2024年10月6日礼拝 説教要旨
主の涙(ヨハネ11:28~44)
松田聖一牧師
ラフカディオ・ハーンと呼ばれ、後に日本人となられた小泉八雲という方の、1つの作品に、「日本の面影」という著書があります。その中で、日本人の微笑みについて紹介されており、その微笑みには、日本人の特徴が現れていると紹介されています。その具体的なこととして、こんなくだりがあります。
例えば、初産の子供を亡くした母親が、葬式ではどんなに激しく泣くとしても、もし彼女があなたの家の女中であったとしたら、微笑を浮かべて、子どもの死を報告するだろうと思われる。
しかしこの笑いは、自己を押し殺しても礼節を守ろうとする、ぎりぎりの表現なのである。この笑いが意味しているのは、「あなた様におかれては、私どもに不幸な出来事が起こったとお思いになりましても、どうぞ、お気を煩わされませんようお願いいたします。失礼も顧みず、このようなことをお伝えいたしますことを、お許しください。」という内容なのである。
ここに登場する、その母親が、家の女中さんであったら、微笑みを浮かべて、子どもの死を報告するというのは、想像できません。母親ですから、本当は激しく泣きたかったと思います。それなのに、自分を押し殺してでも、微笑みを浮かべて報告しなければならなかった…そうしなければならなかった事情があったにしても、この時の微笑みは、心から喜んでいるから、微笑みになっているのではなくて、微笑むことができないのに、ギリギリの表現として、微笑んでいる微笑みです。それと同じことは、明治に生きた人々だけではなくて、私たちにもあるのではないでしょうか?
なぜならば、私たちにとって、どんなに悲しくても、辛くても、気丈に振舞おうとすること、笑顔でいようとすること、それこそ微笑みを浮かべなければならないことがあるからです。それは気持ちのことだけではありません。体にどんなに痛みがあっても、大丈夫ですか?と気遣われた時にも、大丈夫じゃない、痛いですと大騒ぎすることは少ないと思います。大丈夫ですと答えるのではないでしょうか?元気ですか?と聞かれても、元気じゃないとは答えずに、ぼちぼち元気ですとか、まあなんとか・・・と応えていきます。でもそれは本当の思いを言っていません。本当の気持ちを、どこかに押さえこんでしまって、まあなんとか・・・ぼちぼちとか答えていくのは、その人の中に、本当のことと、本当でないことが、両方あるということですから、それは、自分自身の中で、自分への敵対があり、自分自身に立ち向かっているという矛盾を抱えているのではないでしょうか?
それは、ラザロを亡くしたマルタとマリアにとっても、そうです。というのは、マルタは、イエスさまが、ラザロのところに来られたということを聞いて、迎えに行きますが、それはイエスさまを歓迎して迎えに出たということではなくて、(30)「マルタが出迎えた場所」の、「出迎えた」という言葉は、敵対的に向かっていくとか、立ち向かうという意味であるからです。
つまり、マルタは、亡くなったラザロのところに来られたイエスさまを、心から歓迎しているのではなくて、イエスさまに敵対しながら、立ち向かっているんです。そこには、どうして死ぬ前にラザロのところに来てくれなかったのかという、思いであり、それはまたイエスさまへの怒りであったかもしれませんし、どこにそれをぶつけていいのか分からない、持って行きようのない憤りであったのかもしれません。しかし、そういうものを抱えながら、イエスさまを出迎えたマルタは、それでもイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という、自分の思い、願いをイエスさまに直接訴えていくんです。と同時に、イエスさまから、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われた時には、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子で、メシアであるとわたしは信じております」と、マルタは、イエスさまが、神の子であり、メシア、救い主であるということを、「はい主よ」と、わたしは信じていますと、答えていくんです。
それはマリアもそうです。ただマルタと出方は違います。それは、マルタがイエスさまを迎えに出て行った時、マリアは、「家の中に座っていた」動かなかったことからも見えてきます。これもまたマリアなりの抵抗です。それはイエスさまが、すぐにラザロのところに来てくれなかったんだから、イエスさまも動かなかったんだから、私もそうするということなのかもしれませんし、そんなイエスさまのところには、行きたくない、その思いの現われでもあると言えます。ところが、マルタから、イエスさまが「あなたをお呼びです」と耳打ちされた時には、「これを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」マリアは、「すぐに立ち上がり」イエスさまのもとに行き、イエスさまを見るなり、足元にひれ伏し、マルタと同じ言葉「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、イエスさまに主よと、イエスさまに向かって訴えるのです。
このマルタとマリアの姿を見る時、2人の出方はそれぞれ違いますし、彼女たちはそれぞれにイエスさまに立ち向かい、イエスさまに対する怒りを抱えています。しかし彼女たちは彼女たちなりに、イエスさまにぶつかって、イエスさまに立ち向かっていながらも、それでも、イエスさまに主よ、と声を上げ、イエスさまを信じているんです。それは、本当の私を受け止め、受け入れて下さる!お方は、イエスさましかいない、というものがあるからこそ、イエスさまに主よと訴えられたのではないでしょうか?そういう意味で、信じるというのは、そこしかない、それ以外にはいない、というところに、立ち向かっていく姿でもあると思います。
その姿は、子どもが親の言うことを聞こうとしないで、反発することと似ていますね。必死であやしても、それこそなりふり構わず、体をエビのようにのけぞって、泣き叫んだり、でも泣きながら、親にしがみつきながら、叩いて叩いて、困らせていきます。でもそれはその子が、自分の親を嫌いになったからとか、親を必要としなくなったからではなくて、必要としているからです。そして、何をしても、敵対しても、立ち向かっても大丈夫だと信頼しているからこそ、そこしかないからこそ、立ち向かっていけるんです。
だから、マリアは泣いているんです。それはイエスさまが、泣くことも受け入れてくださり、泣いてもいいんだという安心を、イエスさまから与えられていたからなのかもしれません。しかし、マルタが泣いたとは書かれていません。でもそれは泣きたい気持ちを抑えていたのかもしれませんし、心が動かなくなって、感情が麻痺して、死んだようになって、泣きたいのに、泣けない、悲しみを悲しみとして、感じることも、できなくなっていたからかもしれません。そしてイエスさまのところに行ったマリアと一緒に来たユダヤ人たちも、「泣いている」んです。
その姿をイエスさまは見て、「心に憤りを覚え、興奮」されるのです。この心に憤りを覚え、興奮するという言葉のもともとの意味は、馬が怒って鼻を鳴らすということから、怒り心頭に達して、鼻息荒く、どなりつけるという意味に繋がります。それがイエスさま自身を興奮させているんです。つまり、イエスさまは、マリアやユダヤ人たちが泣いているのを見て、激しく、興奮しながら、怒り心頭なんです。
では何に対して、怒り心頭なのでしょうか?それはイエスさまの「どこに葬っ
たのか」という言葉から見えてきます。というのは、葬ったのかというのは、命を投げ出し、差し出して提供し、預けるという意味であるからです。そしてこの言葉は、商業用語で、預金するとか、供託するという意味もあります。一般的に、預けるとか、預金するということは、ゆうちょ銀行や、一般の銀行に預けるということが多いと思いますが、預けると、利息が付きます。今の利息は、普通預金であれば、0.00・・・%ですから、雀の涙ほどしかつきません。でも、預けたら、それは僅かであっても増えていきます。それと、ラザロを、今のように火葬にするのではなくて、遺体をそのまま墓に葬ったということとを重ね合わせるとき、それはラザロの命が、その墓において、なくなるのではなくて、その墓に、ラザロの命を預けることで、やがていつかラザロは復活するということを、マルタ、マリア、そしてユダヤ人たち、葬った人々が、信じていたということ、そのことへの怒りであり、興奮ではないでしょうか?
そしてその墓の入り口を、ふさいでいる大きな石を、イエスさまは「どけなさい」とおっしゃられるのは、ラザロの命を墓に預け、その墓をふさいでいることで、預けたままになってしまうことから、イエスさまは、解き放ちたいんです。それは命を預けるのは、墓じゃないということ、お墓は、ラザロも含めた人の命を預かる場所じゃないということを、おっしゃっておられるのではないでしょうか?
しかし、マルタは、ラザロが亡くなって、もうすでに4日も経っているために、ラザロの遺体から出る臭いのことがすぐに頭にあったのでしょう。「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と、彼女はすごく現実的なことを考えて、答えているのではないでしょうか?遺体から出る臭いは大変なにおいだ・・・だから、その墓穴をふさいでいる石を取りのけたら、たちまち周りに、ラザロの死臭が広がってしまうのではないか?そして、その大きな石を取りのける人も、その臭いと、遺体が腐りかけているのを、目の当たりにすることで、大変になるのではないか?と、マルタなりの気遣いも見て取れるのではないでしょうか?
それはまた、イエスさまが言われたことへの抵抗でもあります。イエスさまが言われた「その石を取りのけなさい」とおっしゃられたことを、受け入れようとしていないとも言えるでしょう。しかしそう言いながらも、マルタは、ラザロの命を墓に預けているんです。それに対して、イエスさまは、どんなにマルタが、現実的なことを言っても、ハイ分かったとはおっしゃられないのは、マルタも含めて、マリア、ユダヤ人たちが、これまで信じてきたことを間違いだと否定する方法ではなくて、そこから解き放つために、「その石をとりのけなさい」石を取りのけるようにと、その言葉を変えないんです。それは、現実を見て、その現実を信じていくと、それは現実を越えたものにはならないこと、むしろ現実以下のものになってしまうということを、イエスさまは、分かっておられるからではないでしょうか?それはそうですね。現実だけを見て、その現実から判断すれば、現実以下のものになります。それが重なれば重なるほど、最終的には、何をやってもダメだということに繋がります。ということは、やっても駄目だ、いくら石をどけなさいと言われても、それはダメだ、無理だ・・ということになります。しかしイエスさまは、信じるとは、そもそも人がダメだと受け止めてしまうことであっても、ダメ元であっても、イエスさまが、それをやってみなさいと、おっしゃられるその言葉を、「お言葉ですから」信じてやってみようと、一歩踏み出すことではないでしょうか?だからこそ、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」これまで何度も何度もおっしゃられた、神さまを信じること、そしてイエスさまを信じることを通して、神さまがしてくださる、素晴らしいことを、見ることができると、ここでも改めて、マルタに語られるんです。
その結果、そこにいた「人々が石を取りのける」んです。人々は、イエスさまがおっしゃられるから、イエスさまが言っているから、まずはやってみようとしていくんです。その時、「イエスは天を仰いで言われた」と続きますが、石を取りのけるの、「取りのける」という言葉と、天を仰ぐ、目を上げるという意味ですが、仰ぐという言葉は、同じ言葉なんです。つまり、人々が、石を取りのけることによって、ラザロは神さまを仰ぐことができるようになるんです。そして、イエスさまが神さまに感謝します、神さまありがとう、の感謝が、ラザロにも与えられて、ラザロが、いつでも、いつも、神さまに、感謝します、と言えるようになっていくんです。
そのためにイエスさまは、「ラザロ、出てきなさい」とおっしゃられるんです。そして、ラザロが手と足を布で巻かれたまま、そして顔は、日よけのために結び付けていた手ぬぐいで、顔の周りをぐるっと縛られたまま出てきた、その時、人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃられるのは、ラザロが、行くところは、神さまのところだ!お墓じゃない!命を預けるお方は、お墓じゃなくて、神さまだ!そのために、神さまのもとへ帰らせてくださるんです。そして神さまに、いつでも感謝できるように、体中、顔全体を巻き付け、縛りつけていたものから解き放とうとしてくださるんです。
ある教会の50周年記念誌の中に、一人の方が洗礼を受けられて40年を迎
えたことを振り返りながら、こうおっしゃっていました。
50周年記念を迎えて心よりお喜び申し上げます。今日まで支えられて生かし続けて下さったこと、過ぎし日を思い感慨深いです。受洗して40年経ち、今生かされていることは不思議なほどであります。呼吸不全の私も吐く息、吸う息を命注がれています。主よ、私は今ここにおります。死にかけていた私が、新しく命注がれて現在に至りました。「今この時の苦しみは、みな後に現れる栄光に比べれば言うに足りない」の御言葉に捕らえられて歩んでまいりました。これからも逆境の時こそ、信じて仰ぎ見るのみです。
今、振り返り、生かされ続けてきた道は全く神さまよりの恵みに他なりません。老いて今、なお生かされていることに感謝は尽きません。「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている。」50年を出発点として、キリストの十字架と復活を再確認したいと思います。
続けて、1つの詩を遺しておられました。
苦しくなったとき 吐いて吐いて 大きく吐いて 吸って吸って 大きく吸う まことの神さまを 信じて信じて 大いなる方に委ねる
イエスさまは涙をもって、どんなに石でふさがれていても、ラザロを死のところから、死から命へと、主と共に生きる命へと、出てきなさい、帰らせなさい、行かせなさいと呼びかけて下さいました。そしてラザロは、預けられたお墓から、その命が、神さまのもとに帰ったのでした。
死から命へと導いて下さるお方は、神さまであるイエスさまです。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きるとおっしゃられたイエスさまのもとに、導いてくださいます。それまでの道のりには、いろいろあるでしょう。いろんな思いと現実的なことが絡み合って、イエスさまに立ち向かい、敵対し、時には石でふさがれ、体中が縛られ、息が出来ないほどに、巻き付けられているようなこともあると思います。しかしイエスさまは、主と共にある命へと導くために、涙と共に、何度も何度も招き続けて下さいます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」