2024年7月7日礼拝 説教要旨

今やその時である(ヨハネ5:19~36)

松田聖一牧師

 

高校時代、これからの進路を考えた時、その時には、小学校の先生になるということを決めていましたので、その学部に進もうと思っていました。その中で、2つの選択肢がありました。1つは地元の大学、もう一つはどこかというと、信州でした。ただ自分の実力からすれば、うまくいけば・・・というボーダーレベルでしたが、実はそこが本命でした。信州に行きたい、一度は独り暮らしをしてみたいという思いで、受験をするために、名古屋から中央線に乗り、松本に出かけました。途中から雪になり、雪の降る中、緊張しながらホテルに着きまして、晩御飯を、そのホテルで食べましたが、観光で来ているわけではないので、ちっともおいしくありません。それでも食べていた時、一人の受験生の方ですが、ここいいですか?ということで、相席になりました。お互いに初めましてでしたが、その内に、その方が、こうおっしゃいました。「現役の方ですか?」「はい、そうです」「現役に見えました~僕は一浪です~」とそんなやり取りでしたが、翌日試験を受けて、手ごたえはというと??でしたが、それでも、期待するわけです。やがて当時ありました電子郵便で、自分の受験番号を見ましたら、ないんです。その時は、さすがにショックでした。残念!せっかく信州に行きたかったのに~という思いと、受からなかった自分自身が、少しダメな人間じゃないかとも思ったことでした。でもすぐに次の試験が控えていますから、切り替えて臨みました。結果としては、地元になったのですが、それでよかったと思います。行きたかった信州には、毎年夏合宿で、松本や、美ヶ原、白馬、栂池高原にも行く機会が与えられていきました。あれから30数年経って、今自分自身が信州にいることを思うと、神さまは、その時には、信州に行きたいという、その願いには答えては下さらなかったけれども、今、こうして信州に住み、大町から、飯田までのいろいろなところに出かける機会を与えて下さっていることを思います。そしてこの3年の間に、多くの方々と初めましての、出会いが与えられていました。どれくらいの方々か、を数えて見ましたら、大体500人を超える方々と良いひと時が、それぞれに与えられていました。そのことを通して、気づかされたこと、それは、自分の願いが実現しなかった時、うまくいかず出来なかった時、確かにその時は、出来なかったと思ったことでも、神さまは、その出来なかったことの中にも、共にいてくださり、出来なかったことをも用いて下さっていたことでした。そして、その時願った以上のことを与えて下さっていたことを思います。

そのために、神さまは、その時には、出来なかった、何もできないということを、通らせてくださったのではないかと思います。

私たちにとっても、そういうことがありますね。自分では何も出来ないこと、何も出来ない時がありますね。あるいは今までだったら、できていたことが、出来なくなるということも経験するでしょう。そういう時、できないな~と無力さを感じます。もちろん、そういう時でも、何も出来ないことばかりではなくて、出来ることも、両方があります。

イエスさまがそうです。イエスさまは、この時、自分が何もできないでいました。「自分からは何事もできない」とおっしゃっています。でもそれは何でもできる神さま、出来ないことは何一つない神さまとしては、矛盾そのものです。事実、今日の箇所のすぐ前には、38年間、人生のほとんどを立ち上がることのできずに過ごしていた、この人を、イエスさまは癒されているのです。それなのに、イエスさまは、「自分からは何事もできない」とおっしゃられるのは、イエスさまにとって、神さまでありながら「自分からは何事もできない」という時で、あったということだけではなくて、イエスさまにとって、何ごとも出来ないということであっても、イエスさまは、神さまとして、何ごとも出来ないということ、その矛盾も、受け入れることができるお方であるということではないでしょうか?

それが、イエスさまのこの言葉(23)「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」にある、「敬う」という言葉にも、現れているのです。この敬うという言葉には、尊び、尊敬するという意味と、値踏みし、品定めをし、格付けする、見積もる、という意味もあるからです。ということは、「物の値段や、人の価値を見積もること」ですから、物であれば、その物、商品もそうですが、その値段に見当をつけたり、大体いくらになるのか?と見積もりを取るということになります。

見積もりを取るということは、ありますね。例えば何かを修理する時や、建物などを建てることもそうです。電化製品などを買う時もそうです。またその見積もりを、1つのところから取るのではなくて、相見積もりとして、別の会社からも、とる場合があります。それはどちらが安いかということだけではなくて、どちらがよりよいものであるか?ということを、それこそ検討できる機会になりますし、どちらに頼めばいいか?ということが、そこから判断できるからです。

例えば、見積もりという言葉ではありませんが、スーパーの特売を考えてみましょう。ある商品は、こっちのスーパーでは198円となっているのが、同じものが178円になっていたら、どうでしょうか?そこに買いに行くかどうかは別として、気持ちとしては、こっちが高くて、こっちが安いと思いますよね。そしてその178円のものを買いに行きたいなと思うのは、自然なことです。178円を選ぼうとします。ただそれが、人に対してですと、その人の価値を、そのように見積もるということになりますから、持ち物や服装、ステータスなど、いろいろを見て、人に優劣をつけることになります。

そういう意味で、人を「値踏みする」ということは、人を品定めすることであり、格付けです。しかし、そういう値踏みすることも、敬うという言葉の意味の中にはあるのです。ということは、人には、口では敬うと言いながら、またある時には敬っていても、時と場合によって、あるいは自分の立場によって、気持ちによって、値踏みし、品定めし、格付けすることへと変わってしまう姿があるのではないでしょうか?しかもそうなる時というのは、あっという間です。そんなことは私にはないと思っていたとしても、何かがあれば、自分の気持ちは、すぐに変わってしまいます。そういう可能性を誰もが持っています。それは人に対してだけではありません。神さまに対して、神さまであるイエスさまに対しても、同じことがあるし、いつでも起こり得るということを、おっしゃっておられるのではないでしょうか?

そのことをイエスさまは、「父を敬うように、子をも敬うようになる」神さまを敬うように、イエスさまをも敬うようになることと、「子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」とを、並べておられるのです。それは敬う人と、敬わない人がいるという、2つに分けられるのではなくて、1人の人の中に、敬うことと、敬わないことが、両方あるということなのです。そしてそれが1人の人の中で、繰り返されていくのです。

それは見方を変えれば、その人の中に、正反対のもの、矛盾を抱えていることと同じです。ということは、あっちと、こっちが、両方あるということですから、方向が定まりません。それはまた自分がどっちを向いているか?生きて行く方向、自分の目的地が、その人自身、分からないでいるということにも繋がるのではないでしょうか?

自分の目的地が分からない、生きる目的が分からないと、どうなるか?自分の中に正反対のこと、矛盾を抱えているとどうなるか?不安になります。これでいいのだろうか?自分に自信がなくなります。それでも自分の目的となるものを見つけようとして、いろいろなものにすがろうとしたり、人を、自分の目的としようとして、その人を頼って、その人にすがっていこうとし、どこかで自分が安心できるところを求めていくのではないでしょうか?しかし、人は人です。神さまではありません。その人にも矛盾があります。正反対のものを抱えています。どっちなのか、分からない姿があります。だから、どっちなのか分からないものを持っている者同士で、すがったり、頼ろうとしたり、あるいはその人を敬い、その人について行こうとしても、向かっていく方向が、それまでと正反対になってしまうことがあるのです。その結果、信頼しようとして、頼っていたその人を、頼れなくなってしまうのです。それが、敬わなくなる、ということなのです。あるいは逆に、頼ろうとしていた、その人自身も、頼ろうとしていたその人とは、正反対になるということも起こり得ます。そうなると、敬えなくなります。そういうお互いが、それでも目的地を求めて、探しているのです。そのために、あっちに、こっちにと、定まらない生き方となってしまうのではないでしょうか?

ある教会に一人の青年の方でしたが、来られるようになりました。ところが、しばらく来られていたかと思うと、姿が見えなくなり、別の教会に行かれていました。それで、その教会に落ち着かれたのかというと、また別の教会に行かれるようになり、それを次から次へと繰りかえしておられました。定まらなかったのです。それは、自分を認めてくれるところ、受け入れてくれるところを捜していたのかもしれません。そんな青年が、また最初の教会にやってきました。そしてあっちの教会、こっちの教会に行っていたことについて、その教会の先生がはっきりとこう言われたのでした。「〇〇くん!あっち、こっちの教会に行っていては、神さまは働かないよ~1つの教会に落ち着いたらどうだ?」そう言われた彼は、びっくりしたような表情でした。でもそれからも、あっちの教会、こっちの教会に、渡り歩いていました。そんな時、彼は事故に遭い、そのまま天に召されていきました。忘れることのできない出会いでしたが、今振り返ると、神さまが、あっちに、こっちに行かなくてもいいように、神さまのもとに召してくださったのではないかと思います。

人は定まらないと、定まらないのです。目的が分からないと、落ち着き先を捜し求めながら、あっちにこっちにと揺れ動くのです。スポーツでもそうですね。テニスでも、卓球でもそうですが、ラケットを振る時に、自分自身が、ふらふらしていたら、たといボールがラケットに当たっても、どこへ飛んでいくか分かりませんし、コントロールができません。だから、自分自身がふらふらしないように、素振りという基本運動、練習が必ず必要なのです。そういう意味で、そもそも人は、ふらふらするのです。それでもイエスさまは、そういう人であることをご存じの上で、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」神さまといつも共にある命、死んだ状態ではなくて、生きている状態へと、「移っている」と、自分がどう生きたらいいのか?人はどう生きるのか?という生きる目的を、与えて下さっているのです。

そして具体的には、「死から命へと移っている」ということですが、命に移る前の、死、死んだ状態とは、どういうことでしょうか?それは、自分の体が死ということだけではありません。体だけではなくて、心も、です。その心が死んでいるということは、心が動かないこと、心で何も感じられない、笑うことも、悲しむことも、自分が思っていることを、思うことができないことも、そしてそれを表現することができないことも、死んでいる状態です。言い換えれば、それは心が閉ざされた状態と言ってもいいでしょう。

その死から、命へと移すために、イエスさまは、神さまとして、神さまが、私たちのところに来てくださっているのです。そして神さまの言葉を語り、その言葉には、命があること、死から命へと移っているという、自分の生きる目的を示し与えて下さるのです。そのために、イエスさまが、ふらふらし、定まらない、私たちに、与えて下さった、どんな時にも、神さまがあなたを受け入れ、赦し、そしてイエスさまと共に、イエスさまを信じて歩む道を、十字架を通して与えて下さっているのです。その赦しは、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、揺れ動くものではありません。ふらふらしません。決して動かないものです。

そして、そのイエスさまを、敬うか、敬わないかの、どちらかを選ぶということではなくて、敬う時も、敬わない時もある私たちに、イエスさまを、ただ信じる者になること、ただ信じて、受け入れるということ、そこしかないというところへと、イエスさまは、私たちを、導いてくださるのです。

ある方が、お兄さんに誘われて教会に来られてからのことを、こうおっしゃっていました。

私が初めて教会を訪ねたのは、1981年の秋、兄に誘われたからでした。病に苦しんだ兄がふと教会に入り、今度は進められるまま私と母とを誘ったのです。「神さまがいればいいのに」という私の思いが、神さまを求める思いへと変えられていきました。教会の方々の祈って下さる、その祈りの背後に人を越えたお方が存在することを否定できなかったのです。わたしにとって、初めて人生を真剣に考えることとなりました。イエス・キリストを信じる者には天国という目的地がある。目的地があるということは、そこに行く道は備えられていることではないか。将来に不安を覚え、何に向かって生きて行くべきは分からなかった私にとって、心が開かれる思いでした。翌82年5月30日、神の恵みによって洗礼を受けました。…以前の私は、私などどれほどの者であるのかと、うつむいて歩んで来たものでした。しかし、共に生きて歩んでくださるイエス・キリストによって、前向きな生き方へと変えられたのです。

私たちにとって、心を閉ざし、生きる目的を見いだせないことがあるかもしれません。心が死んだようになっている時もあるでしょう。だからこそ、イエスさまは、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である」「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる」ことへと、導かれるのです。

その時は、いつでしょうか?また今度でしょうか?またいつか?でしょうか?また今度とか、またいつかというのは、いつまでたっても、また今度です。またいつかです。しかしイエスさまは、おっしゃいます。「今や、その時である」今です。また今度じゃない、今です。

説教要旨(7月7日)