2024年6月30日 礼拝説教要旨

あなたは生きる(ヨハネ4:43~54)

松田誠一牧師

 

人は誰でも、自分のことを分かってほしいと願っています。それは特に、家族や、親しい友人に対しては、その願いをより強く持つものではないでしょうか?なぜならば、家族や親しい友人は、その人自身にとって最も信頼できる相手であるからです。しかし、時に、最も信頼していいはずの、家族や、友人に、自分の気持ちを伝えても、分かってもらいたいと願っても、分かってもらえないことがあります。それはとてもつらいことですし、寂しくなります。そして孤独になります。

イエスさまは、神さまでありながら、人の人として、家族から、分かってもらえないというところを通らされました。というのは、イエスさまがおっしゃられる「はっきりと言われたことがある」という内容「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」の、その意味から見えてくるからです。具体的には、「自分の」という言葉には、家族とか、身内とか、親戚、自国民と言う意味がありますから、イエスさまは自分の家族に、神さまの素晴らしさ、神さまの教えをいくら語っても、自分の家族からは受け入れてはもらえなかったのです。それは、イエスさまにとって、辛いことです。家族に伝えたいのに、伝えられない、分かってもらえないもどかしさと、最も信頼していいはずの、家族から受け入れてはもらえない辛さ、淋しさ、そして孤独を、神さまの働きを始めるにあたって、イエスさまは、通らされてきたのではないでしょうか?

その理由の1つには、イエスさまは、ヨセフとマリアとの間の子ではなくて、神さまによって、与えられたお方であるということにあります。それはイエスさまが、まことの神さまであり、まことの人であるということが証しされていることなのですが、現実のこととして、ヨセフとマリアにとって、また、イエスさまの後に生まれて来る、ヨセフとマリアの、本当の子ども、イエスさまにとっては、弟たちになりますが、その弟とイエスさまとは、人としては血のつながりがありません。ですから、弟たちにとっては、物心ついた時には、イエスさまが、お兄さんだけども、本当のお兄さんではないという事実が突き付けられたことでしょうし、それが弟たちの、イエスさまに対する思いや、イエスさまとの関係の中に、いろいろなことを与えてしまっているのではないでしょうか?

血のつながりがない兄弟同士というのは、その当事者でなければ、分からないことです。親の受け止め方と、兄弟同士では違って来ると思います。それでも、イエスさまは、その弟たちと、家族として過ごしました。また特にイエスさまは、ヨセフ亡き後、ヨセフのしていた大工、石大工ですが、その仕事を受け継いで、自分とは血のつながりのない弟たちのために働き、家族を養って来ました。でも神さまとしての働きが始まると、それらから離れていくことになりますから、残された家族にとっては、一家の大黒柱、稼いでくれる人がいなくなります。自分たちを置いて、あっちに行ってしまったことにもなります。ですから、いくら神さまとして、神さまの働きをするためだということであっても、家族皆が、もろ手を挙げて賛成ではなくて、イエスさまとの微妙な関係が出てきてしまうのではないでしょうか?そういう意味でも「自分の故郷では敬われないものだ」という言葉に表されているのです。

私たちにとっての家族との関係も、いろいろ、ではないでしょうか?それは血のつながり云々だけではなくて、時と場合と、内容によっては、大変厳しいものに変わることがあります。時には、関係が切れてしまうこともあると思います。その同じところを、イエスさまは、神さまとして、通って行かれるのは、私たちの家族との関係の中で、いろいろあること、いろんなことを経験し、目の当たりにすることをも、神さまとして受け取るためです。だからこそ、イエスさまは、その時の人の気持ちや、置かれたところを分かってくださるのではないでしょうか?

そういうことを抱えながら、ガリラヤに行かれたイエスさまを、「ガリラヤの人たちは歓迎した」理由を、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」とありますが、そこにイエスさまを受け入れ、歓迎した理由があります。まずは、「祭りに行った」ということです。この祭りというのは、いろいろな祭りがエルサレムで、行われていましたが、それらはすべて、神さまに礼拝をささげ、神さまを礼拝し、礼拝を守ることなのです。

この時の礼拝は、ひと言でいえば、見える礼拝と、聞く礼拝です。それはどういうことかというと、礼拝をささげる時、神さまにささげ物がささげられました。それは神さまに罪を赦して頂くために、農作物であれば、初物をささげ、小羊、雄牛といったものも、傷のない最上のものをささげました。そしてささげられたものの中で、礼拝を司る、祭司が、ささげられたものを祭壇に向かって、すなわち神さまに向かって、上に上げ、それを祭司の手元に向かって、下に下げ、そして再び、その手を正面に差し出し、また祭司のもとに戻すという動作をしました。

その動作は、後ろから見ると、上に上げたり、下に下げたりという姿ですが、それを真横から見ると、十字を切る形になるのです。それは揺祭(ようさい)と呼ばれますが、ささげられたものを、神さまにささげる時、そこには十字架のイエスさまがおられることが現されていくのです。つまりその十字架によって、礼拝をささげる者の、罪が赦され、私たちも神さまに礼拝できる道が開かれていくのです。他にもいろいろな作法がありますが、それらのことは、見えるものです。

そして、その礼拝で読まれる律法、神さまの言葉、聖書の言葉が、読まれるその声を、人々は聞きながら、神さまに礼拝をささげていくのです。その時、静まらないと聞こえません。静かにしないと聞くことにはなりません。その礼拝で、イエスさまが神さまとしての働きをなさった、そのことをすべて見ることができたガリラヤの人々は、イエスさまを受け入れ、歓迎しているのです。それはただ人々が、口で歓迎しますとか、受け入れますと言っているから、歓迎しているのではなくて、神さまに礼拝をささげているから、歓迎しているのです。見方を変えれば、イエスさまを歓迎するということと、神さまに礼拝をささげるということが、繋がっているのです。

そう言う意味で、46節以降にあります、カファルナウムにいた王の役人の姿を見る時、「この人はイエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て、息子をいやしてくださるように頼んだ。」は、この時、王の役人は、自分の息子が死にかかっていることで、癒して下さるように、イエスさまに乞い求め、願うのですが、それは親として、当然の思いを、イエスさまに願っている姿です。しかし、この時、役人は、イエスさまを歓迎し、礼拝をささげているのかというと、自分の息子を癒してくださるように、頼んだ、すなわち、乞い願う、はあっても、礼拝をささげているのかというと、そういうことは書いてはいないのです。でも役人は、確かにイエスさまのもとには行くのです。しかし「カファルナウムまで下って来て、息子を癒して下さるように」頼む、その姿には、親として癒してほしい、その願いをかなえてほしい、という思いはあっても、それが、そのままイエスさまを、神さまとして礼拝するということとは、また別のことではないでしょうか?

それはこの人だけのことではありません。私たちも、いろんな願いを持っています。それをかなえてほしいという願いと期待があります。ある時、一人の方から、祈ってほしいと、ご依頼をいただきました。それは宝くじが当たってほしいという願いです。毎年年末になると宝くじを求められて、その度に、祈って~とお祈りの依頼が来ました。当たるように祈って!でも何と答えていいのやら?

と思いましたが、ともかく当たるかどうかという祈りよりも、その方にとって、当たっても当たらなくても、良いようになるようにと祈った覚えがありますが、そんな年末が過ぎて、お正月を迎えるのですが、どうなったか音沙汰がないんです。その時、はは~んと思いまして、しばらくたって、どうだった?と聞きますと、ダメだった~ということで、300円は当たったようでした。

またこういうこともありました。別の方からです。祈って!今度雨が降らないように、祈ってください。いろいろお聞きすると、雨が降ったら困るという行事があるからでした。それはそれで分かったとお返事しますと、続けてこうおっしゃいました。「先生の神通力で!」神通力と言うと、神さまに通じる力ということですから、そんな力は私にはないし、神さまじゃない!と答えた、そんなやり取りがありました。

そういう、自分の願いをかなえてほしいというのは、誰にでもあることです。それを叶えてもらうために、時には必死で祈り、願うことも、あります。ただそれは礼拝なのか?というと、見る事、聞くことがそこにはあるのでしょうか?礼拝と同じとは限りません。だからこそ、イエスさまは、彼の願いに対して、分かったとも、いいよとかダメだとも答えていません。しかし、彼の願いに直接答えずに、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と答えられるのは、何よりもまず、「しるしや不思議な業を見ること」すなわち、神さまにささげる礼拝に繋がることを願っておられるからです。そのためにイエスさまは、「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と願った、この役人に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われるのです。それは、イエスさまの言われた言葉を聞いて、信じることによって、それまで持っていた、自分の願いをかなえてほしい、イエスさまを動かそうとする願いから、自分が、イエスさまに動かされて、私をイエスさまが動かして下さる方向へと変えられていくことを、イエスさまは願っておられるのではないでしょうか?

それが、「帰りなさい」彼自身が、カファルナウムに、帰ることなのです。それはまた、イエスさまがおっしゃられた言葉に従っていくことであり、それが、イエスさまを信じて、従うということではないでしょうか?その結果、自分が願ったことを、越えた、答えを与えて下さるイエスさまを信じていくのです。そして、帰るその途上で、この役人の僕たちが迎えに出て、「その子が生きていることを告げた。そこで息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは『きのうの午後1時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。

役人が、カファルナウムに帰るという方向に向きを変えた時、この役人が直接、息子の熱が下がったことを確かめる前に、この役人の僕たちが、この役人を迎えに出て、その子が生きていることを告げてくれたので、役人は、息子の病気が癒されたことを知ることができるのです。そしてその時刻を尋ねた時、僕たちが「きのうの午後1時に熱が下がりました」と教えてくれたとありますが、役人の僕たちも、この役人と同じように、息子が癒されることを願い、ずっと付き添っていたからこそ、熱が下がった時間を、「きのうの午後1時」と、正確に伝えることができたのではないでしょうか?しかも、時計もない時代、時を刻む手段は、神さまに礼拝をささげる時を知らせることも含めての、時を刻み、知らせるその知らせを、僕たちは、聞いていたということではないでしょうか?

大草原の小さな家という番組で、町の小さな教会が出てきます。その教会で、礼拝が捧げられる時刻になると、それを知らせる、教会の鐘が鳴ります。それで人々は教会に集まり、礼拝をささげていくのです。その鐘も誰かが正確に時を刻んでいるから、神さまに礼拝をささげる、その時を知らせることができるのです。そういう意味で、熱が下がった、昨日の午後1時を、誰が知らせたのか?それは分かりません。しかし、その時の知らせを僕は聞いたので、役人に知らせることができたのです。そしてその同じ時刻に、イエスさまが「あなたの息子は生きる」と言われていたことを、知った時、この役人は、役人ではなくて、父親となって、「彼もその家族もこぞって」イエスさまが神さまであるということを、信じたのです。

この出来事を通して、気づかされることがあります。それは、一人の人が、またそのご家族が、イエスさまを信じることへと導かれるために、本当にたくさんの方々の助けと、支え、そして祈りと共に、具体的に動いて下さった多くの方々がいたということではないでしょうか?それは、私たちもそうです。私たちがイエスさまを信じて、イエスさまが神さまだと分かるという、その時までに、どれほどの方々のお世話になってきたことでしょうか?それは教会に連なる方々だけではなくて、家族や、仕事の関係の方々、それこそ、今はどこでどうしておられるのか分からない方々、一度もお会いする機会がなかった方々も含めて、この目で見ることができた人だけではなくて、その声しか聴いたことのない方々にも、助けていただき、知らせていただき、支えていただいていたのではないでしょうか?

そういうもろもろがすべて、相働きて、万事を益としてくださる神さまが、イエスさまです。そのイエスさまを信じて従う時、それまでの自分の願いをかなえてほしいという方向から、私たちが願ったこと、自分が願ったことを、越えた答えを、与えて下さるお方に、向かっていくのです。

ノルウェーから来られた宣教師夫妻が、開拓を始めた教会の60年をお祝いする時がありました。残念ながら、年齢と、健康上のことで、来日することができなかった先生ご夫妻から、メッセージが届けられました。

愛する松阪教会の皆さま。60周年おめでとうございます。この日、私たち夫婦は皆さまと共に、この日を祝いたいとどれだけ願ったことでしょうか。健康の理由で松阪を訪れる事が不可能となりました。健康もまた主の御手の中にあります。今日私たちの思いは皆さまと共にあります。

記念の日、いろいろな思い出がよみがえってきます。今私たちの心は感謝で一杯です。松阪での奉仕を与えて下さった主なる神に、また好意と協力を惜しまれなかった皆さまに心から感謝しています。皆様方のご愛があって、私たちの日本における働きがどれほど豊かにされたことでしょう。宣教師として日本に旅立つ前、どれほど多くを皆さまに差し上げることができるかと考えたものですが、そして力一杯働かせていただきましたが、多くの頂いたのは、私たちでした。

私たちの子どもたちについても感謝せずにはおれません。ご近所の皆さまに親切にしていただき、かわいがっていただいたこと、本当にうれしいことでした。

この節目の日、ただ過去を振り返るだけではなく、将来に目を向けます。この60年の間に、多くの兄弟姉妹が天に籍を移されました。その方々の働きを続けていくのは私たちです。若い方々に特にお勧めしたのです。神の国を建て上げる以上に大きな働きはありません。主イエスは今も呼んでおられます。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にします」と。

最後に、主なる神の約束を差し上げたいと思います。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」心からの挨拶と共に。

好意と協力をおしまなかった方々、ご近所の方々がいました。そういう方々を通しても、イエスさまを伝える働きが守られ、信じる方々を神さまは与えて下さいました。そういう意味で、一人の方がイエスさまを信じることができた、その背後には、どなたか一人ではなくて、本当にたくさんの方々がいて、用いられていたということではないでしょうか?

この一人の役人は、イエスさまを信じました。そして癒された子供も含めて、家族も、イエスさまを信じました。そのために、どれだけの方々が関わり、動き、助け、協力くださったことでしょう。そのすべてを、この人は知ることがないままかもしれません。しかし、それらの方々と、それらの方々の助けと協力も、神さまであるイエスさまが用いてくださり、この人が、父親となり、家族もまたイエスさまが迎え入れてくださっただけではなくて、この家族に与えられた子どもたちが、イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩む歩みへと、導かれていくのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」その言葉は、本当にその通りです。そしてその言葉を、イエスさまは、私たちにもおっしゃっています。「帰りなさい」と、イエスさまの言葉を聞き、この言葉に従い、言葉を与えて下さるイエスさまに従うようにと導いてくださっています。

祈りましょう。

説教要旨(6月30日)