2024年10月27日礼拝 説教要旨
与えられた命を(マタイ10:28~33)
松田誠一牧師
この夏、子どもさんを亡くされた家族の会に関わっておられる方々と、お目にかかる機会が与えられました。大学の先生を始め、いろいろな方々と、ご一緒に分かち合うひと時でした。そのひと時を通して、改めて向き合わされたことは、一人の人が、生きるということの大きさ、一人の命があるということの大きな意味でした。そして、その命があるという意味は、一人のその人が生きている時だけではなくて、なくなり、天に召されたその後にも、ますます大きく迫って来るのではないかと思います。なぜでしょうか?それは、その命が、神さまのものであり、その命が神さまから与えられ、神さまに生かされ、与えて下さった命の主である神さまに向かって、神さまと共に生きてこられた命だからです。
その1人の命を、神さまは、決して忘れることはありません。召されたから、もう神さまと共に歩む命でなくなることは決してありません。いつまでも神さまと共にある命です。なぜなら、一人のその人の命は、その命を与えられた神さまのものであり、神さまのもとに帰ることのできた命だからです。
そして、その命があるという意味と目的は、ただそこにあるということではなくて、その命は神さま共に、神さまに用いられ、神さまの助けの中で、使う命です。使命という言葉がありますが、文字通り、命を使うと書いて、使命となりますが、その使命を私たちは、どう受け止めているのでしょうか?その命をどう使い、どう使っていたのでしょうか?
その1つの姿が、イエスさまのおっしゃられる「体は殺」すこと、です。というのは、人間の歴史を紐解く時、人間は、食べる物などを巡って、相手の土地を奪おうとしていきました。その欲望は、ますます大きくなり、もっとほしいもっとほしいという欲望の塊が、その欲望の赴くままに、人と人とが争い、殺しあっていきました。その時、人々を戦いへと仕向け、扇動していった指導者を始めとする周りの人々がいました。その欲望に巻き込まれ、実際に戦争に駆り出された方々の中には、人として、自分の思いとして、そんなことはしたくないと、どんなに思っていたとしても、駆り出され、体は殺すということを、実際にしなければならなくなった人、捨て駒にさせられていった人が、あまたそこにいました。そこには敵も味方もありません。欲望と欲望とがぶつかり合い、傷つき、殺されていく人々が、増えていくだけです。それは今もそうです。毎日今日何人亡くなったということ、それによって悲しみ打ちひしがれ、怒りに燃えていく人が出てきています。そういう意味で、人は、昔も今もその本質は何も変わっていません。
しかし、同時に、「魂を」すなわち、命を「殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂」、命、「体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と続くのは、人は、その魂、命まで殺すことができないのに、殺し、失わせることができると受け止めてしまっている姿、そのために人は与えられた命を使って、何でもできると思い込んでしまっている姿を、イエスさまは明らかにしておられるのではないでしょうか?
自分では何でもできると思い込んでしまうことほど、恐ろしいことはないですね。なぜかというと、何でもできると思い込めば思いこむほど、自分を神さまのように仕立てていくからです。あるいは周りが、そう仕向けていくことで、人は、神さまではないのに、神さまにはなり得ないのに、人が人を神さまのように、神格化しようとしていくのです。その結果、何でもできるから、何でもしていいとなり、何でもしていいのだから、何をやっても許されるということに向かって、走ってしまうことになるんです。
イエスさまは、そこにストップをかけようとしてくださるんです。だから、魂も体も滅ぼすことができるお方は、神さましかいないということ、そして「滅ぼすことができる」に、救うということをしない、という意味が込められているのは、神さまは、人の魂、命も、体も、救うことがお出来になるということでもあるんです。ということは、神さまから命を与えられた、人間にとって、その命を宿した体は、人の手でいろいろできたとしても、たとい殺すということができたとしても、人が人を救うということには、関わることができないということ、人が人の命をコントロールできないこと、つまり、人は何でもできるのではない、できないこと、限界があるということを示しながら、その限界を通して、神さましかできないんだということを、イエスさまは、おっしゃっているんです。
そのために、イエスさまは、「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。」雀が売り物になっていることへと向きを変えようとしておられるんです。雀は、この当時、タンパク源として最も安い、人々にとっては手に入りやすい食べ物の1つでした。その安さは2羽で1アサリオンという値段です。そうなると2アサリオンでは、4羽となりますが、聖書の別のところでは、2アサリオンが5羽で売られていると書いてあるんです。それは、どういうことかというと、2アサリオンで4羽の雀を買った時に、1羽おまけでつけてくれたということなんです。それくらいに、雀は、安かったし、手に入りやすい食べ物であったということですが、そんな売られている雀を1アサリオンで買うのは、生きるためです。雀を頂いて、食べて、それで生きることができるんです。
一方で、雀にとっては、売り物になっている時、自分のことでさえも、自分ではどうにもできません。売られ、食べられるだけです。これから死んでいく雀です。イエスさまは、その雀を殺生して食べてはいけないとはおっしゃっていません。この人々はその雀を食べています。食べて生活しています。このことは、今、スーパーで売られている鶏肉も同じです。豚肉も、牛肉もそうです。雀ではなくても、鶏肉を食べています。豚肉、牛肉を食べています。タンパク源として、伊那であれば、イナゴを食べることもあるでしょう。そんな肉になる前に、鶏や、豚や、牛やイナゴが、この人には食べてもらいたくないと言い出したら、大変ですね。食べられる食べ物が、食べる人を選びだしたら、人は大変になります。でもそうではないというのは、「売られているではないか」とおっしゃられるのは、それらのものを神さまは食べていいんだと許しておられるんです。その結果、食べているから、食べることができるから、血や体になります。そしてその血は、髪の毛になります。
そういう雀に、神さまが目を留めてくださっているんです。そして、命を与えて下さった神さまが、「その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」というのは、地に落ちて、売られる雀になるかどうかも、またそれが食べ物として、用いられるかどうかも、神さまのお許しがなければ、そうはならないということなんです。
ということは、1アサリオンで売られている2羽の雀は、雀自身は何もできなくても、何もできない雀を用いて、小さな雀の命を神さまが、人が生きられるように、売るということを、許してくださっているということではないでしょうか?どんなに叩かれても、どんなに安い値段であっても、それが売られているということを、神さまが許して下さっているから、売られているし、その雀を人は手に入れることができるようになるんです。
そのことを知ることができた時、食べ物も、空の鳥も、魚も、お野菜も、お肉も、何もかもが神さまから、私のために、生きる命の糧として与えて下さったものだということを、知るようになるのではないでしょうか?そして、そのすべてを与えて下さった神さまを知ることを通して、神さまは私のために必要なものを、いつも与えて下さる神さまだということも、知るようになるんです。
レーナマリアヨハンソンさんというスウェーデンの方がいらっしゃいます。生まれつき、両腕がなく、片方の足がもう片方の足の半分の状態で生まれてきました。ご両親は、最初はどうしてこんなことになったのかと、ずいぶんと悩まれたのでしたが、レーナさんは水泳の選手として、パラリンピックに出られるようになったり、神さまをほめたたえる讃美をされるようになっていきました。そしてコンサートを通して、神さまを讃美できることがどんなに素晴らしいことか!神さまが用いてくださることが、どんなにうれしいことかを、コンサートの度毎に、その神さまを証ししていかれました。ある時、こうおっしゃいました。「肝心なのは、神さまが私をどうお使いになるのかを知ることです。」
そして日本でのコンサートの中で、「一羽の雀に」という讃美歌を日本語で歌いました。
心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真の友
一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う
2羽の雀は、1アサリオンというお金で、売られているだけの雀でした。雀自身は、自分のことであっても、何もできませんでした。それはまた、神さまが用いて下さることに、委ねていた、委ねるしかなかった雀でもあったと思います。しかしそうであっても、そのことを通して、私たちにイエスさまが、与えて下さっていること、その雀を神さまが許して、支えて下さっています。そして同じ神さまが、私をも支えて下さるんです。そして私たちが、神さまから与えられた命を、どう使おうとし、どう使っているのか、ということを、神さまが共に歩みながら、共に生き続けるその中で、神さまの方から知らせ、神さまの方から、与えて下さるんです。
私たちは、与えられた命をどう使うのでしょうか?どう使っているのでしょうか?毎日の仕事や、毎日の生活の中で、こうありたい、こうしたい、反対に、こうなりたくない、したくないということが、いろいろあると思います。しかし、それらのことを、自分でどんなに、自分の思い通りに、コントロールしたくても、自分では何もできない、自分ではどうにもできないということも、知らされます。そのことに納得できないかもしれません。しかし、私にはできないからこそ、神さまの赦しがなければ何にもできないということ、だからこそ、私のために神さまがしてくださるという、変わることのない真実に出会っていくのです。