2024年9月8日礼拝説教要旨

その声を知っている(ヨハネ10:1~6)

 

含笑入地(がんしょうにゅうち)という言葉があります。「笑いを含んで地に入る」とも読まれますが、もともとは中国の故事から来ている言葉です。この意味は、笑いを含んで地に入るという意味で、なにも思い残すことなく、安らかに死んでいくこと、とのことですが、この言葉について、1つの感想と、そこから人は人生の中で、どれくらいの人に出会うのかという、統計が紹介されています。

 

思い残すことなく安らかに死んでいくというのは、まさに理想だ。後悔なく生きることは本当に大切だと思う。いつ死んでもいいというと極端な表現に聞こえるかもしれないが、人生において唯一の、誰もが必ず死ぬということで、それはいつ訪れるかわからない。だから、ベタな表現であることは百も承知だが、一度しかない人生を後悔ないように生きることだ。一生は長いようだが短く、その時間は限られていて、その中で一体どのくらいの人と出会うのだろうか。そんなことを考えたことあるだろうか?

 

一生に出会う人の数。この疑問については、1つの有名な通説があるのをご存知だろうか。人生でなんらかの接点を持つ人は、30,000人。学校や仕事を通じて近い関係になる人は、3,000人。親しい会話ができる人は、300人。友達と呼べる人は、30人。親友と呼べる人は、3人。

 

とありましたが、これは1つの通説であっても、あながち外れてはいないようにも思います。友達は30人、親友は3人というのも、何となくしっくりくるようにも思います。そしてこの数字から見て取れることは、親しい会話ができる人や、友達や、親友にはなれなかった、それ以外の、多くの人々がいるということです。いろいろな理由があると思います。何となく、自然に関係が切れてしまったものもあるでしょうし、出会ったけれども、合わなかったとか、自分にとって、嫌なことをされたとか、言われたとか、あるいは裏切られたり、ひどいものには傷つけられたりといった、いろいろなことで、受け入れられず、赦せないという出会いも、あったのではないでしょうか?そういう意味で、私たちは、すべての人と親しくなれるわけではなくて、どうしても絞られてきますし、それもまた自然なことだと思います。そんな切れたり、切ったりする関係、繋がり続ける関係には、お互いの相性だけではなくて、お互いに、何をしてくれたか、何をしてくれなかったということが、深く関係しているのではないでしょうか?

 

それは、イエスさまが、ここでおっしゃられる盗人、強盗、羊飼い、門番、といった人と、羊の関係にも現れています。というのは、盗人や、強盗は、羊を襲い、羊を傷つけ、羊の命を奪おうとするからです。反対に、羊飼いは、羊を守ってくれる存在ですし、餌のあるところに導いてくださり、また休ませてくださり、危ない所に行かないように、いつも見守ってくれます。その羊飼いが、羊が住む羊の囲いの門から入ろうとする時、門番は、その門を開いてくれるからこそ、羊飼いは羊のところに行くことができます。しかも、この開くという、この言葉は、イエスさまが洗礼を受けたその時、天が開いて、あなたは私の愛する子と、神さまからの声が聞こえた時の、開くという言葉と同じ言葉が使われているんです。つまり、門番が、門を開き、羊飼いが、羊のいるところに来ることができたその時、神さまが、羊のいるところに来てくださり、イエスさまに語られた、あなたはわたしの愛する子だという、神さまからの恵みの言葉が、羊たちにも届けられていくんです。

 

そういう羊だから、羊飼いは「自分の羊の名」羊の名前「を呼んで連れ出」し、「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」ということになるんです。それは、この羊飼いが、羊を一匹も漏れずに、取り残されることなく連れて行ってくれる、導いてくれる、ということですから、羊にとって、自分の名前まで呼んでくれた羊飼いが、一緒にいてくれる!ということになります。それは、すごく安心できることではないでしょうか?そしてこの羊飼いの言う通りにすれば、大丈夫だということが与えられていくのではないでしょうか?

 

それは羊の習性と言いますが、動き方にも、関係しています。具体的には、羊は、耳がいいのですが、その反面、目はどうかというと、確かに広い視野を見ることは、できるのですが、立体感覚、距離感はなかなかつかむことができないでいます。そしてその動き方も、単独行動ではなくて、群れる習性です。だから、逃げる時も、単独で逃げるのではなくて、一群となって逃げ回ります。また羊同士の喧嘩にも特徴があります。羊と羊が喧嘩をする時には、お互いの頭をぶつけあって喧嘩しますが、その時、お互いに、後ずさりして、一定の距離を置いて、それから、せーの!で互いに突進して、頭突きです。さらには羊の死に際、すなわち屠られるその時には、抵抗することなく、逆らわずに、その道を自ら進んでいくんです。つまり、羊は、自分自身で、辺りを見回して、考えて、行動するということがなかなか難しいと言いますか、出来ないからこそ、羊飼いといった導き手に、生まれてから、死ぬまで、導いていただかないと、生きることができないということでもあるんです。

 

そんな羊と、羊飼いとの関係と、盗人といった関係、羊飼いと門番との関係、そこで起こるいろんなことは、私たちにも通じることではないでしょうか?

 

今年、小澤征爾さんが亡くなられましたが、そのお父さんである小澤開作さんの生涯を描いた本が、「満州ラプソディ」という本になっています。その開作さんの生涯にはいろいろなエピソードがありますが、その1つに、奥さんの、さくらさんが、こんなことをおっしゃっていました。「主人はね~ある時、知り合いの借金の保証人なってしまって、結局、その人の借金を全部肩代わりしなきゃならなくなったのね~それで持っていたお金が全部なくなってしまったんだけれど、主人は、その人に対して、何にも文句の一つも言わなかった・・・」そんなさくらさんが、中国の北京に住んでいた時、近くにあった教会に通われ、また小澤征爾さんはじめ、息子さん4人を、日曜学校に連れていかれていたこと、そこで歌った讃美歌を、家で、子どもたちと一緒に歌ったということが、亡くなられた小澤征爾さんの、音楽家としての原点であったことを思う時、讃美歌の持つ力と言いますか、その影響は計り知れないものがあると思います。後年、讃美歌の1つ「慈しみ深き」は、おふくろの讃美歌とおっしゃっていたことが印象に残っていますが、そういうお一人の生涯の中でも、お金を取られてしまったり、だまされたり、裏切られたりということが、あったということは、それはその一人の方のことだけではなくて、一般的にも、また私たちにもあることです。

 

そういう意味で、羊を盗もうとし、羊を襲おうとする盗人、強盗は、羊にとっても、大きな脅威ですし、それを取られてしまう、羊飼いにとっても、これは大変な痛手ですし、大切な自分の羊に、そんなことをする盗人や、強盗を、赦すことができません。

 

ところが、この羊飼いは、羊を盗み、羊に危害を与えようとする、盗人や強盗に立ち向かおうとはしていないんです。ただ門番に門を開けてもらい、門から入って来た羊飼いのその「声を」羊は、「聞き分け」て、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れだす。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」んです。それは盗人や、強盗の存在を無視しているということではなくて、いろいろな関係がある中で、それにとらわれずに、ただ、その囲いの中にいる、自分の羊の名前を呼んで、すべてを連れ、導き出すということ、そして1匹残らず、見捨てることなく、すべて連れ出すと、「先頭に立って行く」ということにのみ、集中していくんです。

 

そしてそれについて行く羊も、羊飼いの、その「声を知っている」というだけではなくて、自分たちの羊飼いが、自分たちを守り、導き、そして先頭に立っていて下さるということも、知っているということではないでしょうか?そのために、羊飼いは、羊に声を掛け、名前を呼び、羊はその声に応え、羊飼いの声を聞き分け、「ほかの者には決してついて行かず」とある通り、自分の羊飼い以外の者には、決してついて行かないんです。

 

そして「しかしほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」と続きますが、この言葉は、2つの文章に分けられるのと、「しかし」は、1回だけではなくて、実は、2回あるんです。具体的には「しかし、ほかの者には決してついて」行かない、ということと、それに続いて、1回目の「しかし」よりも、さらに強い言葉で、「しかし」があり、「彼から羊たちは逃げ去る、逃れる、免れる」という言葉なんです。ということは、羊たちは、羊飼い以外のほかの者には決してついて行かないということをしながらも、同じ、ほかの者から、逃げ去るというのではなくて、羊が必ず逃げ去るという、その彼は、羊飼いのことなんです。

 

これは一体どういうことでしょうか?羊たちは、羊飼いに守られ、導かれているんです。そして羊飼いに支えられながら、先頭に立って進まれる羊飼いについて行くと言いながらも、どうして、逃げ去るのでしょうか?しかも、未来において、必ず逃げ去ることが、必ず起きるという意味で、逃げ去ると、イエスさまがおっしゃられるのは、イエスさまご自身から、イエスさまに導かれ、イエスさまの声を聞き分けたはずの羊であるはずなのに、そこから逃げ去っていくという羊がいるという事実を、おっしゃっておられるからではないでしょうか?そのことが、同じヨハネによる福音書の中で、イエスさまが大祭司のもとに連行され、捕らえられ、縛られ、裁判を受けていかれる時、イエスさまの弟子たちが、イエスさまのもとから逃げ去ったということに繋がるんです。

 

弟子たちは、イエスさまの声を知り、イエスさまの声を聞き分け、先頭に立って行かれるイエスさまに従っていった弟子です。それなのに、イエスさまにとって、最もそばにいてほしい時に、イエスさまが一番支えてほしい時だったのに、イエスさまから、逃げ去ったんです。それは、弟子たちだけではありません。イエスさまを十字架につけるという判断を下す時に、ピラトと言う人は、イエスさまが何も悪いことをしていないこと、十字架につける罪は犯していないということを、知りながらも、十字架につけよという、群衆の声に、従ってしまったんです。そしてその群衆も、イエスさまの声に従いながらも、バラバを釈放せよという、その声に、従ってしまったんです。そのどちらもが、イエスさまから離れ、イエスさまのことで責任を負うということから、逃げ去った姿なんです。ここにも人間の弱さが見えてきますね。その結果、何度も立ち止まることができた機会があったにもかかわらず、イエスさまが十字架につけられることになり、そこに十字架が建てられていくんです。それでもなお、神さまは私たちを見捨てることなく、私たち人間の過ちをそのまま十字架において、イエスさまが引き受けて下さいました。それだけではありません。イエスさまは、そんな私たちと共に歩むことを、止めないんです。赦し続け、歩み続けて下さっているんです。

 

「もうひとことだけ」という本があります。この本は、病を得られ、入院中に書き、また病室で語られた辻宣道先生の最後の著書です。その時々に、先生から、聞いた、ご家族によっても書き留められているものです。その中で、召される少し前にこんな言葉が書き留められていました。

 

以前、「付き添い」という言葉に抵抗があった。何か弱弱しく甘ったれで、迷惑を顧みぬニュアンスがあったからだ。それは、ぼくが健康な時、自信にあふれていたからだ。しかし、病気になってガラリとそれは変わった。付き添いは弱虫の泣き言ではなかったのだ。つまりこうだ。病人は基本的には孤独を好まないのだ。いつも人格的な存在が身近にあることで、安らぎを得る。だから、夜のしじまのさなかに、また、その夜明け寸前に、誰もいない病床にひとりいることを知り、愕然とするのだ。

信仰者の場合「神、共にいます」と知り、そこで希望が湧いてくる。もし「神、共にいまさざる生活」がその人の全てだとしたら、夜のしじまをどのように過ごすのか。そこに家族(ファミリー)の存在の意味があるのだ。神もなく、人の交わりも存在せぬような荒涼たる砂漠の中で、その生涯を終わるとしたら、人は悲惨である。ぼくは家族の愛に包まれ、兄弟、子どもたち、そういう教会員から支えられてこの闘病の日々を過ごしている。だから言いたいのだ。神と共にある生活、愛し合っていく生活、それが大事であり、貴重であることを。

 

神、共にいます。それが羊飼いであるイエスさまが、私たちに与え、して下さったことです。そのお方は、羊の敵に立ち向かおうとするのではなく、ただ羊と共にいてくださるんです。たとい、羊が、羊飼いであるイエスさまに対して、どんなにひどいことをしたとしても、どんなに知っていても、聞き分けようとしていなかったとしても、それでも、このお方は、共に、生涯歩み続けてくださるんです。ずっと一緒にいてくださるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月9日)