2024年9月22日礼拝説教要旨

神さまが与えたもの(ヨハネ10:31~42)

松田聖一牧師

 

人が集まるということによって与えられ、もたらされる良い面について、ある大学の先生が、学生の方々との関わりを通して、こんなことをおっしゃっていました。

 

私が授業で学生に伝えているのは、「人が集まるとより大きなことができる」という基本です。組織の定義についてはいろんな見解があるでしょうが、極めてベーシックな意味合いとして、人が集まって情報を交わし、みんなの力を結集させれば一人では叶わないことができる。これは労働力の問題ではなく、さまざまな個性や専門性が結実すると、豊かなクリエイティビティが生まれるということです。

 

確かにそうですね。一人ではできないことも、人が集まると、いろいろなことができるようになっていきます。その時、集まった人の、それぞれの専門性、得意とすることなどが、お互いに用いられ、刺激されて、より良いものが生まれていくということでもありますし、単純に、お互いに協力し合えると、信頼関係が生まれ、より強い絆となっていきます。

 

その一方で、人が集まることで、悪い面も出てきます。それはお互いに合わないとか、意見の食い違いが出てきます。時には、嫌なことを言われたり、されたりして、傷ついたり、腹を立てたり、怒ったり、悲しい思いをすることもあるでしょう。そういう思いを持った人が集まり、ある力が働いてしまう時、悪いことに向かうこともあるのではないでしょうか?そして、それがより大きくなってしまうこともあるのではないでしょうか?

 

それは、イエスさまに向かって、石を投げて、打ち殺そうとしているユダヤ人たちも、そうです。というのは、彼らの中で、全員が最初から、イエスさまを、石で打ち殺そうとし、また石を取り上げたのかというと、石を取り上げた人もいれば、その石を取りのけよう、運び去ろうとして、その石を背負おうとしていた人もいたということが、「取り上げた」という言葉の意味ですから、彼らの中でも、全員が石を取り上げて、打ち殺そうとしているわけではないんです。でも、最終的には、お互いに相談したのか、誰か強い立場の人から、言われた通りに、みんなが従ったのか?そこには、いろいろあったと思いますが、いずれにしても、ユダヤ人たちの、その集団の中でのいろいろなことが関係し、重なり合った結果、イエスさまに向かって、石で打ち殺そうとして、「また石を取り上げた」ということではないでしょうか?

 

そんな彼らに、イエスさまは、石を投げてはダメだとか、打ち殺すな!と言って、頭ごなしに、否定して、押さえつけようとしているのではないんです。ただ「わたしは、父が与えて下さった多くの善い業をあなたたちに示した。」と、イエスさまは、自分が殺されそうになっているのに、その自分を殺そうとしている彼らに、神さまがしてくださった良い業に気づかせ、そのことをしてくださった神さまへと、目を向けさせようとしておられるのではないでしょうか?

 

そのために、彼らが、イエスさまの言葉を聞くことができるように、イエスさまとやり取りができるように、石を投げて、打ち殺すという行為に至らないように、イエスさまは、父なる神さまが与えて下さった多くの善い業の、「そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と、問いかけておられるのではないでしょうか?

 

大阪にある施設があります。この施設は、家庭のいろいろな事情で、生まれて間もないころから、引き取られて、集団生活をしながら、そこから学校に通い、自立していけるように、サポートするところです。そこでは子供たちと、職員の方々と、いろいろな出来事、やり取りがあります。最初は怒って、怒って、物を壊すわ、ガラスを割るわと、大暴れていた子が、職員の方々に、どうしたの?と、受け止められ、話を聞いてもらいながら、一緒に生活していくうちに、だんだん落ち着いて、自分の気持ちを少しずつ話すことができるようになっていくんです。それは、その子の中に、ここにいていいんだ!自分の恐れ、不安も、どうしたの?と聞いてくれる人がいる!分かろうとしてくれる人がいるんだ!と受け取れるようになっていくからこそ、この場所が、その子にとって安心できる場所となっていくんです。そしてようやく、ここで大切にされていると思えるようになっていくんです。そんな自分を大切にしてくれる人がいるからこそ、自分も大切にできるように、なっていきます。そして自分から何かしたい、何か人のためにできるのではないか?と思えるようになって、社会に出て行くんです。

 

もちろん、すぐにそうなるわけではありません。子どもたちは、それぞれに、親から引き離されたり、無視されたり、虐待を受けたりと、深い傷を負っています。一番信頼できる人から、裏切られたという経験が、深い影を落としていますから、時間がかかります。時には、ものすごい我儘が出ます。自分に振り向いてほしいから、物を壊したりといったことを、してしまいます。その行為そのものがいいとは決して言えません。しかし、そんなことをしてでも、私を私として、受け入れてほしい!受け止めてほしいと願っているんです。1人の子がこう言っていました。「物を壊したら、こっちを向いてくれる・・・何も起こさないと、振り向いてくれない・・・」そんな共同生活の中で、その子はその子なりの思い、気持ちを出しながら、そんな自分でも、受け止めてくれる相手がいるという経験を通して、信頼するということ、信じるということが、どういうことなのかを、学んで知っていくのです。

 

ユダヤ人たちが、イエスさまに対して、していることも、とんでもないことです。そんなことをしていいとは決して言えません。しかしその裏にあるものは、彼ら自身にある、私を受け入れてほしいという願いであり、自分がここにいていいのだろうか?受け入れてもらえないのではないだろうかという恐れであり、不安ではないでしょうか?それでも、イエスさまは、そんな彼らと向き合い、彼らが、どうしてイエスさまを、打ち殺そうとしているのかと問いかけながら、彼ら自身の思いと、彼らなりの理由を、イエスさまは聞いて受け止めようとしていくんです。

 

その結果ようやく彼らは、「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」と、イエスさまを殺そうとしている理由を言い始めることができるんです。彼らは神さまがしてくださった善い業は認めて、受け入れているんです。しかし、彼らは、イエスさまが、人間なのに、自分を神としていることを、受け入れられないんです。「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」そのことがあるから、イエスさまを、石で打ち殺そうとしているんです。

 

しかし、彼らが、なぜそうしようとしているのかという理由を言葉にできたというのは、凄く大きな一歩です。前進です。凄く、いい場面です。イエスさまは、それをしっかりと受け止めながら、「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。」と聖書の詩編の言葉を引用しながら、おっしゃられる中にある「神々」とは、あっちの神さま、こっちの神さまといった、神さまが複数おられるということではなくて、神さまが神さまの会議を主宰されるということなんです。そして、その会議で、神さまは、必要なことを決め、必要に応じて、必要なものを私たちに与えて下さるということなんです。

 

その神々を、イエスさまが、「神の言葉を受けた」ユダヤ人たちに「あなたたちは神々である」と、言われたのは、彼らが、神さまから預かったその権力を、神さまが託してくださった人々を守り、人々に仕えるためのものであるはずなのに、いつの間にか自分たちの手柄のように受け取り、自分たちの思い通りにしたいがために、お互いに、自分が神さまになったかのように思い込んで、お互いに相談している、その姿を、イエスさまはズバッと指摘しておられるんです。その結果、相談、会議の中で、自分自身の思いや考え方を封印してしまい、集団に流され、権力を振りかざし、乱用し、弱い立場にある人々を苦しめ、圧迫してしまうんです。

 

私たちはどうでしょうか?権力というのは少しオーバーな言い方かもしれませんが、私たちも、何らかの立場があります。その立場の中で、自分に託されたことが大なり小なりありますね。そしてそれを必要とし、使っています。例えば、車の運転もそうですね。そのための免許証がありますが、あれは自分から手に入れるものではなくて、「交付」されるものです。つまり、車の運転ができますよということを、認めて頂いているので、免許証が与えられ、運転ができるんです。その結果、荷物を運ぶのにも、どこかに出かけるにも、本当に助かりますし、そのために車の運転が用いられれば、素晴らしいことです。ところが、運転免許は与えられたものだということを、忘れてしまい、それがあるから、どんな運転をしても、どんなにスピードを出してもいいといったことになってしまうと、それは権力の乱用になってしまいます。そして、そういう思いでいる人が集まってしまうと、どんどんエスカレートして、自分で何でもできると思ってしまう皆で暴走してしまいます。

 

それが、自分で神さまになったかのように思い込んで、自分が何でもできると思ってしまうことの1つの姿なんです。そしてその集まり、集団の中では、自分の思いをはっきり言い通すことができなくなって、周りに流されてしまい、同じようにしなければならないという、目に見えない力に、負けてしまうこともあるのではないでしょうか?

 

だからこそイエスさまは、彼ら自身が、周りに流されるのではなくて、ユダヤ人たちが、1人の人として、自分なりに受け止め、自分なりに考え、イエスさまに向かって、生きようと自分なりに決めていく方向に導こうとされるのです。

 

水野源三さんの詩集の中に、こんな詩があります。

 

主の者とされたのだから

主の者とされたのだから どんなに小さなことでも まず主に祈り求めよ。

主の者とされたのだから どんな小さなことでも 祈ってから心決めよ。

主の者とされたのだから どんな小さなことでも 御心だけを行えよ。

主の者とされたのだから どんな小さなことでも 悪の誘いには乗るなよ。

主の者とされたのだから どんな小さなことでも み恵みと思いたたえよ。

 

どんな小さなことでも、周りの人々と一緒にすることであっても、その中での1人の私は、周りに流されるのではなくて、イエスさまに祈って、イエスさまと相談して、決めていく1人の私です。もちろん誰かに相談をすることもあるでしょう。それもまた必要なことでもあります。しかし、相談しながらも、最終的には、イエスさまと相談しながら、祈って決めることができた私と共に、イエスさまがいてくださるのです。

 

その姿が、この後、イエスさまのもとに来た多くの人がイエスさまを信じたこともそうでした。それは多くの人がお互いに相談して、イエスさまを信じたたわけではありません。多くの人の中にある、1人の人が、イエスさまを信じた結果、多くの人がイエスさまを信じたのです。

説教要旨(9月22日)