2024年10月13日礼拝 説教要旨

イエスのなさったこと(ヨハネ11:45~54)

松田誠一牧師

 

ある駅の改札口に置かれた黒板に、こんな言葉がありました。

 

未来への第一歩を踏み出す卒業生の皆さまへ。卒業おめでとうございます。木曽福島駅を3年間ご利用いただき、ありがとうございました。雨や雪、あるいは熊や鹿にぶつかり列車が遅れた時には、運休してご迷惑をおかけしました。「大変ですね」とねぎらいの言葉を頂くこともありました。木曽地区はとても寒いですが、皆さまの心はとても温かいと感じました。

この春、進学、就職してそれぞれ自分で選んだ道のスタートラインに立とうとしています。夢や希望に向かって期待や不安も多々あると思います。誰でも何かに挑戦する時、最初はみんな初心者です。失敗を恐れず、自信を持ち、自分の信じた道を突き進んでください。困難に直面しても乗り越えられる力、心強さ、勇気が皆さまにはあります。何より、友人が、先生が、家族が応援しています。そしてふるさとに帰って来た時には、大きく成長した姿を是非見せて下さい。卒業おめでとう。

 

この言葉は、新しく出発する卒業生の方々への、駅員さんからの暖かな励ましの言葉です。毎年この時期に、駅改札口のところに掲げられています。きっと毎年贈り続けておられるのではないかと思いますが、卒業される方々は、何かに挑戦していきます。その時、「最初はみんな初心者です」はその通りです。もちろんこれまでの出会いと経験が生かされていくことでしょう。それでも、初めての一歩は、初心者です。そんな未来へと、第一歩を踏み出すという意味は、過去に戻るのではなくて、あるいはとどまり続けるのではなくて、恵まれた良き出会いも含めての過去から、出て一歩踏み出すことです。それによって新しい世界が与えられ、出会いが与えられていきます。

 

それは「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多く」もそうです。というのは、「ユダヤ人の多く」とあるこの言葉は、ユダヤ人たちから「出た」多く、という意味だからです。つまり、「ユダヤ人の多くは」それまで共にいたユダヤ人たちの共同体から出たというだけではなくて、これまでユダヤ人として生きてきた中で、自分たちを支えてきたものからも、そこで身に着けてきたこと、それこそ体にしみついている考え方、生き方からも出たということではないでしょうか?でもこれはよっぽどのことです。なぜならば、これまで彼らが、信じて、彼らを支えてきたものからも出たということですから、彼らを支えるものが失われてしまうからです。だからこそ、彼らにとって、彼らを支えるこれだ!というものを求めていくんです。それが、イエスさまを神さまとして、信じたということに導かれていったのではないでしょうか?

 

それでは、彼らが、イエスさまを信じたので、後はバラ色の人生となり、彼らには何も困難と感じることや、迷うこともなくなるということなのかというと、そうではなくて、「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」すなわち、イエスさまを神さまとして信じた、彼らの中から、また出て行って、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスさまがなさったこと、すなわち、ラザロを墓に預ける生き方から、ラザロを神さまであるイエスさまに、またラザロに命を与えてくださった、命の主である神さまに、預けるのだということを、イエスさまが現し、示してくださった、そのことを、ファリサイ派の人々に告げる者もいたということなんです。

 

これはどういうことでしょうか?彼らは、それまでのユダヤ人たちから離れて、出て、イエスさまを信じたんです。イエスさまが神さまであることを信じたんです。だからそのままイエスさまについていけばそれでいいのに、彼らの中からまた出て、イエスさまではなく、ファリサイ派という人について、従っていく人が出てくるんです。

 

この姿は、自分を支えるもの、支えるお方は、イエスであるのに、イエスさまについていけばそれでいいのに、イエスさまではなくて、人を信頼して、人に従ってしまうことがあることを、現わしているのではないでしょうか?そしてそこにあるものは、イエスさまを信じたけれども、迷っている人もいたということではないでしょうか?

 

不動の信仰というタイトルで、京都の教会で長くご奉仕された先生が、こんな言葉をおっしゃっていました。

 

不動の信仰とは、信じることにおいて迷いのないことなのでしょうか。そうではありません。私たちの生活は常に不条理に揺れていますし、私たち自身も常に愚かな迷いを続けているわけで、信仰もその点例外であるはずはないのです。人生の営みはすべて迷いの中にあります。ですから、迷いからの脱出を願うのではなく、迷いこそ正常な生の姿と受け止める事こそ大切であり、そう受け取らしめるのが、信仰というものでしょう。そして迷いの中で不動を求めずひたすら虚心を求める、それが信仰の不動というものであります。

イエスさまが神さまであると、信じたら、あとは疑うことがないとか、迷うことがないとか、揺れ動くことがないとか、不条理がないということではありません。イエスさまを信じても、なお迷うこと、揺れ動いたりすること、不条理なことに、納得できないこと、信じられなくなってしまうこと、疑うこともあるんです。またそれらのことに、巻き込まれてしまうこともあります。

 

だからこそ、イエスさまを信じた者の中からまた出て、ファリサイ派の人々のもとへ行き、そこでイエスさまがなさったことを告げた時、(47)そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と、ファリサイ派の人々と、祭司長たちは、当時のユダヤ社会の最高議決機関である最高法院を召集して、皆を集めて、『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか』と、そこに集まった人々に、私たちは何をすればよいかと、尋ねていくんです。でも、そもそも、最高法院を召集した側の人たちから、「どうすればよいか」と尋ねる事なのでしょうか?そうではないと思います。なぜなら、人々を集め、そこで何かを伝えるという時、それは、まずは召集した側が、こうしたい、こうすべきだという確固とした思い、考えを持ってこそ、人を集めていくのですから、集めたは、「どうすればよいか」と、集まった側の人々に尋ねるというのは、おかしいです。まずは、こうしたい、こうすべきだと思うけれども、皆さんいかがですかと尋ねるのが、筋です。ところが「どうすればよいか」と尋ねのは、召集したファリサイ派の人々も、祭司長たちも、自分たちがどうしていいか、分からなくなってしまい、迷っているからではないでしょうか?

 

しかも、どうすればよいかと尋ねながら、「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と、言葉が続きますが、言っている内容を見ると、1つには突如として、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうという内容が出てきていますが、この根拠はどこにあるのでしょうか?根拠は示されていません。しかも、イエスさまを皆が信じるようになることと、神殿も国民も滅ぼされてしまうということが、どうつながっているのでしょうか?根拠が示されていないのに、どうつながるのでしょうか?

 

それなのに、こんなことを言うというのは、彼らの迷いから出ているのではないでしょうか?しかしそうであっても、そこに集まった人々を、根拠のないことで、扇動していると言いますか、不安をますますあおっているのではないでしょうか?

 

それはこの場面だけではありません。上に立つ者、先頭に立つ者が、迷っている時、不安になっている時に出て来るものは、それを聞いた周りの人をも巻き込んでいくものです。例えば、川下りというのがありますね。天竜川の川下りも有名ですが、その川下りをする時、船に、お客さんを乗せて、その舟のかじ取りを、船頭さんがされますね。字のごとく、船の頭に、先頭に立って、安全に川を下ることができるように、舵取りをされます。その時、乗っているお客さんは、流れている川の中を進んでいく時、多少は怖いと思います。大丈夫だろうかと、不安にもなるでしょう。その時、船頭さんも、僕も怖いんです!僕も迷っているんです~と言ってしまったらどうなるでしょうか?乗っているお客さんは、もっと怖くなりますね。もっと不安になります。だからこそ、船頭さんは、船のことも、また川のことも良く知った上で、適切なかじ取りをしなければなりません。多少不安な時があっても、そう思っていても、お客には言ってはいけないことです。

 

ところが、ここでは、召集した側の人たちが、「どうすればよいか」と、人々に丸投げをし、根拠のない情報を流して、あおっているんです。

 

その時、彼らの中の1人で、その年の大祭司であったカイアファが、召集したファリサイ派、祭司長に向かって「あなたがたは何も分かっていない。」スバっと言われるんです。そして続けて「1人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか」と言われますが、かく言うカイアファの言葉は、神さまから預かった言葉を、カイアファを通して、神さまがお語りになられたものだと、証言し、説明しています。その通り、カイアファを通して語られた神さまの言葉は、イエスさまが十字架の上で、国民のために死ぬということでした。ところが、それを取りついだカイアファのもとへ、後にイエスさまが、カイアファのもとで裁判を受けるために、連れて来られましたが、イエスさまを十字架につけるかどうかの判断を、彼自身が決めなければならない立場にあったのに、カイアファは、自分では決めることができませんでした。そしてカイアファから、総督ピラトのもとへ連れていかれるのですが、そのピラトも、自分ではイエスさまを十字架につけるかどうかの判断が、できませんでした。しかしカイアファも、ピラトも判断し、決めることができる立場にあります。でもできなかったんです。何もできませんでした。その結果、群衆のイエスさまを十字架につけろという声と、その群衆に委ねていくんです。ではその群衆も、イエスさまを実際に十字架につけたのかというと、十字架を担いだのは、イエスさまです。途中から代わって担いでもらったとは言え、十字架を担いだのも、十字架が立てられるところまで歩いたのも、十字架につけられるその本人であるイエスさまです。

 

ということは、一人のイエスさまが民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むということのためには、誰も何もできなかったんです。ファリサイ派も、祭司長たちも、イエスさまを殺そうとたくらんだにしても、実際に、イエスさまを十字架つけるか否かという時に、このたくらみ通りに、何もできませんでした。ピラトもできませんでした。ピラトも自分では決めることができませんでした。群衆も、イエスさまに対しては、何もできませんでした。群衆もただ口先だけです。口ばっかりでした。そういう意味では、殺そうとたくらんだ人も、そこに関わった群衆も、皆、無責任です。

 

しかし、どなたもが無責任であったがために、何もできなかった、無責任であった、というそこに、イエスさまは自ら十字架を背負い、十字架がたてられ、その十字架の上で、神さまに赦しを祈られたのでした。それは、もう赦しの十字架となっていました。

 

神さまの赦しというのは、そういうことなんです。私たちが何かできたことに対する赦しではなくて、また赦されるために私たちが何かをしたから、与えられる赦しでもなくて、私たちが何もできなかったこと、口先だけで、言うだけで何もしなかったこと、結局は何もできずに、無責任となってしまったことへの、赦しであるということではないでしょうか?だからこそ、そこに赦しの十字架があり、その十字架の上で、イエスさまは、何もできなかった、私たちを赦しておられます。その十字架の赦しのもとに1つに集められていくのです。

 

1923年9月1日関東大震災が起きました。首都東京を中心に大きな被害と火災が発生しました。その夜のことです。明治学院の校庭に避難された方々が余震の続く中、支給された蚊帳を張って、そこで夜を過ごしていました。その光景を、英語教師として来日していたアメリカ人宣教師マーチンが、目の当たりにした時、その蚊帳の中でゆらめくろうそくの光が、十字架に見えました。その時、生まれた讃美歌がありました。「遠き国や」という讃美歌です。

 

遠き国や 海の果て 何処に住む 民も見よ 慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり

水はあふれ 火は燃えて 死の手ひろげ 待つ間にも 慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり

仰ぎ見れば など恐れん 憂いあらず 罪も消ゆ 慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり

 

慰めもて 汝がために 慰めもて 我がために 揺れ動く地に立ちて なお十字架は 輝けり

 

信じていても、信じた中でも、揺れ動きます。迷うこともしばしばです。自分で何も決められないこと、自分では何もできないこともあります。しかし、だからこそ、そこに主の十字架が建てられ、神さまの赦しが、何も出来ない中にこそ、与えられ、輝いています。

説教要旨(10月13日)