2024年8月25日礼拝 説教要旨
わたしは世の光である(ヨハネ8:12~20)
松田聖一牧師
先日、届いたばかりの郵便を取ろうとして、ポストをあけようとした途端、ハチがわっと襲い掛かってきて、あっという間に、ハチに刺されてしまいました。丁度ポストの真下に、ハチが巣を作っていまして、そのことに、全然気づかずにいました。でもハチは、私が、巣を襲いに来たと、どうも思ったようです。幸い、すぐにいろいろと手立てができましたので、何ごともありませんでしたのと、1つ良かったと思うことは、ハチに刺される前は、体がだるかったのですが、刺された後は、体がだるくなくなり、不思議としゃんとすることができました。ですので、それはそれで、ハチに刺されてもいいこともあるものだと、思いました。そんなハチですが、何もないのに、こちらに向かって来るわけではありません。何もなければ、静かにじっと、ハチの巣を作っています。でもハチにとって、ひとたび何かあった時には、あるいは何かあったと、ハチが感じた時には、あっという間に、一斉に向かって来るんです。ただですね、その時の、ハチの動きを見ると、まっすぐに向かって来るハチだけではなくて、飛ぶ方向が、微妙に右や左に向きを変えながら、向かって来るハチもいて、いろいろな飛び方していたことでした。
こういう動きというのは、ハチだけではなくて、人間も同じですね。というのは、私たちにとっても、何もない時は、まっすぐに、ぶれずに1つのことができていても、何事かが起きた時には、慌ててしまい、1つのことが手に着かなくなってしまうこともあるのではないでしょうか?そして、何が何だかよくわからないままに、右や左に揺れ動きながら、歩き回ったり、時には、とんでもない行動に走ったりすることがあるのではないでしょうか?
それはイエスさまがおっしゃられた「暗闇の中を歩かず」という時の、歩く歩き方に繋がります。というのは、この「歩かず」という言葉の意味は、いつも同じ場所にいるわけではなくて、また右往左往することがある歩き方をしない、歩かない、と、1つの生き方をせず、あるいは1つの歩き方、1つの行動をしない、という、お互いに正反対のものが、この歩かずにはあるのです。
そういうことが、同時にできるのかというと、揺らぐことなくまっすぐに歩く歩き方と、1つの生き方、歩き方をしないということは、お互いに反対のことですから、それは、できません。では、どういうことなのかというと、右往左往しない、まっすぐな時と、1つの生き方、1つの行動をしないで、ふらふらと揺れ
動いている時があるということではないでしょうか?それはまた1つの生き方、1つの行動に向かっていても、その中で右往左往することもあるということです。そして、そのことが、どんな時に起こるかというと、明るい光の中でではなくて、暗闇の中で起こるのです。
ではその暗闇とは、最初から真っ暗なのかというと、必ずしもそうではありません。
というのは、例えば、空に浮かぶ雲を見て見ましょう。空を見ると、白い雲と、黒い雲がありますが、白い雲は最初から白で、黒い雲は、最初から黒なのかというと、そうではなくて、雲はもともと無色透明です。なぜかというと、雲は空中に漂っている水滴や氷の細かい粒からできているからです。ではなぜその雲が、白くなったり、黒くなったりするのかというと、その水や氷の細かい粒に光が当たるので、いろんな方向に光を屈折・反射させるからです。そのために、光をまっすぐ通さなくなりますから、奥にあるものを隠してしまいます。それによって、白い雲は太陽の光が当たっている明るい場所の雲、黒い雲は太陽の光があまり当たらない暗いところにある雲ということになり、白い雲と黒い雲があるわけです。
ということは、黒い雲が最初からあるのではなくて、水と氷が、多くあればあるほど、その雲の中で、太陽の光が、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、乱れ乱れて、反射してしまって、その結果、光を通さなくなるので、ますます暗くなり、黒くなるのです。暗闇が暗闇になるということも、もそうです。最初から暗闇なのではなくて、光が届かなくなってしまうので、暗闇になっていくのです。
これと同じことは、私たちの身近なところにもありますね。光が入らない部屋とか空間、トンネルのようなところに入った時、最初は明るくても次第に、真っ暗になります。また私たちの心も、そうです。最初は心を開いていても、心を閉ざしてしまうような時、それは、私たちにとって、希望がない、絶望しかない時かもしれません。これから一体どうなっていくのだろう?これからやっていけるのだろうか?という不安と、恐れで心がいっぱいになるというのは、必ずしも、最初からそうなっているのではなくて、最初は、何とかなるのではないか?といった期待とか、希望的観測があるのではないでしょうか?しかし、それもやがてなくなってしまうと、もうだめだと諦めてしまう者です。その結果、真っ暗になっていくのではないでしょうか?
しかし、イエスさまは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず」すなわち「わたしに従うあなたは暗闇の中を歩かず」とおっしゃられるのは、暗闇の中を右往左往することはない、のではなくて、どんなに暗闇の中にあったとしても、暗闇の中を右往左往していても、それでも、イエスさまは、あなたは、イエスさまに従う者だからこそ、暗闇の中を、決して歩かないあなたにしてくださるということなのです。
そしてその暗闇の中で、命の光を与えて下さるイエスさまは、わたしたちを、「命の光を持つ」者、命の光を持つ、1つの生き方ができるように、その暗闇の中から、光であるイエスさまのもとへと、光であるイエスさまによって、生きる者としてくださるのです。
今、いかがでしょうか?暗闇の中を歩いているかのように、光の中を歩いていないように思っておられるかもしれません。その中で、右往左往しているかもしれません。不安の中にあるかもしれません。しかしだからこそ、イエスさまは、命の光を与えておられます。命の光を必ず持つのです。
そのことを、ファリサイ派の人々は、「その証しは真実ではない」と言いながらも、イエスさまを語っていくのです。「あなたは自分について証しをしている。」すなわち、イエスさまが世の光であることを、イエスさまが証言していると答えていくんです。そして「その証しは真実ではない。」と続きますが、イエスさまが、いろいろおっしゃっていることに対して、真実ではないと言いながらも、イエスさまがおっしゃっていることを、間違っているとは言っていません。間違いだ、違うではなくて、真実ではないと言っているのです。それは、真実ではないと言いながらも、逆に、彼らが真実と言うことで、イエスさまが真実であることを、認めている言葉になっているのではないでしょうか?でも、イエスさまを真実とは認めるわけにはいかないので、真実ではないと答えているのではないでしょうか?
それはなぜかというと、ファリサイ派の人々は、律法を守るという、その自分の生き方で、右往左往することなく、1つの生き方を生きようとしていたからです。彼らの生きる根拠は、自分で、なんです。自分で、律法を守ることで、自分で、暗闇の中を歩かず生きようとしているのです。だからイエスさまが、「わたしに従う者は」と言われたことは、自分で、生きようとしている彼らにとっては、自分で、生きようとしていたこと、そう生きてきたことが、壊されるのではないかという不安と、恐れとなっていくのではないでしょうか?
もちろん、自分で生きてきたこと、自分の力で生きてきたことは、確かにその通りです。それは私たちもそうですよね。自分で生きてきたんです。その中には、自分がこれまでやって来た、積み上げてきた実績とか、やってきた~というものが、自分を支えていることもあると思います。
オリンピックなどで、よく言われる言葉に、「自分を信じて」がありますね。「自分を信じて」やったらいい!とか、自分を信じて・・・と奮い立たせる言葉です。励ましの言葉でもあると思います。が、自分を信じるということは、少し冷静になってみると、これほど、信じられないものもないですね。自分を信じて生きようとすれば、自分がどんなに間違っても、それでも、そういう間違った自分を信じていくということですから、それは結果として、ますます間違った方向に進んでしまいます。道に迷った自分を信じ続けることもそうです。
この頃はようやく道に迷わなくなりましたが、最初の頃は、飯田に行くと、必ず迷いました。それでも、きっとこっちだと思って、車を走らせても、違うんです。なかなか目的地に辿り着かないことを経て、ようやくスムーズにいけるようになったと思います。ただ、まだ少し自信がないのは、飯田吾妻町教会に行く時です。飯田馬場町教会に行く道と違う通りになりますから、間違えないようにしていても、間違ってしまうことがあります。そういう間違った道を通っている自分を、自分を信じて!で、そのまま走ってしまうと、どうなるでしょうか?ますます迷いこんでいきますよね。
イエスさまは、そういう生き方、自分で、自分の力で、自分を信じて生きようとしているその姿を、分かっておられるのです。だから、ファリサイ派の人々の「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」という判断も、「あなたたちは肉に」自分に従って判断している姿も、その結果、「わたしもわたしの父も知らない」わかっていないというそれらの判断も、全部、自分で判断しているということをも、分かっておられるのです。それでも、イエスさまは、「もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」、すなわち、あなたたちは私を知っているのだから、わたしの父をも、神さまをも知るはずだと、おっしゃられるのは、そんな彼らであっても、すでに、彼らを赦しておられるんです。だからイエスさまは、「わたしはだれをも裁かない」すなわち、わたしは誰をも赦しますということを、イエスさまの方から、宣言してくださるのです。
そのために、イエスさまは、イエスさまは、十字架の上で「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているか、知らないのです」と、イエスさまの弟子たちも含めて、彼らがイエスさまを知らないでいたことを、赦して下さいと、赦すために、祈られたのです。そしてその赦しが、十字架の上で、成し遂げられたことが、イエスさまの、世の光として、輝いておられる、イエスさまの証しなんです。
イエスさまを、神さまを知らない、分からないということは、このファリサイ派のことだけではなくて、誰もがそうですね。イエスさまは神さまですから、そのイエスさまのことを、私たちが、全部分かるはずはありません。私たちの頭で、考えで、あるいは知識で分かる、自分で判断できるお方は、人間の頭に収まるお方となってしまいますから、それは神さまではありません。だからこそ、知らないということ、分からないということも、真実です。分からないという判断は、その通りです。しかし、イエスさまは、私たちが、分からなくても、何も知らなくても、それでも、あなたはわたしに従う者だ、あなたは私を知っているのだからと、分からないでいる私たちと共に、歩きながら、あなたは知っているのだから、と語り続けておられるのです。
ある訪問看護師の方が、不登校の子供たちと向き合っての働きをされています。その彼女が、17年前、児童思春期を対象とした精神科病棟で、看護師として勤務していた時、入院しておられた18歳の少女が、いました。彼女は、週末に外泊したり、自宅で家族と過ごしたり、友達とも穏やかに過ごしていましたが、主治医の先生以外に、自分の気持ち、あるがままの自分を表現できないでいました。そんなある日、彼女はナースステーションの近くで、何かを話したそうに立っていました。その時、看護師の方は、まだその分野での経験が浅かったために、「不意に話した言葉が相手を傷つけてしまったらどうしよう」と不安を抱きながらも、勇気を出して声を掛けてみました。すると、少女は、戸惑いながらもこう話してくれました。「今、とてもつらい気持ち」と。その場では、それ以上の会話はありませんでしたが、その日を境に少しずつ、この少女と話をするようになりました。その時、看護師の方は、自分の気持ちをこう伝えたのでした。
「あなたの気持ちを全て理解できるとは言えないけど、でも、あなたの話を聞いて、一緒に考えていきたい・・・」その時、少女は、自分の辛い気持ちを話してくれるようになりました。
イエスさまのこと、イエスさまの気持ちも含めて、イエスさまのことを全て理
解できるとは誰も言えません。でも、イエスさまは、私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つと、語り続けておられます。その言葉を聞いて、一緒に考えていくこと、一緒に歩き続けることは、どんな私たちであっても、それはできる事ではないでしょうか?すべてを知ろうとしなくてもいいのです。すべてを分かろうとしなくても、分からなければならないと思わなくてもいいのです。ただ、それでもあなたはわたしに従う者だと、語り続けてくださる、イエスさまの後姿を見ながら、イエスさまの後ろからただついていけばいいのです。