2024年8月18日礼拝 説教要旨

守られるために(ヨハネ8:1~11)

松田聖一牧師

 

終戦末期、中国東北部に住んでいた開拓団の方々は、ソビエトが攻めてきた時、命からがら逃げなければならなくなりました。その逃避行の中で、自分たちが助かるためにとった1つの方法がありました。それは、兵士たちに、自分たちの護衛をしてもらうために、開拓団の中から、若い女性を、差し出して、その兵隊との相手をさせる、ということでした。そして彼女たちは、人身御供のように、差し出され、想像を絶する苦しみを味わいました。その結果、彼女たちも含めて、そこから逃れることができ、無事に帰国できたのですが、彼女たちの、その時の精神的な苦しみは、ずっと癒えることはありませんでした。村の人にも、家族にも言えない、苦しみをずっと抱え続けていました。やむなく故郷を離れることになってしまうのですが、80年近く経って、その過去の出来事をようやく語り始められるのは、人生も終わりに近づき、今語っておかなければ・・・という思いに突き動かされてのことだったと思います。そして、戦争は、男性であれ、女性であれ、誰をも否応なしに巻き込んでしまうこと、そこには勝ち負けはないということ、多くのものを壊し、人を壊し、その人の人生を狂わせてしまうものであるということを、次の世代に何とかして伝えようとしておられるのだと思います。

 

その中で、こうおっしゃっていました。「同じ戦争でも、上の人は犠牲にならない。戦争すれば、女性が犠牲になる。兵隊さんには女性がつきものでしょ。泣かされるものは女性だから。・・・ふるさとでは満州帰りの汚れた女。だれももらってくれん。病気にもなりました。でも主人は同じ満州帰りだったから、わたしをここに迎えて下さった・・・」

 

律法学者たちやファリサイ派が、イエスさまのところに、連れてこられたこの女性も、同じところに立たされていたのではないでしょうか?というのは、この彼女について、姦通の現場と訳されているこの言葉には、人妻に姦淫が犯されるという意味でもあるからです。ということは、彼女は、もうすでに結婚され、ご主人がいるのに、そういう現場になったというのは、彼女自身からではなくて、誰か別の男性によってです。だから、彼女が捕らえられた、その現場には、当然一緒に男性がいたはずです。しかし、連れて来られたのは、一人の、この女性だけです。男性は、ここにはいないんです。男性は彼女を見捨てて、どこかに、逃げて行ってしまったのでしょうか?あるいは、彼女は捕まえたけれども、男性は見逃したということなのでしょうか?いずれにしても、この男性は、捕まることなく、女性だけが、その現場で取り押さえられ、連れて来られ、民衆の「真ん中に立たせ」られるんです。

 

真ん中に立たせられたということは、公衆の面前です。公開の場です。そんな人目にさらされた中で、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と、律法学者、ファリサイ派の人々が、イエスさまに尋ねるのです。

 

ここでイエスさまに「あなたはどうお考えになりますか」という問いと、その問いの内容について、確認しましょう。

 

まずは、イエスさまに対して、「あなたはどうお考えになりますか」は、詳しく見ると、あなたは何と言いますか、です。つまり、イエスさまの頭の中で、考えるだけで終わりではなくて、イエスさまの口から、言ってほしいという問いです。そして、この問いの内容は、姦淫を犯した女性は石で打ち殺せと、旧約聖書のレビ記というところで、神さまがモーセを通して命じておられる律法を、彼女が破ったということですが、そもそも、神さまが与えた律法の目的は、女性の立場、女性の命を守るためです。石打の処刑にするということが目的ではないんです。命を守るために、そしてその家族を守るために、神さまがモーセに与え、十戒として、与えられたものなんです。ところが、律法学者、ファリサイ派の人々は、神さまから与えられた、律法の本来の目的から外れて、この律法を、彼女を処刑するための根拠に変えてしまっているんです。

 

であれば、彼らは、律法学者であり、ファリサイ派ですから、律法を守らなかったということで、彼女を、直接、石打の刑にすると宣言できるんです。そういうことを判断できる立場にあるんです。ところが、彼らは、「あなたはどうお考えですか」と、イエスさまに尋ね、イエスさまが、どう言うか?ということに注目していくのは、(6)「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と、ある通り、イエスさまが、この女性を助けようとすれば、今度は、イエスさまが、律法を破り、守らなかったということになります。それで、彼らには、イエスさまを訴える口実が出来るわけです。そういう意味では、イエスさまを罠にはめる、非常に巧妙な問いかけを、彼らはしているんです。

 

そして「こういう女は石で打ち殺せと」言う公開処刑は、本当にそうしていく時には、そこにいる人々が、彼女に向かって、石を投げ続けて、死ぬまで投げ続けていくんです。その時、具体的に、彼女に向かって、石を投げる人は、自分が投げ続けた石で、死んでいく彼女を目の当たりにすることになるんです。つまり、実際には、石を投げる、その人々が、彼女を殺してしまうことになるんです。別の見方をすれば、彼女とは関係のない人々が、律法学者、ファリサイ派の人々によって、彼女を殺していくということに、律法学者、ファリサイ派の人々によって、巻き込まれてしまうんです。

 

このことは、石を投げる人にとって、自分が、石を投げたばかりに、彼女は死んでしまったことを目の当たりにしたことで、精神的に大きなトラウマになります。ます。またそれを見ていた周りの人々にとっても、大きなショックです。

 

ドローンで、攻撃に当たった兵士たちの姿が紹介されていました。攻撃せよという命令が下されると、絶対服従ですから、命令通りに任務を遂行されていました。しかし、それによって、精神的にトラウマになり、それでずっと苦しみ続けています。直接戦場に出たわけではありません。しかし、自分がしたその行為によって、人を傷つけ、人の命を奪ってしまったという罪責感は、ぬぐえないままそれで、ずっと苦しみ続けています。日本でも戦争神経症と呼ばれて、戦地から帰って来られた兵士たちを治療するための病院がありました。そこで過ごすことになった方もいらっしゃったとのことですが、そこには人が変わったようになり、家族に暴力をふるうといった、いろいろなことがありました。人が人を傷つけてしまうと、人が人でなくなります。人生が壊されてしまうんです。そういう意味でも、戦争で敵も味方もありませんし、勝ち負けもありません。

 

だからこそ、イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々の問いに、答えないんです。答えないということで、イエスさまは彼らに関わらないんです。彼らのその問いに、関わらないんです。ただ「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」のですが、ただかがんだのではなくて、かがみ込んだという姿は、体全体を、屈折させるほどに、身をかがめているんです。そんな格好は、身を低くしておられるという姿であること、へりくだった姿であることと、その恰好をするということは、体に何かが起きています。

 

1つのことを思い出します。それは小学校1年生の時でした。学校に行ってしばらくすると、お腹が痛み出しました。お腹を壊しているわけではないのに、お腹がキリキリと痛くなりました、保健室に連れていかれました。そしてベットに横になるのですが、それでも痛いんです。あまりにも痛いので、体を右に左にするのですが、それでも痛みが治まりませんでした。そしてその痛みに、丁度ダンゴムシが丸くなるように、体全体を丸くしながら、痛みに必死で耐えていました。

痛い時には、体をまっすぐにはしておれないんです。丸くなって、かがみ込むような格好で、うんうんと唸っていました。

 

イエスさまの、かがみ込む姿、また8節にもある「身をかがめ」る格好も、そういう格好です。そんな丸くなりながらも、イエスさまは、ご自分の指で、地面に何か書き始められたというのは、神さまの指として、神さまの力を用いて、地面に何かを書き始められたということなんです。

 

でも具体的に、何を書いたのかは、分かりません。ただ彼らや、人々がそこにいた中で、地面に指で書くということは、書くことで、そこに生まれるものがあるということではないでしょうか?じゃあ何が生まれるのか?それは、窓際のトットちゃんの中で、トモエ学園の校長先生が、子どもたちに学校の講堂の床に、チョークで何でも書いていいよと言われた時の子どもたちの姿に、繋がります。その時、何でも書いていいよ!と言われた子供たちは、やった!とうれしくなって、チョークで、思い思いに絵を描き始めるんです。床一面に、大きな絵を描く子もいました。楽しそうに、自由に床に絵を描いて行きました。そうすると、お互いにぎすぎすしないんです。楽しそうに、お互いを受け入れ合っていくんです。そしてもう1つのことは、筆の代わりに指先や爪で絵を描くということにも、つながります。指頭画(しとうが)と呼ばれる、絵がありますが、筆で描いたのとは、また違う、自由自在に指を使って描かれた素晴らしい作品です。

 

つまり、イエスさまは、ここで神さまの指として、そこにいたすべての人々が和解し、お互いに受け入れ合えることを願っているんです。人の命を奪うような関係ではなくて、人を生かし、その人がその人らしく、素晴らしい生き方ができるように、そこにいるすべての人々が、お互いを裁き合うのではなくて、それぞれに生かし合って、素晴らしい、その人らしい、人生の作品を生み出す場としたいんです。なぜならば、人が生まれ、人がそこにいること、人と人とが共にあるという目的は、神さまと共に歩み、神さまが与えておられる、赦しと和解を、人と人との関係においても、生み出すためでもあるからです。

 

だから、『あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』とおっしゃられ、それを「聞いた者は、年長者から始まって、1人また1人と、立ち去ってしま」うんです。それは石を投げるということからも、石を投げつけられて殺されてしまうということからも、誰もそれができないように、イエスさまは、ストップをかけ、守ってくださいました。そのために、イエスさまは、そこからあれこれしつこく問い続けていた律法学者、ファリサイ派の人々も、彼女の周りにいた人々も、全員をその場から立ち去らせてくださいました。

 

それは、罪を犯したことのない人は、誰もいなかったからです。全員が罪を犯したことがあったんです。

 

私たちも同じですね。罪を犯したことのない人は、誰もいません。誰もが神さまのおっしゃられたことを、破った者です。彼女もそうです。そんな彼女に、イエスさまは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と尋ね、彼女が「主よ、だれも」と答えた時、彼女にとって、そこにいるイエスさまは、彼女にとっての主、彼女にとっての、わたしの神さまとなっていました。そして彼女は、イエスさまから、あなたと呼びかけられ、あなたとして受け入れられた彼女となっていました。

 

「わたしを愛してくれる方を知って」というタイトルで、一人の方の証しがあります。

 

私は8人兄弟の真ん中に生まれ、しかも次男でしたので、親から愛されたという記憶がありませんでした。戦前のことですから、兄は跡取り息子として、しかも女ばかりの後に待ち望まれて生まれたので、祖父母からも両親からも愛されて、すべてが特別扱いでした。ところが、わたしに対しては「お前は次男だから」と言って、差別待遇をするので、親を恨み、ひねくれた性格になっていきました。母は私の顔を見るたびに「お前は貧相だ。そのうえ性格がひねくれている」と言いました。ですから、暗くなる一方です。母代わりに私の面倒を見てくれた一番上の姉は、わたしを可愛がってくれましたし、わたしもなついていましたが、わたしが5年生の時に死んでしまいました。それ以来、わたしは愛の欲求不満になり、だれかに愛されたいと思いながらも、愛してくれる人はいませんでした。そんな時、「イエス・キリストはあなたを愛して、あなたのために死んでくださったのです」という言葉を聞いたのです。私は藁にもすがる思いで、その言葉を信じようと思いました。私を愛してくれる人がいるのだと思いたかったのです。「今晩、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じようと思う人」という勧めに誘われて、私はイエス・キリストを信じる決心をしました。次の朝起きた時のことでした。「私はイエス・キリストに愛されているのだ」と思うと、心の中が明るくなり、見るものすべてが輝いて見えました。もう、ひがむ必要もない、ひねくれる必要もない、うつむいていないで胸をはり、上を向いて生きようと思いました。

 

わたしを、わたしと呼んでくださり、わたしをわたしとして受け入れてくださり、わたしをわたしとして、愛して大切にしてくださるイエスさまを知った時、わたしは本当にイエスさまに愛されているんだということが、分かるようになります。そしてわたしは、誰かではなくて、わたしだということを、受け入れ、これからを導いてくださるイエスさまが、共にいらっしゃるんです。

 

彼女は、イエスさまから、あなたと呼ばれた時、うれしかったと思います。すごく安心できたと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、これからに向かって歩めるように導いてくださいました。

 

それらのことがすべて、彼女を守るために、そして彼女だけではなく、彼女を罪に定め、彼女に石打の刑を与えようとした、その人たちをも、守るためです。そしてイエスさまは、これからを与えて下さいます。そのこれからに向かって、新しい一歩を踏み出せるように、「行きなさい」と、送り出してくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月18日)