2024年6月9日礼拝 説教要旨
神が真実であること(ヨハネ3:22~36)
松田誠一牧師
イエスさまは、弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに「滞在し」とあります。この滞在しという言葉の意味には、時を費やす、時を過ごす、という意味もありますから、ユダヤ地方に行って、そこに滞在したイエスさまと弟子たちは、そこで、時間を費やし、過ごしているということになります。
それは、ただ無駄に時間を費やしていたのではなくて、「洗礼を授けておられた」からです。なぜならば、イエスさまのところに、たくさんの方々が洗礼を受けたいと来られていたからです。それだけの方に洗礼を授けるということになると、物理的な時間がもちろんかかります。今ではなかなか想像できませんが、例えば、日本では戦後に、一度に20何人の方が洗礼を授けることもありました。1つのエピソードとして、それだけの方々に洗礼を授けるという時、授けられる先生が、その人の名前を間違ってはいけないということで、毎回、名前を確認されたこともあったとのことです。そういう意味で、それだけの方に、洗礼を授けるということは、それだけ時間がかかるということで、時を費やし、時を過ごして洗礼を授けていたということです。そして、もう1つのことは、御言葉と共にある水を、父と子と聖霊の名によって、一人一人に洗礼を授けていくこと以上に、洗礼を受けるまでの、その準備教育にも、イエスさまや、イエスさまの弟子たちが、時間を、一人一人に費やしていたからではないでしょうか?
ここに江連先生が使っておられた洗礼を受けたい方のための、学びのテキストがあります。その中身を見ますと、細やかに、聖書について、神さまについて、洗礼の意味といった、聖書の基本的な教えの内容がまとめられています。そういう学びは江連先生だけではなくて、いろいろな先生が、それぞれの切り口で、纏めていらっしゃいます。その学びを、洗礼を受ける前に、そして洗礼を受けた後にも、なされていくのです。
それはなぜかというと、洗礼という神さまからのお恵み、神さまの赦しを受けたいという方が、その内容を学ぶことによって、その意味を知ることができるからです。言い換えれば、神さまから与えられるお恵みは、こんなに素晴らしく、大きなものなのか!ということを、何も知らずに受けるのではなくて、ある程度、こういうものなのか・・・ということを学び、受け取ることによって、洗礼のその素晴らしさを、よりよく受け取ることに繋がっていくからです。
ある時、このことを牛肉に譬えて、説明したことがありました。「あのね~同じ牛肉を食べるにしても、その牛肉が、オージービーフか、松阪牛かを知って、味わうのと、何も知らずに味わうのとでは違うでしょう~松阪牛という高級なお肉だと聞いたら、それなりに思いますよね~」そうしますと、なるほど・・・とうなずかれることでした。ただお一人だけは、同じことを申し上げましたら、「僕は、どんなお肉でもおいしい!松阪牛であろうが、オージービーフであろうが、どちらでも全然気にしません。何でもおいしい~」そうおっしゃる方がいて、お互いに苦笑いでした。そういう個人クラスを持つという意味は、もちろんその内容を学ぶということですが、それと共に、それぞれの方々の生きて来られた背景と、今、何を感じ、神さまと、どう向き合っているかということも、お互いに確認できる時でもあるからです。そういう学びですから、時間がかかるものですし、時間をかける必要もあります。
そう言う意味で、イエスさまが洗礼を授けておられたというのは、ただ洗礼式があった、というだけではなくて、そのための準備の時を、一人一人を大切にされ、向き合われていたということが、時間を費やし、時間をかけて「そこに滞在して」いたということなのです。
他方、ヨハネ、すなわちバプテスマのヨハネは、「サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた」とありますから、イエスさまや弟子たちとは違うところ、サリムの近くのアイノンというところで、洗礼を人々に授けてはいますが、そのために時間を費やしたとは、書いていません。しかしそれは時間を、費やさなかったことで、怠けていたというのではありません。その理由は、「そこは水が豊かであったからである」ということと、ヨハネはまだ投獄されていなかった、つまり、投獄されるまでの時間、残された時間があまりないヨハネは、一人でも多くの方に、悔い改めの洗礼を授けようとしたのではないでしょうか?そして、一人でも多くの方が、イエスさまのもとに導かれ、イエスさまから洗礼を受けてほしいと、限られた時間の中で、心から願っていたからではないでしょうか?
そう言う意味で、ヨハネにとっては、自分のところに来るよりも、直接イエスさまのところに人々が集まり、イエスさまから洗礼を受けることが、彼の望んでいることなのです。
ところが、そのヨハネの弟子たちと、「あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」
清めのことで論争が起こったというのですが、その内容は、人々に授ける清め、洗礼のことについて、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間の論争ですが、具体的には、清め、洗礼の内容についての論争ではないのです。というのは、ヨハネの弟子たちは、ヨハネがアイノンで、人々に洗礼を授けていた時、時を同じくして、イエスさまは弟子たちと一緒に、ユダヤ地方で洗礼を授けていたことに対して、イエスさまの方に、みんなが洗礼を受けるために、行っていることを、「みんながあの人の方に行っています。」つまり、みんなが、ヨハネのところに来ないことを、ヨハネに訴えていくのです。
ヨハネの弟子たちは、イエスさまの方に、みんなが行ってしまうのが、受け入れられなかったのでしょうか?どうしてヨハネのもとに来て、ヨハネから洗礼を受けないのか?と思ったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちがどう思い、どう感じていようとも、ヨハネにとっては、自分のところに、みんなが来ないということに、何か不満を言っているわけではなくて、むしろ、イエスさまの方に、みんなが行って、イエスさまから洗礼を受けることがいいのです。ヨハネは、そのイエスさまを紹介し、イエスさまを指し示すために、来ているわけですから、ヨハネのところに、人々が来なくても、それはそれでいいのです。だからヨハネは、自分の弟子たちに、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」イエスさまは栄え、わたしは、光が消えていくように、衰えねばならないと語るのです。
そういうヨハネの弟子なのに、どうして「みんながあの人の方に行っています」と言うのでしょうか?ヨハネのもとにみんなが来た方が、ヨハネの弟子として、みんなから認めてもらえると思っているからでしょうか、目立ちたいからでしょうか、有名になりたいからでしょうか?あるいは、何か利益を得たいからでしょうか?この欲望は、彼らだけのことではありません。私たちにも、私たちの周りにも、同じことがあるのではないでしょうか?
ある方が、私におっしゃってくださったことがありました。「私はね~よく頼まれるんです~それはお店がオープンする時に、お店に来てほしいと。なぜかというと、私がそのお店に並ぶと、後ろにお客さんが、並ぶからです。それで桜で来てほしいと頼まれるんです。」その人がそこにいると、不思議と人が集まって来るということなのですが、そう言う桜役は、あると思います。人が人を呼ぶという言い方がありますが、そのお店の前に人だかりができると、道行く人も、何だろう?と思って、その人に引き寄せられていくことがあります。それはそのお店にとって、特にオープンの時には、人がたくさん来てほしい、お店のものを見たり、買ってほしいというのはあると思います。でも桜は桜です。咲くその時は、綺麗に咲きますが、それはいっときのことですから、すぐに散ってしまいます。それでも桜を必要とする人がいるのです。
それはお店だけのことではなくて、人もそうです。自分のところに人が集まってほしい、人気を得たい、みんなから認められたい、何か利益を得たい、と思う思いは、ヨハネの弟子たちと、どこかで重なるのではないでしょうか?
それでもなおヨハネは、自分の弟子たちに、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」イエスさまは栄え、わたしは、光が消えていくように、衰えねばならないと語り、自分はメシアではないこと、イエスさまの前に遣わされた者であることを、あなたたち自身が証ししてくれる!証言し、語ってくれると信頼しているのです。
それは、ヨハネが、これから、消えゆく者であるけれども、そして投獄され、目に見えなくなって、消えてしまっても、それでもヨハネの後に続く者を通して、イエスさまが指し示しされていくことを、信じている姿ではないでしょうか?
その姿をヨハネは、弟子たちに見せたのです。そしてそのヨハネの見える姿を通して、見えない神さまが、イエスさまを遣わし、イエスさまが救い主、メシアであることを、後に続く者たちも、伝えていくということを、ヨハネは証ししているのではないでしょうか?
先週、教区婦人研修会に何人かの方々とご一緒に伺いました。そこでの講演の中で、印象に残った言葉がありました。それは、神さまを信じる信仰生活も、神さまありがとうという感謝も、見えるものになるということでした。
その時ふと、小豆島にある教会に連なっておられる方のことを思い起こしました。その方は、いつもお年を召されたお父さんを車に乗せて、教会の礼拝に行かれる方でした。「私の近所の方はね、私が教会に行っているということを知っているから、日曜日の朝、父親を軽トラに乗せて、教会に連れて行くと、それを見ているんだ。だからああ今日も教会に行っているなということも知っているんだ~そして教会から帰って来ることも、知っているんだ~それが、僕にとっての証しだと思っているんだ~」そうおっしゃっていました。そのように、神さまは目には見えなくても、車で教会に行くという見えることが、見えない神さまを証ししていることになるんです。
神さまは目には見えなくても、神さまを信じて、イエスさまを信じていくことを通して、与えられる神さまのお恵みは、私たちの目に見えるものなのです。そしてその目に見えるものを見た、方が、目には見えなくても、共にいてくださる神さまに出会っていくのです。
それは教会の礼拝も、です。教会の礼拝は、その半分の時間は音楽会です。なぜかというと、讃美歌を歌いますね。その讃美歌をオルガンに合わせて賛美することが、毎週、毎週続けられています。ということは、毎週毎週、神さまを讃美する讃美歌の音楽会も、やっているのです。その讃美の声は、ここから広がっています。聞こえています。そしてその讃美歌を歌う、その姿も、見える姿です。祈る姿も、見える形です。
だからこそ「わたしは衰えねばならない」というヨハネの言葉は、衰えるべきだとか、人前に出てはいけないという意味ではなくて、神さまが確かにいらっしゃることが、たとい、自分自身が衰えたとしても、その姿を通して、見えない神さまが、見えるようになるという、信仰の言葉となっているのです。
今日は花の日礼拝でもあります。お花が届けられました。きれいなお花です。このお花は、今、美しく咲いていますが、やがては花がしぼんで、消えてなくなります。でも、この花が、たとい消えてなくなる花であっても、この花を美しく咲かせてくださるお方、神さまがいらっしゃるということを、この花は、見えるその姿を通して、証ししています。そして、神さまが咲かせてくださるお花を、受け取り、受け入れることを通して、神さまを受け入れていくのです。
見えるものを通して、見えない神さまが確かにいらっしゃることが、証しされています。その神さまの真実を、見えるお花も、信仰生活も、感謝も、それぞれを通して、それぞれが用いられて、神さまの真実が証しされていくのです。
祈りましょう。