2024年7月14日礼拝 説教要旨

迎え入れよう(ヨハネ6:16~21)

松田聖一牧師

 

ここに教会が建つ前からおられる方と、しばし立ち話をした時のことです。こうおっしゃいました。「この道を通るたびに、ここに教会がいつ建つのか?いつ建つのだろう?と思っていましたら、あっという間に建ちましたね~良かったですね。ここに教会が建つ前は、夜になると、本当に真っ暗だった!本当に暗かった!です。だからちょっと怖かったです。でも今は夜でも明るくなって、良かったです~」とおっしゃった通り、ここに教会が建つ前は、本当に暗かったんです。本当に暗いということは、足元も見えないくらいの暗さだったと思います。それが本当の夜と言ってもいいでしょう。

その夜の闇に包まれるような時に向かって、弟子たちはガリラヤ「湖畔に下りて行った」「そして舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした」のですが、真っ暗な夜の闇の中、暗黒に向かって、舟を出していいのでしょうか?そんな真っ暗な中で、カファルナウムに無事に行けるのでしょうか?しかもカファルナウムに行こうとした、その時、「強い風が吹いて、湖が荒れ始めた」のです。

この、強い風が吹いて、湖が荒れ始めた、というのは、この湖の特徴です。ここでは、急に天候が変わり、強い風が吹くんです。急に荒れる湖なんです。山の天気もそれと似ていますね。さっきまでいいお天気だったのが、急に天候が変わって、雷が鳴り出すこともそうです。そういう時は、本当に怖いです。そんな湖であることを知っている元漁師たちもいるのに、彼らは、舟に乗り、向こう岸のカファルナウムに行こうとしたんです。

しかも、湖は、荒れ始めた、ということは、これからもっと荒れるんです。そんな湖に舟を出すということ、さらにはそんな中で、25ないし、30スタディオンばかり漕ぎだしたということは、彼らの乗った舟は、ガリラヤ湖の真ん中まではいかなくても、かなり真ん中に近いところにまで、出ているんです。となると、この湖は、最深43メートルの湖ですから、水の深さから言えば、かなり深いところまで、舟を漕ぎだしています。ということは、そんな荒れ始め、もっと荒れていく湖の中で、舟が転覆したら、おぼれて、死んでしまう深さに、彼らはもうすでに来ているんです。

そういうことが十分に考えられるのに、漁師であった弟子も一緒なのに、どうしてこんな無茶で、無謀なことをしようとするのでしょうか?その鍵となる言葉が、弟子たちは湖畔へ下りて行った、という言葉にあるんです。というのは、この「降りて行った」という言葉には、物理的に、ただ上から下へ下りて行くという意味だけではなくて、神さまから離れて行く、神さまが共におられるところから、落ちていくという意味でも使われる言葉なんです。

つまり、弟子たちが、舟に乗って、カファルナウムに行こうとするために、湖畔に下りて行ったという時、それは彼らが、神さまであるイエスさまから離れようとしていた、その動きでもあるんです。でも、そういう動きを、表立ってしているわけではありません。表に出ている動きは、湖のほとりに下りて行ったという動きです。だからはっきりと、私たちは、神さまから離れたいですので、これから、湖のほとりに、下りて行きます!と、宣言しているわけではありませんから、周りからは、分かりません。しかし、周りには分からなくても、彼らのこの動きというのは、神さまから離れようという暗黒の動きなんです。

さて、その動きというのは、この時の弟子たちだけのことかというと、私たちにも、弟子たちと同じように、周りには、見えず、分からなくとも、目立たないように、動いてしまう暗闇、暗黒の動きが、ないとは言えないのではないでしょうか?

その目立たないという動きは、神さまから離れようとすることとは反対の、神さまとの時間、神さまに祈る時間を持つということも、目立たない動きです。それは、今日与えられた聖書箇所のすぐ前で、イエスさまは、5000人以上の人々に、パン5つと魚2匹を祝福して、食べる物を与えてくださり、素晴らしい神さまからのお恵みを、人々は、受けとることができたという場面の後にも出てきます。人々が食べる物を受け取ることができたことは、それはそれで本当によかったのですが、そういうことをされたイエスさまを、人々は、自分の王とするために、連れて行こう、つまりは、自分たちの願い通りに、イエスさまを動かそう、コントロールしようとした動きから、イエスさまは、離れて、ひとりでまた山に退かれるこの動きも、目立たないことです。この時、イエスさまは、イエスさまをコントロールしようとした人に、対決しようとしたとか、激しく怒られた、といった目立った動きをしていません。しかしそんなイエスさまの人としての行動は、私たちにも大切なことを教えてくれます。

それは自分をコントロールしようとし、自分の思い通りに動かそうとする人々に対して、立ち向かおう、とすることではなくて、離れることだ、ということです。相手にしないことなんです。

配偶者からの暴力やストーカー被害などに苦しむ人の「夜逃げ」を専門に手がける引っ越し屋があります。社長も、元夫からの暴力に苦しんできました。日常的に暴力を受け、意識不明で救急搬送されたことも何度かあったとのことですが、ある日、「このままでは、いつか本当に殺される」と飼っていた犬と、車に積めるだけの荷物を入れて、夜逃げした経験を踏まえて、「夜逃げ屋」という名前で始めた、引っ越し屋さんです。そこでは、いろんな相談を受け付けています。実際に夜逃げの引越しとなったり、相談だけ、アドバイスだけで終わることもあるとのことですが、その社長さんが、こんなことをおっしゃっていました。「逃げることは、ずるくはない。『この人から離れたい』という本心に従うのだから、負けではないんです」。

私たちにとっても、自分をコントロールしようとする人から、離れること、相手にしないことは、必要です。しかし離れること、相手にしないことが、どこか自分はずるいことをしているのではないか?問題と向き合おうとしないのではないだろうか?と、自分を責めてしまうこともあるかもしれません。でも離れることは、決してずるくはないんです。というのは、コントロールしようとする力、思い通りに動かそうとする力は、ものすごいものだからです。だからその力に、激しく立ち向かうとか、戦うということは、決してできません。太刀打ちできる相手ではありません。それは例えば、悪と言うことに対しても、そうです。私たちの力で、あるいは努力で、悪に立ち向かうことも、悪を打ち負かすことは、到底できません。どんなに正義感をもって、悪と戦って、悪を善に変えようと、立ち向かったとしても、悪は、悪であり、それを人間がどうこうすることは、できないし、そこに関わってはいけないんです。むしろ関わろうとする側の人が、悪に巻き込まれてしまう危険があるんです。だからこそ、自分がやらなければいけない!という正義感をもって、自分のエネルギーと、時間を使うことではなくて、むしろ、誰が立ち向かえるのか?ということを、知って受け入れることではないでしょうか?

では誰ができるのか?それは、神さまにしか出来ません。だから、どんなに悪がはびこり、どんなに自分の思い通りにしようとする力が、大きくなっていたとしても、神さまの手の中で、神さまの時に、完全に滅ぼされます。そこに人が手をかけてはいけないんです。神さましかできませんから、神さまにしていただくことへと、委ねることなんです。

そのことを弟子たちは、十分に理解できていたのかというと、弟子たちからは、分かったといった言葉はありません。むしろ、イエスさまがどうして、人々の願いに乗ろうとしないで、山に退かれたのか?直前まで一緒におられたイエスさまが、どうして、自分たちから離れて山に行ってしまったのか?そして、そのまま自分たちを置いて、帰って来ないのではないか?と、イエスさまが山に退かれた、その理由が分からないまま、分からない者同士が、そこにいるんです。その結果、自分たちは、これからどうなっていくのだろう?どうしたらいいのだろうか?ということも、分からないでいるんです。

それでも、弟子たちは、イエスさまを夕方までは、待っていました。ところが、イエスさまは、「まだ彼らのところには来ておられなかった。」この言葉は、イエスさまが、弟子たちのところには、やがて来るという希望があるということではなくて、イエスさまが、まだ彼らのところには来ていなかった過去が、完了しているという意味と、彼らのところに来ていなかったという過去が、継続しているという意味なんです。

ということは、弟子たちにとって、イエスさまは、もうここには来ない、自分たちを置いて、離れてしまったということが、完了し、それが続いているということになりますから、自分たちが、置いていかれた、自分たちからイエスさまは離れてしまった、もうここには戻ってはこないという、衝撃と、絶望感に似た思いにますます強くなってしまうのではないでしょうか?ではそれで、弟子たちは、何もしないということではなくて、それでも、カファルナウムに行こうとして、舟に乗るんです。

それは、ここには帰って来なくても、イエスさまが拠点とされていたカファルナウムに行けば、そこでイエスさまに出会えるのではないか?と、そこに希望と言いますか、可能性を懸けたからではないでしょうか?それほどに、彼らにとって、イエスさまなしには生きてはいけない、イエスさまが、そばにいてくれなければ困るくらいになっていたのではないでしょうか?それはまた、イエスさまを自分たちのそばに置いておきたいという願いの現われでもあるのではないでしょうか?その姿は、人々の、イエスさまを王にしたいという願いとは、内容は違っても、結局は、自分たちの思い通りになるイエスさまになってほしいということなんです。だからこそ、イエスさまは、彼らのところには来ていなかったことが、完成し、完了し、それが継続しているんです。

しかし、そういうことに抗い、立ち向かおうとしたその結果、湖が荒れ始めたのに、舟に乗り、向こう岸のカファルナウムに行こうとした弟子たちの、ところに、それでもイエスさまが「湖の上を歩いて舟に近づいてこられる」んです。それは、超自然的な出来事ですね。湖の上を歩くなんていうことは、誰もできません。彼らの予想と言いますか、想定を超えています。それはイエスさまには、人を越えた、人とは違う能力がある方というよりもむしろ、イエスさまは、どんなに人が願い、人が人をどんなにコントロールしようとしたとしても、イエスさまは、それらのことを、はるかに超えておられる神さまである、ということを、顕しているんです。

それが、「わたしだ」なんです。わたしだ、わたしであると、ご自分が、神さまであるということを、彼らに現わされるんです。しかもそれは、彼らの願った方法、願う方向ではないところから、イエスさまが神さまであるということを現されるんです。つまり、彼らにとっては、こうしたら、こうなる、ではなくて、こうしても、こうならん!ということから与えられ、始まっていくんです。でもこうすれば、こうなるではなくて、こうしても、こうならん!ということであるからこそ、イエスさまが神さまであるということが、逆に真実をもって、現されていくのではないでしょうか?

そしてそのお方を、迎えいれよう、受け入れようとしていく時、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」彼らが目指す地に着いたのではなくて、彼らがイエスさまを迎え入れようとした、その舟が目指す地に着いたのです。そしてそこには、弟子たちも、イエスさまも一緒にいました。さらには、その目指す地という意味には、世を去り、亡くなるという意味もありますから、イエスさまを迎え入れようとした、その時、イエスさまが、世を去り、死を迎える、その人に、その人が目指す地を与えて下さったのではないでしょうか?そしてその時、そこには、イエスさまを迎え入れようとした方々が、共におられ、そしてその方々も、世を去り、死を迎えた、その人を迎えてくださったのではないでしょうか?

昨日、ご葬儀が、教会を会場に執り行われました。ご家族はもとより、ご近所の方々、一緒に働かれた同僚の方々も、遠くから近くから、お出でになられました。そして葬儀ということではあっても、神さまにささげる礼拝が、守られました。その礼拝の中心は、神さまのもとに召された一人の方を偲ぶ時であると同時に、一人の方が、「目指す地へ着いた」目指す地、天国へ着くことができるように、神さまと共にある命を与えて下さった、神さまに礼拝をささげる時でもありました。その礼拝に、多くの方々が、集められたのは、目指す地に無事に着けるようにしてくださった、その方を通して、また用いられて、神さまが、呼び集めて下さったからだと思いました。

ふとその時、昨年のクリスマスイブの夜に、神さまを信じたいとおっしゃられたその時、その場に居合わせた、私も含めて、誰もが、びっくりしている中で、自分の口をついて出て来た言葉があったことを思い起こしました。それは「神さまに委ねましょう!後は神さまがしてくださいます!」という言葉でした。そのことを言いながら、自分自身も、これからどうなるかは分かりませんでした。でも、分からないけれども、あとは神さまに委ねる事、神さまがしてくださることに、任せる事だという、この言葉「神さまに委ねましょう!」は、自分自身の口から出た言葉でありながら、神さまが、自分自身にも語り掛けた言葉でもありました。

その通りに、神さまは、無事に目指す地に着くことができた、一人のその方を通して、神さまが、一人一人を、礼拝へと導いてくださいました。そしてその中心に、わたしだ、恐れることはない、と約束されたイエスさまが、共にいて下さいました。

そのイエスさまを迎え入れようとする時、神さまであるイエスさまは、目指す地に無事に着くことができるようにしてくださいます。自分たちだけで、自分たちだけの力で、ではなくて、神さまから離れようとしていたにも関わらず、近づいて来てくださったイエスさまを、迎えいれようとすることです。

説教要旨(7月14日)