2024年11月3日 礼拝説教(永眠者記念礼拝)要旨

人とは何者なのか(マタイ23:25~36)

松田誠一牧師

 

あるご家庭で、ご近所の方々をお迎えして料理教室をやっておられました。毎回ご近所や、その方のお友達の女性の方々が多く集まられ、一緒にお料理をしたり、一緒に作りながら、台所でおしゃべりをしたりと、楽しく過ごしておられました。その集まりで、毎回、聖書の言葉を読んで、それについて集まられた方々からのご感想などを伺うひと時がありました。女性の方々は、お話しすることが好きですね。ひと言と言っても、一言では終わりませんね。それが順番に何人もの方々が続くうちに、皆さんが、足をこっちにやったり、姿勢をあれこれ変えたりしながら、もそもそ動き出されるんです。それは正座をしておられたからだと思いますが、そんな中、ある方が、こんなことをおっしゃいました。「わたしはね~ここに、すす払いに来ております~いろんな思いが毎日あるのですが、ここに来るとすっとします~」すす払い、たまったほこりか、汚れを、ここで落としにこられるということでした。

 

そういうものは、あるのだろうなと思いますが、そもそもすす払いですと、それは表面に着いた汚れ、すすを落としていただくということですね。でも実際は、表面に着いたものだけではないと思います。内面のいろいろなこと、気持ちや、自分のしてきたことに対するいろいろも、その、すす払いという言葉にはあったのではないでしょうか?しかし、それはまた人の真実です。そしてその姿は、イエスさまが、この聖書の中に登場してきます、律法学者、ファリサイ派の人々に向かって、おっしゃられる杯や皿の、「外側は」「内側は」とある言葉にもつながっています。

 

というのは、この外側は、とか、内側は、という言葉には、それぞれ外側から、外側で、という意味であり、内側は、は、中から、内側から、内部においては、という意味であるからです。そして、その外側と、内側が1人の人にあるということは、人には周りの人には分からない、周りからは見えない、内側があり、その内側から出たものが、外側にあらわれ、外側にあるということではないでしょうか?そしてそのことが、自分の外側から、何かがやってくるときに、内側に何かが生まれ、それが外側に出て行くということではないでしょうか?

 

そのことを私たちに置き換えれば、私たちにも、毎日、外からいろいろなものがやってきます。先日、村の保健センターで検診を受けた時、隣に座って待っておられる方に、保健師の方がいろいろ質問されているのが聞こえてきました。その中に、こんな質問がありました。「一日に一回は、外出しておられますか?」「はい」「そいじゃあいいですね~」自分の家から、外に出かけているかという質問でしたが、一歩家から外に出るというのは、もちろん買い物や、用事や、人に会うということがあるからですが、一歩外に出るというのは、ものすごい刺激を受けます。外の風に当たるだけでも、大きな刺激です。それがまた人にはいいんですね。刺激を受けることで、いろいろ大変なこともありますが、トータルでみれば、それはすごくいいことです。そんな外から受ける何かによって、私たちの内には何かが生まれます。そして言葉なり、態度、行動が、表に出て来るというのは、ただ言葉が出たとか、何かしらの態度、行動になるという、表に出るものだけがあるのではなくて、その時、その時に生まれてくる内側にあるものが、外に出て来るということではないでしょうか?

 

ある方がこうおっしゃいました。「心にもないことを言ってしまった!」それを聞いた別の方が言いました。「そんなのはうそや!心にあるから、それが出てくるんだ!」その通りですね。心にないことは出てこない、でも心にあることは出て来るのです。ただその内側にあるものというのは、文字通り内側ですから、外から見ても分かりません。そしてその内側にある気持ちや、感情というものは、口でいくら説明しても、相手には、完全には伝わりません。

 

それは気持ちだけではなくて、体のこともそうです。例えば、あっちが痛い、こっちが痛いこともそうですね。痛みというのは、そのご本人が感じている痛みであって、相手のその人の痛みではありませんから、いくらここが、これくらい痛い!痛くて、痛くてたまらないと説明しても、聞く側には、痛いということは分かっても、それがどれくらい痛いのか?は伝わりませんし、なかなか分かってもらえないですね。疲れた・・・というのもそうですね。この頃少し、方言が分かってきました。「ごしたい・・・」も疲れた~という意味ですね。そのごしたいも、体の筋肉の内側にたまった疲れがあって、それが外に出てくるので、ごしたいになります。時には、その疲れが、すぐではなくて、何日か後に出ることもありますね。そう言う意味で、私たちの、心や、体は、毎日のことですから、いろいろなものが内側にたまりますし、それが表にも及びます。

 

そのことをイエスさまは、ちゃんと分かっておられるんです。だから、外側からではなくて、「内側からきれいにせよ」内側から、清めなさい、そうすれば、外側もきれいになる、清められるとおっしゃっているんです。しかも、この清めというのは、完全に、100%きれいにするという意味です。そのきれいにせよということを、イエスさまは、あなたがきれいにせよ、100%完全にせよとおっしゃられるのです。しかし、このことを、100%、完全にできるのかというと、ほこり1つあっても、ちり1つあっても、すすが1つあっても、それは100ではありませんから、たとい、自分では、できているつもりでも、それは100ではありません。ということは、完全に清めなさいと言われても、それは誰にもできないし、かなわないことになってしまいます。

 

それでも完全に、内側をきれいにせよとおっしゃられるのは、私たちが何者であるかということを、明らかにするためなんです。どんなに外側は良く見えても、その内側は、そうではないという事実を、イエスさまは、彼らに向かって、「あなたたち偽善者」良い人間だと偽っている者だ、それは不幸だ、「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と、鋭く迫るんです。

 

ここで白く塗ったという言葉の意味は、白のペンキやマジックを塗ったというのではなくて、石灰を塗って白くなったということです。石灰は、いろんなところに使われますが、その1つは、肥料として、また土壌の改良のために、土をよくするために、作物がより良く育つために、石灰をまきます。岩手県出身の宮澤賢治も、石灰の技師として、貧しい農家の方々のために、安くできる土づくりを進めていきました。そしてもう1つのことは、石灰と言いますと、白い粉ですから、運動場に白線を引く時に、この石灰を使います。

 

小学校の運動会で、他の先生方と一緒に、運動会の当日、石灰で運動場に白線を引くという係を任されたことがありました。教師として1年生の新任の時です。とにかくひたすら石灰で運動場に白線を引き続けました。それはどうしてかというと、子どもたちが走ったり、何かの演技をしたりすると、そこに引いてあった白線があっという間に消えてしまうからです。それでひたすら運動場を右に左に走りながら、縦横無尽に白線を引き続けたことでした。でもまたすぐに消えてしまうんです。それで一日中白線を引き続けた結果、体操服も、体も、髪の毛まで真っ白になり、粉が吹くという感じでした。

 

それが石灰です。一度まけば、一度塗れば、一度線を引けば、後は放っておいていいのではなくて、すぐにまた消えてしまうので、繰りかえし石灰をまき続けないといけません。つまり、イエスさまが「白く塗った」という意味は、外側をどんなによく見せようと、白く塗っても、またすぐにはがれてしまうし、その度毎に、石灰を使って塗っていかないと、白いままではないということなんです。

 

それが人間の真実です。私たちの内面と、そして外側の真実です。だから正しいように見えながら、「内側は偽善と不法で満ちている」というのは、どんなに白く塗ったとしても、白くなって、正しいように見えていても、それはすぐにはがれてしまい、そこに偽善と不法で満ちているという姿が現れるということではないでしょうか?

 

それでもなおイエスさまは、彼らに、「あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。」とまで、おっしゃられ、厳しく、鋭く迫っていくのは、どんなに白く塗っても、石灰を塗っても、はがれていくのに、それでも、自分たちは正しいというところを、崩そうとしないからではないでしょうか?どんなに真実を言われても、自分たちは正しいから、どんなことを思っても、どんなことを言っても、どんなことをしても正しいんだ、自分の力で完全を作り出せるとも思っているからではないでしょうか?その結果、白くなっても、またはがれると、言われれば言われるほど、ますます自分の正しさにしがみつき、それに凝り固まってしまうんです。そしてその姿は、真実を明らかにしようとすることを拒み続け、あるいは反抗し、立ち向かっていく姿でもあります。反抗し、立ち向かっていくということは、逆の立場に立てば、自分の正しさにしがみつけばつくほど、寄り縋り、凝り固まってしまえばしまうほど、その自分の正しさが、かえって人を傷つけていくことになるのではないでしょうか?それでも、自分は正しいとしがみつけばつくほど、白く塗られても、白がはがれ、消えてどこかに行っていても、自分は正しい、白いと言い張ってしまうのではないでしょうか?そしてますます周りを傷つけていくのではないでしょうか?でもそれすら気づいていないかもしれません。分からないままかもしれません。それでもイエスさまは、外側をいくら白くしても、それは白くなったように見えるだけ。又あっという間にはがれるものだということを語り続けておられるんです。

 

ある方は、生まれてからずっと足が不自由でした。周りと同じように、歩いたり走ったりすることができませんでした。そのために、卑屈になり、周りといつも比較していました。自分が同じようにできないということ、その目で見られることをいつも感じていました。だから夢で自分の不自由な姿をじっと見ていた人を、やっつけるような夢を見たり、スーパーマンになっていく夢も見たりしていました。そういう卑屈になっていた中で、人に会うのが嫌でした。人に振り向かれるのが嫌でした。だから人が自分の不自由な姿を見ることがないように、人目を避け、人気のない時間に、人気のない道を歩く日々でした。そんなある時、その道を不自由ながら歩いていた時です。向こうから、足を引きずりながら歩いてくる人がいました。自分と同じだと直感しました。それでだんだん近づいて、すれ違って、反対の方向に行った時、彼は、その人を振り向いて、その歩き方をじっと見ていました。その時、はっとしたんです。「自分も同じことをやっているじゃないか!人に振り向かれるのがいやで、その人を何とかしたい、ぎゃふんと言わせたいと思っていた自分が、自分にされて嫌なことを、その人に対してもしているじゃないか!」と気づかされた時、わたしも罪人だ、正しい人間ではない、正しいと見せているだけだという姿を、見せつけられたのでした。愕然としました。

 

自分は正しい、周りは間違っている、そう色分けしがちです。でも自分自身を振り返る時、本当に100%正しいのかと問われたら、いいえ、完全ではありませんと認めざるを得ない、真実があります。イエスさまは、その完全を、私たちに求めながらも、それができないことを分かっておられるイエスさまが、私たちに代わって、完全にきれいにしてくださるんです。自分ではできないから、もうそのままでいいとか、そのまま放っておこうということは願っていません。100%きれいになってほしいから、だからイエスさまは、私たちに代わって、完全なものとして下さるんです。

 

それは、かつてここで教会に導かれ、信仰を頂き、洗礼を受け、神さまと共に歩まれた方々も、同じところを通って来られたのではないでしょうか?そして自分は正しくない、100%ではないのに、自分に石灰を塗り、自分が正しいものであるかのように見せようとしてきた歩みがあったと思います。そのことゆえに、周りを傷つけてきたことにも、気づかされた日々でもあったと思います。しかし、そんなわたしを、イエスさまが、完全にゆるして下さったことに出会い、神さまに人生を委ねていかれた、その生き方がありました。そのことを天に召された方々は、今も尚、証ししています。永眠者記念礼拝とは、単に召された方々を偲ぶというだけではなくて、その方々を、神さまが許してくださり、救ってくださった、神さまに心を向け、体を向けさせていただく、時でもあります。

 

神さまからの恵みと、平安、そして大きな豊かな慰めがありますように。

説教要旨(11月3日)