2024年10月20日礼拝 説教要旨
主の祈り(ヨハネ17:13~26)
松田誠一牧師
いよいよ来月は教会創立140年記念礼拝です。山畑先生をお迎えして、礼拝を守り、おささげしますが、このような記念礼拝を何故お捧げするのか?というと、それはただ140年目の節目だからとか、久しぶりに山畑先生をお迎えするということだけのためではありません。教会が誕生してから、140年を導き、支え、お守りくださった神さまへの感謝の時として、そして教会の始まる前から、イエスさまを伝えるために、伊那にみ言葉を運んでくださった方々の労苦と、それこそ迫害を受けながらも、神さまの助けと導きによって乗り越え、喜んで神さまのご用に当たられた歴代の先生方の、その働きにも目を留める時でもあります。そして同じ神さまが、これからも導いてくださり、イエスさまを伝える喜び、御言葉を持ち運ぶ喜びに、招いて下さることを、改めて確認する時でもあるのです。そんな140年の歴史の中で、高遠教会初代牧師、大貫先生のことを、紹介したいと思います。
高遠教会の始まりに当たって、伊那から高遠に移られた大貫先生の導きの中で、高遠にお住いの方々、そして今もそのご親族がいろいろな形で教会に繋がっておられますが、大貫先生が高遠に赴任されるにあたって、教会員の方が、お住まいを、捜されます。ところが地元の反対に遭い、住居がなかなか決まりませんでした。それでもようやく迫害の中、住居が決まるのですが、そこでまた組に入るという時にも、反対に遭います。当時の、高遠の場合、加入者本人が保証人2人を立て組頭に付き添われて、酒一升・豆腐一丁を持参、町内全員の前で、誓約証文に自署捺印するということが行われていました。その時も、いろいろな反対がありましたが、地元の方々の中で、理解下さる方の協力を得て、先生ご家族は、何とか町内に入ることができたのでした。また当時は、キリスト教の信者であっても、仏式で葬儀をしなければならないことでした。そういう迫害と反対の中にあっても、イエスさまを伝えるということに反対する人、憎む人々がいても、その只中に住んで、共に生活する方々の中に入って行って、神さまの御言葉が伝えられていったのです。
そう言う意味で、神さまを信じて、神さまの言葉を伝えていくという時、反対する人々や、憎む人々がいるということは、反対されるから、憎まれるから、じゃあ、その人々と共にそこで生活しようとしないのではなくて、それでもそこに住み、憎む人々とも共に生活しているからこそ、憎む人が出て来るということではないでしょうか?
イエスさまが、御言葉を伝えた「彼ら」もそうです。それがこの言葉「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」に現れています。というのは「世に属していない」この意味は、そこに住みながら、共に生活しながらも、周りに流されず、周りの人々が当然としていることを、自分のよって立つ基本としないということだからです。つまり、イエスさまから伝えて頂いた御言葉を、受け取った彼らは、神さまのいのち、真理を自分のよって立つ基本としていきますから、周りの方々が、当然としていること、これまでやってきたから・・・という当たり前にも、迎合しないという生き方に、なっていくんです。となると、周りからは、え?なんで?どうしてこれまでやってきたことと同じようにしないのか?という、ことが起きます。
ある方が、教会に行かれて、神さまを信じて洗礼をお受けになられた時、それまでの友達が、洗礼を受けた方に、こう言いました。「お前は、どうしてあっちに行ってしまったのか~あっちに行かずに、こっちに戻ってこい!」友人にとっては、それまでのその方が、別の世界に行ってしまったように感じたのでしょう。だからこっちに戻ってこいと言うことが出たのだと思います。それでも、その方は、そういうことを言う友達も、大切にされたのでした。やがてどうして教会に行って、洗礼を受けたのかということを、だんだん理解してくれるようになりました。
私たちにとって、そういうことがありますね。日曜日に教会に行くこと、礼拝をささげること、それが、周りの方々からは、どうして日曜日は教会に行くの?という素朴な疑問を持たれることは、あると思います。時には、憎まれることもあるでしょう。迫害とまではいかないけれども、いろいろなことがあるかもしれません。しかし、そうであっても、自分のよって立つところは、神さまだ!神さまのいのち、真理だということを基本とし続けていくことを通して、周りの方々に、すぐにではないかもしれませんが、分かっていただけるようになるのではないでしょうか?そして、どうしてそこまで信仰を守り、礼拝を大切にしようとしているのか?ということに、心が動かされ、心に響く何かが、周りの方々にも、与えられていくのではないでしょうか?
それはイエスさまが、神さまの御言葉が真理であること、その真理を語り、示し、あらわすために、神さまから遣わされたからです。そしてその真理の言葉が、私たちにも与えられた時、「主の霊は、わたしを通して語り、私の舌の上にある」との、聖書の言葉の通り、私を通して、真理が語られていくんです。私の舌の上に、神さまの真理の言葉があるんです。そしてイエスさまは、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」とおっしゃられた通り、イエスさまは、神さまの真理を示し、あらわし、与えるために、自分自身を神さまにささげていかれるんです。
そのことをイエスさまがしてくださったからこそ、与えられた神さまの真理が、私たちを通して、周りにも広がっていくんです。自分ではそう意識していなくても、そんなことは何もできていないと、自分では思っていても、憎む人々がいたとしても、それらのことを越えて、神さまは、そこで働いて下さるんです。
しかしそうだからと言って、すべてが順調に、スムーズに進むとは限りません。神さまの言葉は真理だ、それを受け取られた方々は素晴らしいと受け入れるのではなくて、真理が語られ、与えられ、その真理に従う人々に対して、憎む人々が出て来るのは、本当のことを直接指摘されたり、あるいは直接言われなくても、真理に生きようとしている人々を通して、自分が真理に生きていない、真理から外れていると指摘されていると、受け取るからではないでしょうか?
以前は、時々教会に、食べ物がほしいとか、お金が欲しいといって来られる方がいました。今は、そういう方を見かけなくなりましたが、ある時、1人の方が、来られました。最初は丁寧に、下手におっしゃっておられます。最初からお金が欲しいとは言われません。聖書を読みたいとか、聖書にはどんなことが書いてあるのか・・・とか、真理を求めているようなそぶりを見せますが、その内に、今からこれこれのところに行きたいのですが、お金がありません・・・電車賃だけでも、いいので、少し貸してくれませんか?・・・とかいろいろおっしゃられ始めます。その時、かわいそうだからと言ってあげてしまうと、大体飲み代に代わってしまいます。それが分かっていましたから、差し上げることはありませんでした。「お金以外のことでしたら、お手伝いできると思うのですが・・・お金は差し上げられません」とはっきりと応えますと、急に態度を変えて、どこかに行ってしまわれました。ところが、同じその人が、それから1年くらい経ってこられました。いろいろな教会を回っているのだと思いますが、そのご本人は、1年前もここに来たとは気づかないようでした。それでいつもの常套句で電車賃だけでも・・・とおっしゃられた時に、こう言いました。「去年も来られましたね~去年も差し上げられないと答えましたが・・・」すると突然、血相を変えて、急に怒りだして、プイ~と向こうに行ってしまいました。そのことを今振り返ると、その方が血相を変えて怒ったことは、よかったと思います。すごくよかったと思います。その方の心に、本当のことがしっかり当たったからです。そういう意味で、怒りだすことは、それだけを見れば、怒っている、としか受け止められないことかもしれませんが、その怒りは、本当のことを言った、私に向けられているのではなくて、真理に対しての怒りですから、ちゃんと怒りながらも、受け入れてはいなくても、真理に対して向き合っている証拠ではないでしょうか?
そしてもう1つのことは、ホントのことを言われると、腹を立てるのは、本当のことが知られること、明らかにされることが、怖いからです。だから彼らを憎む人々がいるというのは、彼らを、最初から憎たらしいと思っているのではなくて、本当のことを言われたり、示されたりすることによって、起こる、真理に対する恐れであり、抵抗でもあるんです。
イエスさまは、御言葉を伝えた彼らにも、そういうことがあるということを、分かっておられるんです。真理が語られ、真理の御言葉が与えられると、そういうことが起こるんです。しかしそういう憎む人々がいても、それは真理に対してしっかりと向き合っているからこそ憎むのだということも分かっておられるので、真理を持ち運ぶ、真理に生きようとするその彼らのために、イエスさまは「お願いします」「悪い者から守ってくださ」いと、世から憎まれた彼らが、傷つかない、汚れのない状態に守り、その状態が守られるように、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」も、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも」、「わたしに与えて下さった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」も、イエスさまは、お願いしますと、神さまに祈っていて下さるんです。
ということは、イエスさまがお願いしますと神さまに祈っておられる、その祈りは、その内容も、また祈られている人々も、広がっていくということではないでしょうか?
そういう意味で、1つの祈りは、1つにとどまりません。広がっていきます。大きくなっていきます。と同時に、祈られていることも、祈られている人も、広がっていきます。主の祈りもそうですね。礼拝ごとに、祈られます。その主の祈りによって、自分の言葉で祈ることができなくても、祈る言葉が出て来なくても、周りで一緒に祈っている、その祈りに、祈られ、祈りの輪の中で、支えられています。
それは単純に、うれしいことですね。自分が祈ることを忘れていた時でさえも、祈れない時でさえも、祈って下さっている方がいることは、大きな支えですね。
今年の教会に与えられた御言葉は、正面にも書いていただいていますが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、家族も救われます」という神さまの約束の言葉ですね。その言葉が、本当にその通りになると信じて、そうなるように、いつも一番祈って下さるお方は、神さまであるイエスさまです。そのイエスさまの祈りに、いつも祈られています。祈られているから、私も、祈ろうと思えるようになります。祈ることができなくても、イエスさまが祈ってくださっているから、イエスさまの祈りの中にあります。そしてその祈りは、お互いのことを覚えて、お互いのために祈るということへと導かれ、広がっていきます。主の祈りとは、そういう祈りです。
祈りましょう。