2024年11月10日礼拝 説教要旨

神の恵み(マタイ3:7~12)

松田誠一牧師

 

ある時に、洗礼式がありました。私を完全にゆるして下さった神さまと一緒にこれからずっと歩むことができる、守られて過ごすことができるということを受け取られる恵みが与えられました。「信じて洗礼を受ける者は救われる」この神さまの約束は、本当にその通りになりました。ですから、ご本人はもとより、洗礼を授けることができた私にとっても、教会の皆さん、ご家族にとっても、うれしいひと時です。そんな洗礼式が終わってから、洗礼式に居合わせた一人の方が、嬉しそうな顔をして、つかつかと寄って来られまして、こうおっしゃいました。「先生、私にもう一度洗礼を授けてください!」その方は、洗礼をもう既に受けておられましたので、びっくりしました。「どうされたのですか?」「わたし、今日の洗礼式、感動しました~ですので、もう一度、先生から洗礼を受けたいです。それと、私の洗礼の時に、洗礼を受けたその瞬間の写真がないので、もう一度撮っていただいて、記念にしたい!」びっくりしましたが、いやいや洗礼というのは、1回だけで、十分ですよ、2回も受ける必要はないですよ、ということと、どなたの先生から受けた洗礼も、神さまのお恵みであることにはまったく変わりはありませんから、大丈夫ですよ~とお伝えすると、そうなんですね~1回で十分なんですね・・・と安心されて、それで終わりました。

 

その通り、洗礼はどなたの先生から受けても、神さまが、その人を洗礼によって、神さまの愛する子どもとして下さり、神さまと共に、神さまのいのちに生かされ、その歩みの中で、たといどんなことがあろうとも、生涯、共にいて、支え、守り、導いて下さる恵みです。だから、1回で十分です。もう1回受けるとか、どなたの先生から受けたということは、神さまのお恵みである洗礼とは、全く関係がありません。

 

ところが、だれから受けたということが、神さまのお恵みの中に、混じってしまうと、あるいは、それが中心になってしまうと、神さまの恵みでなくなりますし、そこから、離れてしまいます。しかし、そういうことが、洗礼を受けに来たファリサイ派、サドカイ派の人々の中にも、あったことなのです。

 

というのは、ヨハネのもとに「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」というこの言葉には、ヨハネの洗礼を受けに来たという意味があるからです。つまり彼らにとってのこの洗礼は、神さまから神さまの洗礼を受けようとしたのではなくて、ヨハネから、ヨハネの洗礼を受けようとしたということなんです。ということは、彼らにとっての洗礼は、ヨハネという一人の人を中心としたものであり、神さまがどこかに行ってしまっているということではないでしょうか?それはまた、信じて洗礼を受ける者は救われるという約束に基づいた、洗礼という神さまの赦し、神さまの恵みに、ヨハネの、という人を、彼らが入れて、混ぜて、付け加えてしまっているということではないでしょうか?

 

それにしても、そもそもファリサイ派、サドカイ派という当時の宗教界、また社会の特権階級でもある彼らが、ヨハネの洗礼をどうして受けようとしたのでしょうか?この時、ヨハネは、ラクダの毛衣、腰に革の帯を締めて、いなごと野蜜を食べ物としていたということですから、極めて質素な生活であったということと、そのスタイルは、自分の身の回りにあるものを身にまとい、食べ物としていたということです。だから自分から何か得ようと、畑仕事をしていたとか、商売をしていたという生活ではありません。周りから凄い人と認められたいとか、より上の立場や、特権を得ようと、あくせくもしていないんです。ただ身を置いた荒れ野で、与えられたもので生きているんです。それはヨハネが、神さまにだけ頼って、神さまだけを信じて生きていたということでもありますし、神さま以外に頼れるお方がいないところに身を置いて生きていたということではないでしょうか?その中で、ただ神さまに立ち返るように「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」神さまに向かって、その道をまっすぐにせよという、神さまの言葉を伝えているんです。

 

そういう意味では、ファリサイ派、サドカイ派の人々とは全く対照的ですし、彼らからみれば、小さな一人の人です。立派な人としては映らないです。しかも彼らは、もうすでに、神さまの民とされ、神さまに従い、神さまの言われていること、命じていることを、しっかりと、事細かく守るということに、徹して生きてきました。それで十分です。だからあえて、ヨハネの洗礼を加える必要はありません。それなのにヨハネの洗礼をヨハネから受けに来たのは、ヨハネの洗礼を受けたというお墨付きを、それまで彼らのよりどころ、支えとしていたものに、加えたいからではないでしょうか?それでより安心が欲しいのではないでしょうか?逆に言えば、彼らにはまだ不安があったのではないでしょうか?これだけのことをしてきた、神さまの民とされ、神さまが言われることを守って来た、というだけでは、神さまに赦され、救われたというものが、まだ十分ではないと受け止めていたからではないでしょうか?

 

そういうことは、例えば、保険とも似ています。今、病気になった時とか、地震や、火災保険、車の保険などいろいろな保険がありますね。それぞれの保険には、まずは基本的な補償をしてくれる基本プランのようなものがあります。それで契約される場合もありますし、もっと手厚く保障してもらえるようにと、特約というもので、基本的な保険の内容に、いろいろプラスしていきますね。それで基本的な保証では効かないものが、プラスされる特約の内容には含まれているので、それじゃそれも加えようかということになると思います。そういうものがあるということは、私たちの中に、何かがあった時に、十分にできるだけ手当をしてもらえるものがあれば、付け加えたいという願いがあるからです。

 

それは保険のことだけではなくて、神さまからゆるしていただくということにも、それと同じことがあるのではないでしょうか?つまり、彼らが欲しがっていたものは、ただ単にヨハネの洗礼が欲しいということだけではなくて、自分たちの持っていた、「我々の父はアブラハムだ」という、自分たちは神さまの民であるということに、付け加えれば、神さまの怒りを免れる、神さまの怒りを受けることはない、ヨハネの洗礼を加えれば、神さまの赦しがさらに与えられると受け止めていたからではないでしょうか?

 

神学校を卒業して初めての任地が奈良県の桜井市という古~い町でした。教会も、古い町並みの中にありましたので、隣組があり、回覧板とか、町内会費を集めるという役割が、順番に回ってきます。それで年に1回くらいは、集金して回りました。ある年も、次集金をお願いしますということでご依頼いただいたのが、丁度12月年末でした。年末には、普段の会費だけではなくて、近くのお寺のお札、天理教のお札、三輪神社のお札も、隣組の方々に、買っていただくと言いますが、買うものとなっていました。それを、隣組の数だけ預かりまして、それを順番に配る時、お札のお金も預かるということでした。教会は全部免除していただいていましたので、こちらが買うことはなかったのですが、当番ですので、それを売り歩くことになりました。それで一軒、一軒回っていきました。「あの~町内会費と、お寺さんと、天理さんと、三輪さんのお札もお願いします~」と言いながら、回りますと、回るたびに、「いや~教会の先生なのに…スミマセン!」「いえいえこちらこそ・・」また次のところでも、「いや~クリスマスで忙しいのに、スミマセン~」「教会さんに、こんなことやらせてスミマセン~」逆に頭を下げられるんです。そんなことで回っているうちに、分かって来たことがありました。それは、年末に買うことにはなっているお札だけれども、本当に喜んで買っているのかというと、買わなければいけないから、買っているということ、ご近所の手前、私のところだけはいりませんというわけにはいかないという、その思いでいらっしゃったということでした。でもそのことがきっかけで、ご近所の方々から本当に良くしていただきました。異動、引っ越しの時にも、「また、桜井に帰って来てくれよの~」おじいさんは涙をいっぱい浮かべておっしゃってくださったことも、印象深いです。

 

そういうお札というのは、それぞれに意味がありますが、要は、お守りです。そのお守りを、1つだけではなくて、2つも3つもあるということは、1つのお守りでは、十分じゃない、もっとお守りが欲しい、あるいは必要だという、人の思いに、お寺や神社などが加わっている、関わっているということで、年末3枚のお札があったということではなかったかと思います。

 

ファリサイ派、サドカイ派の人々も、もう既に神さまに守られていました。そのお墨付きはあったんです。そこに生きてきましたから、そこにまた何か加える必要は本当はないんです。でもヨハネのもとに、大勢の人々がやってきて悔い改めの洗礼を受けたというその光景を目の当たりにした時、自分たちにもそれが欲しい、お墨付きをさらに、お守りを更に加えたいという思いで、ヨハネのところにやって来たのではないでしょうか?その彼らに、ヨハネは、「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われるんです。

 

「悔い改めにふさわしい実を結べ」この意味は、ふさわしい実を、なにもないところから造りだしなさい、生み出しなさいということです。何かを付け加えなさいではないんです。しかも、彼らに、生み出すことができるかというと、何にもないところ、無から造りだすことはできません。神さまに赦されていることも、彼ら自身から造りだすことはできません。しかし、それは彼らには出来ないと語るのは、彼らにはできなくても、「わたしより優れたお方」神さまであるイエスさまにはそれができるということ、を示しながら、これまで彼らが身につけてきたこと、彼らがよりどころとしてきた、神さまが造られたものであり、その造られたものをよりどころとしていることを、全て、焼き尽くされる、消し去られるんです。それが「手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」ということなんです。但し、この脱穀場で、麦までは焼き尽くされません。脱穀場にある麦の殻は「消えることのない火で焼き払われる」わけですから、食べるものとしての麦はちゃんと残ります。倉で保管されます。そしてその麦は食べ物になります。じゃあ殻は焼き払われるということですから、確かになくなりますが、しかし、殻もまた燃料として、焚き付けに必要なものですから、それはそれで焼き尽くされるということは、その殻もまた用いられていくんです。そして火は人を温め、人を獣などからも守ります。ということは、ヨハネを通して語られた神さまの言葉、約束は、彼らを焼き尽くすのではなくて、彼らが身に着けていたもの、これが神さまだと、自分のよりどころとしていたものを、焼き尽くされるのであって、彼らは彼らとして、神さまに赦され、生きていけるんです。

 

でも、焼き尽くされ、消し去られてしまうことは、彼らにとっては、これまで持っていた大切なものを失うことです。それは困ると感じることかもしれません。失うことは悲しみでもあります。しかしそれらのものが消し去られても、焼き尽くられてもなお、失っても尚、神さまは、必要なものを与えるために、焼き尽くし、消し去られるんです。そのことを通して、彼らだけではなく、人は、人として、人に命を与え、生きるものとしてくださった神さま以外に、信じるものはないんだということ、その神さまに、従っていくこと、それのみであるということを、ヨハネは、彼らにも証ししているんです。

 

大谷美和子さんの「生きる」という本の中に、元ハンセン病患者の方の77年の日々が紹介されています。この方は、若くして親元から引き離されました。進学の機会も奪われました。そして療養所のある島に隔離され、脱出しても住む所がなく、再び、療養所に帰ってきました。ところが帰って来てもだんだんと体が不自由になっていきました。そしていよいよ失うものがなくなったと、深い井戸の底にひとり落ち込んだように感じていた時でした。その暗闇の中から、「わたしがいる」という声を聞いたのでした。それは長く離れていた神さまの声でした。彼の凍てついた心に光がさしました。その時、神さまの長い忍耐を思いました。この時から、本気で神さまと向かい合うこととなったのでした。

 

神さまは、何もない、何もかも失った、何もかも焼き尽くされたという時でさえも、神さまが与えて下さるものがあります。それは、「わたしがいる」神さまがいるんです。すべてを失ったとしても、「わたしがいる」んです。

説教要旨(11月10日)