2024年7月28日礼拝 説教要旨

生きるということ(ヨハネ6:41~59)

松田聖一牧師

 

本音というのは、その通り、本音です。それはその時の、その人の思いであったり、素直な気持ちであると思います。その本音を、私たちは、人と人との関係の中で、言ったり言われたりします。

それは、ユダヤ人たちが、イエスさまのことでお互いにつぶやいて言った内容「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々は、その父も母も知っている。」もそうです。そして、その内容を見ると、この言葉は、イエスさまにとっても、ヨセフとマリアにとっても、屈辱的な言葉、傷つける言葉となっているのではないでしょうか?というのは、イエスさまに対して、この人は、ではなくて、「これは」と言っている言葉は、相当見下げた言い方ですし、人として扱っていない呼び方です。

しかも、「ヨセフの息子ではないか」と言うのは、イエスさまが、神さまとして、神さまによってマリアの胎内に宿り、ヨセフとマリアに与えられたイエスさまである、ということを、完全に否定しています。ということは、ユダヤ人たちは、イエスさまを、神さまが与えて下さった、神さまの御子、救い主として認めていないということになります。

さらには、人としてのイエスさまにとって、ヨセフの息子ではないか、ということは、彼らが、イエスさまをヨセフの息子と認めている言葉ではなくて、ヨセフの息子ではない、という言葉です。でも、彼らの言っていることは本当です。イエスさまは、人としては、ヨセフと血のつながりがないこと、ヨセフはイエスさまの、本当のお父さんではないし、マリアも、血のつながりがあるお母さんではありません。そのことを彼らは、知っているんです。にも関わらず、「ヨセフの息子ではないか」と言っていることは、イエスさまが、ヨセフの息子ではないという事実を、分かっているのに、ヨセフもマリアも分かっているのに、そのことを、たとい、小声で、ぶつぶつつぶやいて言っていたとしても、イエスさまと、ヨセフ、マリアをものすごく傷つけているのではないでしょうか?でもそれが彼らの本音なんです。

ある結婚式がありました。出会いがあって、神さまの前で、結婚式となりました。その時、結婚される新婦の方は、ご主人が若くして亡くなられ、再婚の形でした。その時、男の子が一人おられて、その結婚式にももちろん一緒でした。そしていよいよ結婚式が始まろうとしていた時、その結婚式に、参加していた、一人の小さな男の子が、ぼそっと、この男の子に、こう言ったのでした。「今度結婚する人は、お前の本当のお父さんじゃないやろ~」その時、周りの人たちは凍り付きました。慌てて、小さな声で、「そんなこと言ったらダメ~」と言いながら、言われたその男の子の、気をそらそうとしていました。その時、その男の子は、どんな気持ちだったでしょうか?その時は何も言わず、黙っていました。そして結婚されて、お父さんになられた方にも、お父さんと呼んでいました。子どもというのは、かわいいですが、時々、本当にストレートに、本音を悪気なく言ってしまうんですね。もちろん、悪意があったわけではありません。傷つけようとしたわけでもありません。そのままストレートに言ったと言えばそうなのですが、その後、言ったその子も、言われたその子も、いろいろとフォローがなされたことと思います。

イエスさまに対して、直接言わなくても、小声で、つぶやき合う内容は、傷つける言葉ばかりです。それが彼らの本音です。だから小声で、自分たち以外には聞こえないようにつぶやいたのでしょうか?しかし、その声も、言っている内容も、イエスさまは、ちゃんと分かっておられるんです。でも、それに対して、イエスさまは、何ということを言うのかと、怒っておられないんです。自分が傷ついたから、ヨセフやマリアにも、ひどいことを言ったから、言ったそのユダヤ人たちに、仕返しをしようとは決してなさらないんです。なぜでしょうか?それは、そんな彼らをも、イエスさまは、赦して、受け入れておられるからです。しかしそれは喜んで赦して、受け入れておられるのかというと、そうではないと思います。耐えながら、忍耐しながらではないでしょうか?苦しかったと思います。辛くて、悲しかったと思います。それでも、イエスさまは、赦して、受け入れておられるんです。

それは私たちに対しても、そうです。私たちも、悪気はなくても、その本音が相手を傷つけてしまうことがあります。それが思わず出てしまうこともあるでしょう。そして、イエスさまをも、傷つけてしまうことがあるのではないでしょうか?しかしイエスさまは、私たちが、イエスさまに対して、たとい小声であれ、つぶやき合うことであれ、どんなにひどいことを言ってしまったとしても、そんな私たちを、それでも赦して受け入れておられるんです。それは喜んでではなくて、傷つきながら、忍耐しながらです。そのことに気づいているでしょうか?

それにしても、ユダヤ人たちは、どうしてここまで、イエスさまを傷つけていくのでしょうか?イエスさまが神さまではないこと、ヨセフの息子でもないこと、などを矢継ぎ早に、つぶやきであっても、どうしてここまで、イエスさまをないがしろにし、否定しようとするのでしょうか?

以前犬を飼っておりました。その時飼っていた犬の名前は、ポチという名前でした。次飼った犬も、ポチにしました。そのポチを連れて、散歩に行った時のことです。全然知らない犬と出くわしました。するとその時、ポチはものすごい勢いで、吠え出しました。唸ると言いますか、しっぽをピーンと立てて、相手の犬を威嚇しているんです。それに対して、相手の犬も、ワンワンと吠え始めました。ワンワンと吠えながらも、後ろに下がっていくんです。ということは、ワンワンと吠えて、威嚇しているのですが、同時に、ワンワンと吠えながらも、ポチが怖かったのではないかと思います。つまり、ワンワンと吠えれば吠えるほど、実は、ワンワンと言っている犬は、相手を怖がっているんです。そういう意味で、怖い犬というのは、あまりワンワンと吠えないですね。唸ると言いますか、目をきっとさせて相手をにらむという感じなのかもしれません。

ということは、ユダヤ人たちも、盛んにイエスさまを攻撃しながらも、実は、イエスさまを恐れているんです。それは、彼らの中に、自分たちの立場が奪われるのではないか?これまで、築き上げてきた、ユダヤ人としてのアイデンティティが壊されるのではないか?それは自分自身が、自分ではなくなってしまうということへの恐れかもしれません。そういう恐れがあるから、不安になるし、その恐れや不安が、逆にイエスさまへの攻撃となっていくのではないでしょうか?不安や心配が募れば募るほど、それが怒りに変わることがあるんです。そういう意味で、恐れを持ったもの同士が、つぶやき合うのは、攻撃しながらも、何も手出しができないということの現われでもあるのではないでしょうか?そしてそれは、彼ら自身が、自分の負けを認めているということでもあるんです。逆説的ですが、攻撃をすればするほど、相手を傷つければ傷つけるほど、自分の負け、そして恐れと不安を自分で現わしているんです。

そして、恐れと不安を持った者同士が、つぶやき合うことで、ますます恐れや不安になり、そこから抜け出せなくなってしまうこと、良いものが生まれないことを分かっておられるからこそ、イエスさまは「つぶやき合うのをやめなさい」とおっしゃられ、つぶやき合うことに、ストップをかけて下さるんです。それは、彼ら自身をつぶやき合うことから、切り離して、守ろうとしておられることでもあるんです。

そしてイエスさまが、神さまではないということについても、自分たちだけの間で、ああでもない、こうでもないと、つぶやき合えばあうほど、自分の頭の中で、考えていること以上にはならないこと、いくら考えて、あれこれ言っていても、その人自身以上のものは、与えられないんです。そして、イエスさまが神さまであること、またイエスさまを神さまが遣わして下さったということも、余計に分からなくなってしまうんです。その結果、イエスさまがおっしゃられる通り、誰も、イエスさまのもとには行けないということでもあるんです。だからつぶやき合うのはやめなさいと、ストップをかけられるのです。

その上で、イエスさまは、はっきりと「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ」とおっしゃられるんです。父なる神さまが、「引き寄せてくださらなければ」すなわち、魚を取る時に、網を引いて、引き寄せるように、神さまが引き寄せてくださらなければ、ということですから、それはそのまま素直に、神さまが網の中に入れて下さって、引き寄せていただくことに、お任せすればいいんです。そうしたら、ちゃんと神さまのところに、イエスさまのところに連れて行って下さるんです。でも実際の魚はどうかというと、網にかかった魚は、素直になれるのでしょうか?その時の魚は、とってくれてありがとういう態度ではないですよね。必死で抵抗して、網から外へ出ようとします。捕まりたくないから、そこから逃げよう、逃げようとします。それは自分の思い通りに動きたいからです。

それは、「父から聞いて学」ぶということにおいても同じことが言えます。聞いて学ぶという言葉は、何回も何回も聞いて、学んで、確かめるということと、そのためには、何回も何回も繰り返し、同じことを聞いて、それを自分の中で習得するということです。覚えるということは、そういうことですね。それは習い事でも同じことが言えますね。何かを身に着けるために、先生について、学び、教えて頂く時、最初に言われたり、させられたりすることは、基礎から学びなおすということです。それは、その時まで、我流でやっていたこと、自分の思い通りにやっていたこと、それはくせになっていますから、そのくせをまず直されます。

あるバイオリニストの方がおられました。お若い頃から自己流で、それなりにいろいろな曲を弾いて、やって来られたのですが、ある時に、ちゃんとバイオリンを学ぶことになり、教えてくださるその先生のお宅、芦屋という町でしたが、その家に、風呂敷いっぱいに今までやって来た楽譜を全部持って、出かけました。すると先生は、その楽譜を全部あずかられて、こうおっしゃいました。「明日から、バイオリンだけもっていらっしゃい」その結果、基礎練習しかさせてくれなかったんですね。1からやり直しでした。構えがどうとか、姿勢がどうとか、そんなことばかりでした。でもそれをとにかく3年やったころに、周りから、こう言われたんですね。「君、うまくなったね~」それでバイオリニストとして、プロでやっていかれるようになったのですが、それは他のいろいろなことに、同じことが言えます。基礎を覚えるためには、1から学びなおすことです。どんなことでも、とにかく同じことを、どんなことがあっても形が変わらないようになるまで、繰り返していくんです。その姿勢が崩れないということが、体で覚えられるためには、基礎をしっかりと繰り返すしかないんです。でも、それができるようになるとすごく楽になるんです。そして楽しくなるんです。喜びに変えられていくんです。学ぶということは、そういうことです。学ぶということは、まねぶこと、真似をすることから、学ぶになります。だから、まずは教えて下さる先生のやっておられること、言われたことを、その通りに、真似をするということです。それが「父から聞いて学ぶ」ことなんです。聞いて学ぶんです。真似をするんです。

ところが、これを嫌がる人も、いるんです。面倒だからです。自分の思い通りに出来ないからです。そういう意味で、イエスさまがこのことを、ユダヤ人に答えておられるのは、彼らが、神さまから教えられたことを、彼らなりの自己流で学んできたことを、見て、知っておられるからではないでしょうか?それでもイエスさまは、彼らが、これまで神さまの律法を、それを繰り返し学んで、体で覚えてきたことは認めておられるんです。その上で、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」とおっしゃられるのは、神さまが教えてくださり、神さまから聞いて学んだこと、体で覚えたことは、イエスさまのもとに来て、初めて、それが分かるということなんです。そのためにはイエスさまのもとに来るという基礎を、身に着けることだということなんです。それによって、神さまが教えてくださったこと、神さまから聞いて学んだことが、イエスさまを通して、分かるようになるんです。言い換えれば、イエスさま抜きに、神さまのことは分からないということなんです。

でも彼らには、彼らなりの、それまでやってきたという自負があったことでしょう。プライドもあったと思います。だから、イエスさまがおっしゃられたことを、結局は嫌がって、イエスさまに抵抗していくんです。

それでもなお、イエスさまは、諦めないんです。神さまの教えて下さったことを、イエスさまを通して、聞いて、学ぶこと、そして、イエスさまが与えて下さる食べ物、飲み物を、食べ、飲むことだと教えて下さるんです。そして教えられたことを、その通りにしようとすることを通して、イエスさまの内に、いつもいることができること、そしてイエスさまも、いつもまたその人の内におられるということが、本当にその通りになることを、与えて下さいます。それは、彼らがこれまで大切に、守り続けてきた聖書の御言葉と、御言葉と共にあり、御言葉と共に結びついている、聖餐の中心にイエスさまが共におられて、そのイエスさまの赦しを、受け取ること、いただくことを通して、わたしの罪を、イエスさまが、十字架の上で全部身代わりに背負って、受けて下さった、その罪の赦しが、本当にその通り、体全体に、命そのものとなって与えられるんです。

なぜならば、神さまの御言葉、聖書の言葉も、聖餐も、神さまのいのちそのものだからです。その命を頂くことを通して、命を与えて下さる神さまのこと、神さまの赦し、神さまの恵みが、ますます分かるようになるんです。そして神さまのことをもっと知りたい!神さまが、私たちに何をおっしゃっておられるのかを、もっと聞きたい、もっと聞いて、受け取りたいと願うようになるんです。

ある一人の女の子が、毎週礼拝に来ていました。その礼拝で、聖餐式があった時のことです。その聖餐式を見て、彼女はこう言いました。「私も聖餐式のパンとぶどうジュースが欲しい!どうしたらもらえるの?」と聞いてこられましたので、「洗礼を受けたら、聖餐を受けることができるよ」と言いますと、「洗礼を受けたい」と答えが返ってきました。それから聖書の勉強をして、洗礼式を迎えることができました。そして聖餐式の時、これは神さまのお恵みですよと聖餐の意味も教えて、初めて、聖餐式に出た時、それを本当にうれしそうに、受け取って、いただいていました。本当にうれしそうでした。それを見た時、神さまのお恵みは、本当にある!と思いました。そして神さまのお恵みは、ただいただくことだ、あれこれ自分の頭の中だけで、考えるのではなくて、ただ神さまから与えられたものを、そのまま受け取ることだということを、その姿を通して、改めて、こちらも受け取らせていただいたことでした。

イエスさまが、私たちに教え、与えて下さるお恵みはそうです。あれこれ考え、あれこれつぶやき合うのではなくて、与えられたものを、そのまま受け取る事、それが、神さまを信じることです。そして信じて、与えられたお恵みを受け取ることを通して、イエスさまが私たちの内に、生きておられること、私たちがイエスさまの内に、生きることができること、そして生きておられる神さまと共に、生きることができることを、与えて下さいます。

祈りましょう。

説教要旨(7月28日)