2024年9月1日礼拝 説教要旨

本当に自由になる(ヨハネ8:31~36)

松田聖一牧師

 

青森県に八戸という町があります。その町のある小学校の校長先生が、入学式に際して、次の詩を紹介しながら、こうおっしゃっておられました。

 

育てるとは 信じ続けること

「一生涯つきあうつもりで 信じ続ける気持ちが伝わったとき 相手はこちらの話を聞き始める 人は 自分を受け入れてくれる人の話しか 聞かない 人を育てるとは どこまで相手を受け入れることができるかという こちらの覚悟が 問われるもの 相手が話を聞かないとき それでも 相手を受け入れることができるかどうか それは自分が 試されていると」

 

信じている。口でそう言うのは簡単なことです。でも,それが本当に結実するかどうかは、言ったこちら側ではなく、実は相手に委ねられている。そして、本当に大事なのは,「信じること」ではない、「信じ“続ける”こと」であり,それには生半可な気持ちではない覚悟や信念が求められる。 …… 思わず襟を正したくなるような、言葉の力といったものが伝わってきます。

 

信じ続ける事、それは難しいことですね。それは人に対してだけではなくて、どんなことに対してもそうです。なぜなら、信じていると言いながら、信じられない時があり、信じているつもりでも、信じている、その信頼、あるいは信仰は、弱くて小さなものだということに、気づかれるからです。でもそれは、信じられないでいるということがダメということではなくて、一度信じたこと、信じているということがあるからこそ、その信じるという歩みの中で、あるいは信じ続けようとする歩みの中で、信じられないこと、信じるということの難しさ、その通りにできない弱さというものを、味わっている、ということではないでしょうか?

 

それはイエスさまを「信じたユダヤ人たち」も、そうです。というのは、信じた、というのは、過去において、信じた、とか、信じたことが過去のことで終わっている、という意味ではなくて、イエスさまを、神さまとして、救い主として信じるということが完了、完成したということが、続いているということなんです。しかも、この信じたというのは、彼ら、が、信じたということではなくて、イエスさまを信じるということを、イエスさまが、彼らに与え、彼らに任せ、彼らに委託したということが完了し、それが続いているということなんです。その信じるということを、イエスさまから受け取ったので、彼らは、信じたということなんです。

 

私たちが、イエスさまを信じるということもそうです。イエスさまが神さまだということを信じたのは、それはイエスさまから、その信仰が与えられ、それを受け取ることができたからです。つまり、それは、イエスさまから贈られた、イエスさまを信じるという贈り物と言ってもいいのかもしれません。贈り物、プレゼントを贈っていただいた時、どんな気持ちになるでしょうか?

 

神学校を卒業して初めてのクリスマスのことでした。その時、ノルウェーからクリスマスカードが届きました。グードイ先生という方からのものでした。中国で宣教師として働かれていましたが、中国の共産党革命により、宣教師は国外退去を命じられたために、そこに留まることができず、やむなく日本に宣教師として来られた方でした。その当時、80歳を超えておられましたが、クリスマスカードを送ってくださったのでした。その時、私は、しまった!と思いました。こちらからクリスマスカードをお送りすることを忘れていた!それで慌てて、ノルウェーにお送りしたことでしたが、ポストに投函し、やれやれ送ることができたと思っておりましたら、丁度その日の夜、その先生が、急に天に召されたという知らせが届きました。そして受け取った時には、そのクリスマスカードは、天国からの手紙となっていました。

 

そこには、新しい教会での働きのために祈っていますよというメッセージに続いて、こんな言葉がありました。「私たちは、心が騒ぎ、弱さを覚える時があります。しかし、神さまは、私たちに新しい力と、神さまのために働き続けられるように、勇気を与えて下さいます。」神さまは、心が騒ぎ、弱さを覚える時があっても、新しい力と、勇気を与えて下さる、その勇気を、神さまから与えて頂いたような思いでした。

 

それが贈り物ですね。だからたとい、私たちにとって、信じたということが続いていく中で、信じられなくなること、信じるということが揺れ動くこと、イエスさまを信じるということから離れそうになってしまうこともあるでしょう。しかし、イエスさまは、そうなることを、分かっておられる上で、イエスさまを信頼すれば大丈夫だという信仰を、贈り物として、私たちに与えて下さっています。その贈り物を、私たちは、イエスさまから、ただ受け取ったらいいんです。そして、受け取ったその時、贈り物を下さった、イエスさまが、その贈り物と共にあるんです。だから、私はいつもそこに共にいるという、プレゼントになっているんです。

 

そのために、「わたしの言葉にとどまる」こと、すなわちイエスさまの命の言葉に住むこと、イエスさまの命そのものと、共に生活し、共に生きることを与えておられるんです。

 

共に生活し、共に生きるということ、それは素晴らしいことですし、言葉としても、いい言葉ですね。そのことを、イエスさまの言葉との関係だけではなくて、言葉を持ち、言葉を使って、コミュニケーションを取る、人と人との関係に置き換えてみた時、それは人と人とが、24時間、365日共同生活をすることになります。じゃあそれも、素晴らしいことであり、いいことだ!と100%言い切れるものなのかというと、共同生活をするという時には、色々お互いに出て来るのではないでしょうか?

 

ある時に、研修で、福島県にある教会を10人くらいの先生方とお訪ねしたことがありました。まだ東日本大震災が起こる前のことです。その時、福島原発のすぐ近くにある教会に、宿泊させていただきながら、福島県の海沿いの町々、村々におられる教会員の方を訪ねました。家庭集会を開き、教会を守り続けておられる方々との出会いがありました。あるご家庭では、家にあるプレハブで、教会学校を開いておられました。その方が、教会学校の案内を配った時、大根がこちらに飛んできた!と、嬉しそうにおっしゃりながら、いろいろなことがあっても、それでもイエスさまを伝えたい、この素晴らしい福音を1人でもお伝えしたいという熱い思いに、心打たれたことでした。そんな中で、夜、同じ研修に参加された先生と、同じ部屋で寝泊まりすることにました。その初日のことです。ご一緒の部屋になったその先生は、ふらふらと、その部屋から出て行かれるんです。その時、扉を開けたままでした。それで扉を閉めるんです。ところが、戻って来られた時も、またその扉を開けたままです。開けっ放しということを全く気にされない様子でした。私は、扉を閉めたいなと思いましたので、その度に閉めるのですが、また部屋から出て行かれると、扉は開けたままです。それでまた閉める、帰って来られても、また開けたまま、また閉める、そんなことを繰り返すうちに、「なんで扉を閉めないのだろう?閉めるのが当然じゃないか?」と思いましたが、ふと、扉をしめずに開けっ放しが、当然と思っておられるんだということに気づいた時、こういう方もいるんだという出会いがありました。でもそれは3日間という短い間だったので、冷静に受け止められたのかもしれません。これが、毎日、365日ずっと続いたら、どうなっていただろうか?と想像します。

 

つまり、共に生活するということは、お互いに全く違うものを持っている人間同士が生活するということです。ですからその時、動き方から、考え方から、感覚も含めて、お互いに大いに違うということに、気づく生活ではないでしょうか?そういう意味で、お互いに違う者同士が一緒に住むということは、なかなか大変と言いますか、難しいことです。

 

イエスさまの言葉に留まるということも、そうです。イエスさまの言葉と共に住む時、自分の思い、考えと、イエスさまの言葉との違いに、向き合わされるんです。その時、なるほど分かりましたと、受け入れられることもあるでしょうし、反対に、受けいれられず、信じられないと、イエスさまの言葉から離れてしまうこともあるのではないでしょうか?

 

だからユダヤ人たちも、イエスさまの「真理はあなたたちを自由にする」という言葉に、反発するんです。「わたしたちはアブラハムの子孫で。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と、私たちは自由だ、誰かの奴隷になったことはないと、イエスさまに反発するんです。でもそれができるということは、反発する、彼らのその言葉を、また反発する彼ら自身をも、そのままイエスさまが受け取ってくださっているからではないでしょうか?だからこそ、彼らは、本当の思いを、自由にのびのびと言葉にできたのではないでしょうか?それは彼らのまっすぐな姿ではなくて、曲がった姿、ひねくれた姿であると言ってもいいでしょう。しかし、その姿も、本当に自由になれた姿ではないでしょうか?そして、そういうひねくれた彼らであっても、そのままをイエスさまに、受け取っていただいた彼らは、自分たちが、今まで誰かの奴隷になったことはありませんと思っている、そういう自分自身であったということに、出会えているということではないでしょうか?

 

それがイエスさまのおっしゃられた「真理はあなたたちを自由にする」ということなんです。つまり、その真理は、真理に対して、真理であるイエスさまに対して、わたしが私であることに、わたしが出会える真理なんです。その時、まっすぐな私だけに、出会えたということではありません。まがった私、ひねくれた私かもしれません。素直になれない私であるかもしれません。イエスさまを信じたけれども、信じ続けることができないでいる私であるかもしれません。イエスさまから離れようとした、イエスさまから外れてしまうこともある、罪を犯す者であり、そしてそれは罪の奴隷となっている私のことかもしれません。

 

そういうことをイエスさまは受け入れて、受け取って下さっているからこそ、本当のわたしに出会ってくださった、イエスさまと共に、イエスさまの言葉と共に、命の言葉、いのちそのものであるイエスさまと共に、住み生活するようになっているんです。

 

川は曲がりながら という詩があります。

 

私は曲がっているのが好きだ。曲がっている方がいい。そこには優しさがあるから。川は曲がりながら大海に至る。あの村、この里をうるおしながら、まっすぐだったら洪水になる。真理だってまっすぐじゃない。曲がりくねって1つの出来事になるのだ。

 

まっすぐではないのは、川だけではありません。人もまっすぐではありません。曲がっています。でも曲がっている方がいいと、曲がりくねっている方がいいと、イエスさまは、認めて、受け入れて下さっています。なぜならば、曲がっているからこそ、その曲がったところで、多くの出会いがあり、その出会いを通して、曲がっている自分自身がそのままで受け入れられ、赦されている真理に、出会っていくのです。その時、曲がっていることをも、赦し、受け入れられた、わたしが、イエスさまの前にいるのです。

説教要旨(9月1日)