを、神さまが熱烈に求めているので、神さまはそういう中にあっても、道を開いて、神さまの国を前に押し進めるのです。

 

それがヨハネの活動であり、また今に至る迄、神さまを信じて、神さまと共に生きた方々において、いろいろあっても、神さまの国は前進することを、現し、証しし、証言してくださっているのではないでしょうか?そのために、イエスさまは、その時々に必要な言葉を与え、その言葉を用いられるのです。そのために、人をも用いられるのです。

 

聖書の言葉に基づいて作曲されたメサイアには「ハレルヤコーラス」と呼ばれる、よく知られた曲があります。ハレルヤとは、神さまを讃美します、神さまを讃美せよという、讃美と喜びの言葉ですが、この曲を作曲したヘンデルが、喜べるような中にあったからかというと、実は、脳出血、あるいは脳卒中で半身不随になってしまいます。それから温泉療法で、回復していくのですが、半身不随の、それこそ死んでしまってもおかしくなかった状態の中で、また彼から作曲ということを、奪うような出来事の中で、「ハレルヤ」神さま、讃美しますと、到底言えないような中にあったのではないかと思います。しかしそんな中で、たった24日という短い間に、一気にこの大作が出来上がったということを見る時、神さまは、体の自由を奪われてしまったこと、また癒されていったことも、また用いられて、前に向かって進むことができるように、勇気を与え、癒しを与え、立ち上がらせてくださったということではないでしょうか?ということは、いろいろな圧迫、幸せとは言えないような、すべてが奪われたような中にあっても、神の国は、前に向かって、前進していくということなんです。そのために、神さまが、その只中にある、その人を、持ち運び、時には無理やりにでも、運び出し、用いてくださるのです。

 

「手のないキリストの像」と呼ばれる詩があります。キリストは私たちに「子たちよ。私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって、愛し合おうではないか」と言われました。愛のキリストは手のない体であり、私たちがその手の代わりに、キリストの手となって働くのです。祈り、愛のわざをなし、助けを必要とする人に、適切な手を差し伸べ、キリストの手となって、働く時、キリストの愛に、生きる者となる時、本当の命に生きる者になります。でも弱い私たちは自己中心で、決心も鈍ってしまいます。主よ、御霊を送ってください。私たちをつくりかえて、この世界へと押し出してください。アーメン。

 

イエスさまは、この時、ご自分の手を用いませんでした。それはイエスさまが、その手を使おうしなかったのではありません。イエスさまの手、あるいは足、を、その言葉を受け取った者たちが、イエスさまの代わりの手となり、足となって、見聞きしたことを、行って伝えるということのために、その手を使おうとしなかったのです。そういう意味で、私たちのこの手、この足は、キリストの代わりの手であり、足です。

説教要旨(12月15日)