2024年6月16日礼拝 説教要旨

求めておられるから(ヨハネ4:5~26)

松田誠一牧師

 

先週の礼拝は、ツバメも一緒に礼拝を守りました。丁度説教の時に、ツバメがやってきましたので、どなたも説教どころではなくなりましたね。ツバメが礼拝堂の中を飛ぶと、目線はツバメです。そんなツバメが、気が付くと、十字架の上にちょこんと腰を掛けて、いっしょに礼拝を守っていました。十字架はご神体といったものではありませんが、イエスさまを指し示すシンボルとしての十字架に、ツバメがいて、礼拝を守る姿というのは、礼拝の本質を現わしているようにも思いました。目に見えるツバメを神さまが送って下さり、礼拝というのは、こういうものだ・・・ということを教えて下さったようにも思います。さて、そのツバメも、鳥という生き物ですから、食べること、水を飲むことは、不可欠です。そのツバメについて、ツバメ観察全国ネットワークというところに、その飛び方などについて、こう紹介されています。

 

「大きく長い翼は肩に負担がかかるため、ツバメは速く羽ばたくことができません。そのため、ツバメは地面に降りているときに襲われると、すぐに飛び立って逃げることができないはずです。だからツバメはあまり地面に降りないし、水を飲むときでも飛びながら飲むのではないでしょうか。」

 

そのように、ツバメは遠い外国に渡る渡り鳥もありますから、途中水を飲む時にも、飛びながら水を飲むのです。それはツバメだけではなくて、すべての生き物、私たちにも、水を飲むこと、水分補給は必要です。これからの季節、熱中症に気を付けてとか、水分補給をこまめにして下さいね~といったことが、ますます言われますから、そういう意味でも水は、私たちのいのちを具体的に支える、いのちの水です。

 

シカルというサマリアの町に来られたイエスさまも、その水を必要としていました。この時、イエスさまは、肉体的にも精神的にも、疲れ果てていました。神さまでありながら、イエスさまが疲れ果てていたというのは、どういうことか?神さまなのに、疲れ果てることがあるのか?と思われるかもしれません。しかし生身の人間としてのイエスさまは、その井戸に辿り着くまでに、旅から旅を重ねていましたし、その時々に、多くの人と出会い、休む暇(いとま)がないほどに、関わりを持ち続けていました。しかもそうすることで、すべての人から歓迎されたわけではなく、批判も受けましたし、いつ捕らえられるか、分からないような中にありましたから、肉体的にも、精神的にもきつい旅だったと思います。

そういう意味では、人と関わるというのは、大変なエネルギーがいることも確かです。人生に関わり、その人の心、魂に触れ、それこそ全身全霊で向き合われたイエスさまにとって、大変なことだったと思います。

 

そんな中、辿り着いたヤコブの井戸で、「そのまま井戸のそばに座っておられた。」その時刻も、「正午ごろのことである」ということは、太陽が照りつける、日中ですから、暑さが厳しい時間です。そんな時間に、普通は外に出ませんし、外出することは、命にもかかわりますから、相当な覚悟がいります。

 

ニュースなどで、50度を超える熱波に襲われたところが紹介されていましたが、異常な暑さの中で、人々は、とにかく日陰で、うちわのようなものであおぎながら、水をひたすら飲み続けていました。そうしないと危ないからです。それがイエスさまの座っておられた環境です。しかも、そういう中で、ヤコブの井戸のそばに座っておられたという意味は、ただそこに座っていたということだけではなくて、座っていたということが、未だ完了していないという意味です。「座っていた」のに、それで完了していないというのは、イエスさまには、座っていた、そのところで、まだ続きがあるということなのです。さらには、この座っていた、には、王座に着くという時にも使われる言葉ですから、イエスさまは、世界の全てを治める王である神さまとして、そこに着座していたという意味にもつながるのです。そこで神さまとしての働きが、まだ続くのです。

 

そこに、サマリアの女性が、「水を汲みに来た」のは、人目を避け、誰にも会わなくて済む時間に、水を汲みに来よう、として来たことになります。そこには彼女なりの理由があり、それはこの後、明らかにされますが、ともかく誰にも会いたくない、というのが、この時の彼女なのです。

 

そういうことは、彼女だけのことではありません。私たちにとっても、誰にも会いたくない、一人になりたい、ということはあるのではないでしょうか?理由はいろいろあると思います。とにかく人に会いたくないからとか、自分の身に起きたことを、あれこれ聞かれるのが、嫌だからとか、あるいは、人に会うと疲れてしまうからといった、それなりの理由があるのではないでしょうか?いずれにしても、この時、いいか悪いか、ということではなくて、誰にも会わないようするというのは、孤独になります。しかしそれで満足できるかというと、理由がどうであれ、相手がいませんから、やっぱり一人なのです。

 

そんな彼女に、「水を飲ませてください」すなわち、あなたがわたしに、飲むことを与えなさい、と言われたイエスさまも、実はこの時、孤独だったのではないでしょうか?というのは、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」という意味は、ただ食べる物、食料が必要だから、町に行っていたというだけではなくて、「行っていた」には、立ち去るとか、離反し、離脱するという意味もあるからです。つまり、それまではイエスさまに従い、イエスさまと一緒に行動していた弟子たちが、食べ物を買いに、イエスさまから離れ去っていくのです。そうするとイエスさまは、一人残された形になります。孤独になります。そういう中で、「水を飲ませてください」、あなたがわたしに水を飲ませなさい、飲むことを私に与えなさいという命令を、彼女は、イエスさまも、私と同じ孤独なんだ、ということを、どこかで感じながら、受け取っていくのです。そして、その呼びかけは、それまで自分のために水を汲みに来た彼女が、イエスさまのために水を汲むという目的へと無理やりに、変えられていく言葉でもあるのではないでしょうか?ではそのことを、そのまま素直に受け入れられるのかというと、抵抗するのではないでしょうか?自分の思い、計画とはまるで反対のことを、命令されるわけですから、え~どうして~となります。

 

だから、この言葉になるのです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」そしてその理由に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」すなわち、ただユダヤ人とサマリア人とは、単に付き合わないとか、お互いにしゃべらないという関係だけではなくて、使う物を共有しない関係という意味もあるのです。つまり、ユダヤ人が使っているものと、サマリア人が使っているものは、お互いに触らないのです。それなのに、「水を飲ませてください」とイエスさまがおっしゃられる通りにすると、イエスさまは汲む物を持っていませんから、彼女が使う水を汲む物を、イエスさまも、触って、使っていくことになりますし、そこに入れた水を飲むことは、いわゆる回し飲みのような形になります。それでも、イエスさまは、「水を飲ませてください」とおっしゃられるのは、イエスさまが、彼女を同じ家族の一員として受け入れている言葉となっているのではないでしょうか?

 

だからこそ、彼女は、イエスさまに、「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、どうして、と言えるのです。そして、どうして、と言いながらも、イエスさまをあなたと呼び、自分のことを、わたしと言えるようになっているのです。そしてあなたであるイエスさまの前で、彼女は、サマリアの女ではなく、一人のわたしになれたのではないでしょうか?

 

家族の関係というのは、そういう関係ですね。お互いに呼び合いますね。家族を名前で呼んだり、名前を使わなくても、いろいろな呼び方をします。お~いと呼ぶこともあるでしょうし、お~いと呼ばれたら、はいはい、なに?と呼び合うこともありますね。いろいろありますが、そこにある関係は、あなたとわたしです。お互いにあなたとわたし同士が、いろんなものを共有して、いろんなものを一緒に使います。そして、家族ですから、お互いに遠慮はいりません。反対に、お互いに遠慮していたら、その関係には何かがありますし、それはストレスになっていきます。場合によっては、やっていられませんね。関西の言葉であれば、「やってられへん~」となります。

 

だからイエスさまは、彼女に、あなたはもうすでに、神さまの賜物を知って、水を飲ませて下さいといったのがだれであるか、イエスさまだということを、もうすでに知っていた!だから、あなたの方から、イエスさまに、生きた水を与えてほしいと頼むし、イエスさまは、あなたに生きた水を必ず与えると答えておられるのです。

 

でも彼女は、まだ分からないのです。でも分からないからと言って、何も聞かず、何も尋ねないのではなくて、もっと具体的に、尋ねていくのです。「あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」今目の前にある井戸から汲む水によって、ヤコブも、その家族も、命が守られ、支えられた水があるのに、「どこからその生きた水をお入れになるのですか」率直に、思ったことを、イエスさまに打ち明けているのです。その時、彼女は、イエスさまに向かって、「主よ、あなたは」と、イエスさまをあなたと呼んだだけではなくて、イエスさまが神さまだということを認めて、主よ、と呼びかけていくのです。分からないことも、疑問に思うことも、主よ、と打ち明けていくのです。

 

神さまに、主よと、何でも打ち明けていくこと、それは祈りですね。祈りは、何でも、打ち明けることができます。何でも、どんなことでもお話できます。なぜならば、その祈りをしっかりと受け止めて、聞いて下さっているお方が、私たちのことを、あなたと呼んでくださり、あなたと呼んでくださったお方の前で、私たちは、一人のわたしになれるのです。

 

だからこそ、イエスさまは、彼女の疑問にも、正直に答えていくのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」これまでこの井戸の水を飲んでいた、ヤコブを始め、沢山の方々も、渇いたように、今あなたが、この水を飲んでもまた渇く、だから繰り返し水を汲みに来て、水を飲み続けているじゃないかと。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、井戸の水とは全く違う、水を越えた、イエスさまから与えられる命の水を、飲む者は決して渇かないどころか、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出ること、そしてその水を、イエスさまから与えられたその時、その水は、神さまと共にある命に至る、決して渇くことのない水であるということを、彼女に答えていくのです。

 

彼女はまたイエスさまに、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と返していくのですが、その水をください、とだけ言っていません。「ここに汲みに来なくてもいいように」ということも、はっきり言っていくのは、それだけ、水汲みが辛いことだったし、それ以上に、人目に付かないように、誰とも会わないように、しなければならないという苦しみも、ここでイエスさまに言っているのではないでしょうか?

 

そこで初めて、イエスさまは、彼女が、どうして人目をはばかり、誰にも会わないようにして過ごしているのかということまで、踏み込んで、そして寄り添われるのです。だから「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃるのは、彼女が抱えている課題、彼女の誰にも会いたくないというその理由を、彼女自身から、彼女の言葉として、聞こうとしておられるのです。

 

だから言えたんですね。「わたしには夫はいません」、そして、これまで5人の夫がいて、そして今連れ添っているのは、夫ではないと。その彼女に、イエスさまは、「まさにその通りだ」すなわち、見事だ!ようこそ!とおっしゃり、「あなたは、ありのままを言ったわけだ」あなたは真実だと、おっしゃられるのは、彼女の過去を暴くとか、彼女が今結婚しないで、一人の男性と一緒にいるということを、責めておられるのではなくて、5人の夫と、それぞれ、その時、その時に出会い、結婚し、そして別れていくという、大変で、辛い経験と、今結婚しないで一人の男性と一緒にいる、という日々を送りながらも、彼女が、どんなに孤独であったか、その孤独の淋しさを紛らわすために、次から次へと男性を変え、今はそうなっているということに、孤独のイエスさまが、寄り添っておられるのです。そしてその真実を打ちかけてくれたことに対して、イエスさまは、ようこそ!見事だ!と受け入れて、迎えいれてくださっているのです。彼女はそれまで、こんな私は、イエスさまから怒られるかもしれないと思っていたかもしれません。こんなことを言ったら、イエスさまにそっぽ向かれると思ったかもしれません。でもイエスさまは、そうではありませんでした。ようこそ!見事だ!あなたは真実だと受け入れて下さっていました。うれしかったと思います。やっと安心できたと思います。

 

今年も、5月に教区総会が持たれました。そこでは東海教区に来られた先生が前に並ばれて、紹介されていました。お一人お一人の挨拶がありました。その様子を見て、初めて東海教区の総会に行った時のことを思い起こしました。少々緊張しながら、前に出て紹介されたこと、翌週にはまた婦人研修会でも同じように前に並んで、紹介されたことでした、2週続けてですから、同じ挨拶ができませんので、あれこれ考えたことを思い起こします。そんな初めての総会に、伺った時、案の定と言いますか、また道に迷いまして、白樺湖までは、大丈夫だったのですが、その池の平ホテルが、どこにあるか分からなくなりまして、右往左往してようやくたどり着いた時、バタバタしながら、会場に入りましたら、もうすでに、座っておられた一人の先生から、こう声を掛けて頂きました。「ようこそ、東海教区へ来てくださいました!」ニコニコしながら、迎えて下さった時、うれしい気持ちになりました。受け入れられていることを思いました。

 

サマリアの女性には、孤独と満たされない淋しさがありました。それは自分が愛されたいのに、受け入れられたいのに、愛されない、受け入れてもらえないという、孤独でもあったと思います。そんな彼女の過去、そして、今を、イエスさまは、ようこそ!見事だ!あなたは真実だと受け入れて下さったイエスさまが、そこにいました。そしてイエスさまは、「わたしを信じなさい」「礼拝する時が来る。今が、その時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と、神さまであるイエスさまが、「わたしを信じなさい」そして礼拝する者を「求めておられるからだ」という出会いを与えて下さいました。それはもうすでに、イエスさまの目の前にいるサマリアの女性を、イエスさまが求め、必要としておられる言葉となっていたのでした。

 

イエスさまは、私たちにも、あなたと呼び、求めておられます。どんなことでも打ちあけていいのです。イエスさまは、そのことを喜んで、受け入れて、見事だと、ようこそ!と受け入れてくださり、私たちが抱えている渇きに、渇くことのない命の水を与えて下さいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(6月16日)