2024年5月19日礼拝 説教要旨

主の平和(ヨハネ14:15~27)

松田聖一牧師

 

ノーマ コーネット マレックという方の書かれた詩をまとめた本として、「最後だとわかっていたなら」というものがあります。そこには、著者の思いが1篇ずつ紹介されています。また、その詩には、著者が子どもさんを亡くされてからの思いを重ねておられ、この詩を読まれる皆さんが、無関心や忙しさから愛する人にその愛を伝えることを忘れてしまわないように、そして、この詩が、それを伝えるきっかけとなるようにと、祈りながら、書き綴っておられます。その1つにこんな言葉があります。

 

あなたが ドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら わたしは あなたを抱きしめて キスをして そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

 

ということは、この時、ドアを出て行くのを見るのが、最後だと分からなかったのです。またいつものように帰って来ると思っていました。だから抱きしめることも、もう一度呼び寄せて、抱きしめることも、できなかったのです。それは愛することが、最後のその時に、出来なかったということでもあるでしょう。

 

最後のその時に、何もできなかったというのは、悔やんでも、悔やみきれません。あの時、なぜ抱きしめることができなかったのか?なぜ抱きしめようとしなかったのか?愛を最も必要とした時に、何もできなかったというのは、言葉にできないほどの、深い傷となっていくと思います。

 

それはイエスさまの弟子たちもそうです。イエスさまが、捕らえられ、十字架につけられ、最も助けを必要としている時、愛されることを、最も必要としている時に、彼らは、イエスさまを、助けることも、愛することも、そして守ることもできませんでした。何もできませんでした。

 

そんな彼らに、イエスさまは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とおっしゃられるのは、もしも、あなたがたが私を愛しているならば、・・・という意味ではなくて、イエスさまを愛するということが、今はそうでなくても、あなたがたが未来において、これから、イエスさまを愛するという可能性と、未来を、イエスさまの方から、その時を与えて下さるという約束です。たとい今は、そうでなくても、そのままじゃない、これからイエスさまをあなたがたは、必ず愛するようになると、イエスさまの方から信頼しておられるということでもあるのです。

 

そのために、弟子たちに愛されなかった、イエスさまの方から、イエスさまを愛せなかった弟子たちのために「わたしは父にお願いしよう」神さまに乞い求めよう、と弟子たちを守り、弟子たちを、そばに呼んでくださる弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださるように、「お願いしよう」わたしは必ず神さまにお願いします、乞い求めます、とおっしゃっておられるのです。

 

これは本当に凄いことですよね。イエスさまを愛することができなかったその弟子たちのために、イエスさまは、父なる神さまにお願いしようと、彼らのそばに、永遠に共にいてくださる弁護者を遣わして下さるように、神さまに願ってくださるのです。そして「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」んです。

 

どうしてここまでされるのでしょうか?弟子たちは、イエスさまを守ることも、助けることも、何もできませんでした。それなのに、どうして、イエスさまは、神さまにお願いしようと、イエスさまの方から願ってくださるのでしょうか?それは、イエスさまを愛することができなかった弟子でさえも、イエスさまはこれから、弟子たちを神さまのご用のために、用いて、遣わそうとしておられるからです。つまり、ひと言でいえば、イエスさまは、弟子たちに、「これから」を与えておられるからです。弟子たちには、これからがある!これから、やることがあると、ここで終わりではなくて、これからを、与えて下さるのです。でもそのこれから、には、弟子たちにとって、いいと感じることばかりではありません。むしろ、「世は、霊を見ようとも、知ろうともしないので、受け入れることができない」即ち、神さまを受け入れることができない、知ろうともしない、受け入れることができない、という現実に、弟子たちは出会うのです。

 

どうしてでしょうか?真理の霊、すなわち、神さまの真理が告げられ、与えられるとき、その真理に対して、世は、これは人々と言ってもいいと思います。この世の中で、生きて過ごしておられる方々は、「見ようとも、知ろうともしない」「受け入れることができない」というのは、神さまの真理が語られ、与えられると、与えられる側の人にとっては、その真理が恐ろしくなることがあるからではないでしょうか?というのは、神さまの真理は、人を全て照らし、貫き通すものです。別の見方をすれば、神さまの真理の言葉に向き合うということは、自分が逃げも隠れもできない、神さまと向き合うことになります。その時、神さまの素晴らしさ、神さまがどんなに私たちを赦して下さっているかということが、分かるようになる恵みが与えられますが、同時に、赦されなければならないことも、分かって来るのです。でも、それが分かってしまうことに対して、それは困ると受け止めてしまうことがあると、そこから逃げ出したくなりますし、実際に逃げ出してしまうことがあるのではないでしょうか?

 

それは、宮崎駿さん作の映画、となりのトトロともう1つの作品にも出てきます、まっくろくろすけ、の動きとよく似ています。まっくろくろすけは、小さな真っ黒いものですが、それまで扉や雨戸が閉められ、真っ暗だったところに、太陽の光が部屋の中に差し込んだ途端、先を争うようにして、あっという間にどこかへ行ってしまいます。まっくろくろすけは、トトロに登場してくる2人の子ども、サツキとメイには見えたように、わたしたちも、子どもの頃には、見えたものですね。「明るい所から急に暗い所に入ると、目がくらんで『まっくろくろすけ』が出るのさ」というセリフの通り、明るいところから、急に暗いところに入ると、そこに黒い小さなものが見えたことです。でもそれがあっという間にどこかに行ってしまうというのは、私たちの目が、光に慣れることでそうなるということと、まっくろくろすけの立場に立てば、そもそも、そのまっくろくろすけにとっては、光の中では過ごすことができないのです。光が当たったら、困るので、そこから逃げていくのです。

 

聖書の言葉を通して、神さまが語られ、その真理が差し込んできた時、時と場合によっては、そこから一目散に逃げだしてしまうことも、そういう動きと同じです。ですから、弟子たちが神さまによって遣わされていく時に、出会う人々にとっても、神さまの真理に照らされたら困る、人々にとっては、それを語り、紹介しようとする弟子たちの前で、神さまを見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができないという、人々の、人間の現実に直面するのです。あるいは、その人々から、迫害を受け、苦しむことがあるし、孤独になることもあるのではないでしょうか?

 

そう言う意味で、キリスト教が迫害を受けていたという理由にもなります。それは神さまの真理が、時と場合によっては、その人にとって恐れとなり、脅威となってしまうからです。でも本当はそうじゃありません。神さまが赦して下さり、受け入れて下さっている恵みそのものです。でも赦されなければならない、何かがあって、そればかりを見てしまうと、そういうものを持っている自分自身と、それを明らかにしようとする神さまの真理に対して、抵抗していくのではないでしょうか?

 

そうであっても、神さまは、「あなたがたと共にあり、これからも、あなたがたの内にいる」んです。弟子たちは、この神さまによって遣わされていくんです。だから、たとい一人に感じてしまうことがあったとしても、あなたがたは独りじゃないのです。神さまが、共にいて、神さまが、これからもあなたがたの内におられるのです。そのことをイエスさまは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」みなしご、親のいない子、助ける人のいない、孤独のひとりぼっちの状態にはされないと約束しておられるのです。

 

ただですね。それがすぐにわかるかというと、必ずしもそうではありません。理由があります。それは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という、言葉のすぐ前には、実は、日本語の聖書では現れていない、空白がもともとの聖書の言葉にはあります。空白があるということは、そこには何かがあるということと、その空白を経て、あなたがたをみなしご、ひとりにはされない、孤独にはされないということが、分かるようになる出来事の間には、時間も必要であるということではないでしょうか?というのは、みなしごという、言葉には、親がいない、という意味だけではなくて、「父親のない、父親がいない」という意味もあるからです。だからイエスさまは、「あなたがたをみなしごにはしておかない」とおっしゃってくださる時、現実に、父親がいないということに、直面したご家族は、それをどう受け止めかというと、イエスさまが、確かに共にいてくださり、ひとりにはしておかないということは、その通りであっても、でも現実に、父親がいないということは、そのご家族にとっては、そのままはいそうですかとは、言い切れないものではないでしょうか?

 

ある方のお父さんが、若くして、事故で亡くなられた時のことを話してくださいました。亡くなられた時には、ご本人はまだ子供の時でした。その時のこと、なくなってからのことを、ふとこうおっしゃられたのでした。「お父さんがいなくなってからは、本当に惨めだった・・・」それはそうです。一家の大黒柱がいなくなっても、残された家族は、その悲しみを悲しむという余裕もなく、悲しむこと以上に、生活をどうするか?どうやって食べていくのか?ということが、待ったなしです。現実のいろいろなこと、目の前のことを何とかしていかなければなりません。それに追われてしまいます。それも、お父さんがいないということで、世間の風にもさらされていきます。そういう悲しみと、現実の苦しみ、生活をどうするか?という問題に、残された家族はすぐに直面させられてしまうのです。

だからこそ、イエスさまが、あなたがたのところに戻って来て、イエスさまが生きて、共にいてくださるから、またイエスさまが、「父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言われることと、みなしごにはしておかない、ということの間には、空白があるのです。時間が必要なのです。そういう意味で、父親がいないということを、みなしごにはしておかないという約束があっても、そんなに簡単に納得し、片付けられるものでは決してありません。当然疑問も出て来ると思います。なぜ私の父親はいないのか?なぜ他の家には、父親がいるのに、なぜ自分のところにはいないのか?他の家族と自分とを比べながら、なぜそうなのか?と疑問をどこかにぶつけていくのではないでしょうか?

 

それはイスカリオテでない方のユダが、イエスさまに、ぶつけた疑問もそうです。「主よ、わたしたちには御自身を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」イエスさまがわたしたちには現わすのに、どうして、それと同じではないのか?どうしてそうなるのか、分からないのです。だからなぜでしょうかと尋ねるのですが、イエスさまは、彼の、なぜでしょうか?に対して、理由をおっしゃられないのです。つまり、彼の質問には答えておられないということは、なぜでしょうか?という彼の、その疑問に対する答えがないのです。答えがないということは、彼には分からないままになります。当然イエスさまがおっしゃったことに対して、納得もできていませんから、なぜでしょうか?という疑問を抱え続けていくのではないでしょうか?しかしそうであっても、彼は、イエスさまに、主よと、イエスさまを神さまと認め、受け入れながら、なぜでしょうか?とぶつけているのです。そしてそんな彼にも、イエスさまは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」こちらが、どんなに分からなくても、疑問を抱えながら、納得できていなくても、それでもイエスさまは、父なる神さまと一緒に、「その人のところに行き、一緒に住んで下さる」んです。一緒に住むということは、家族として、迎え、家族として、受け入れ、神さまの家族として、あなたは神さまの家族の一員となったのだということを、語り、宣言してくださっているのではないでしょうか?そして一緒に住むという、生活を通して、共に歩むということを通して、神さまが一緒にいるということに、気づかせて下さる時を与えて下さるのではないでしょうか?

 

もちろん、そういう形で迎えられても、なおも疑問は残るでしょう。イエスさまを受け入れ、愛さないということも、イエスさまの言葉を守らないということもあると思います。しかし、そうであっても、神さまの家族として、迎えいれていてくださるのです。そして家族として、一緒に住み、一緒に暮らしながら、そこで語られた言葉を通して、イエスさまがおっしゃられた言葉を思い起こさせてくださり、思い起こすということの中に、一緒に住んでくださるイエスさまが、本当に、一緒にいてくださったのだ、家族として、迎えいれてくださっていたのだということが、分かるようにしてくださるのです。それが「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」イエスさまから私たちに与えられた神さまの平和、平安なのです。

 

ある教会の幼稚園に勤めておられる先生が、子供たちとの出会いと関わりを通して、与えられたことをこう書き綴っておられました。

「もうすぐ卒園式がやってきます。わたしにとっては3回目の卒園式です。この3年間、いろんなことがありました。失敗は、悔やんでも悔やみきれませんが、失敗の中にも、神さまが働いて下さったことを感謝しています。

幼稚園の生活の中で、私は子どもたちを通して、様々なことを教えられました。子どもたちはそれぞれに個性を持っていて、感じ方、興味、行動、すべてが違います。それに伴って、一人一人に対する接し方も違ってくるわけですが、「どうしてこの子はこのように行動するのだろう?」と分からない時も多々あります。そのような時、祈るしかありません。すると、神さまが良い考えを与えて下さることもありますし、冷静な気持ちを与えて下さることもありますし、周りの子どもたちの気持ちを動かして下さることもあります。そのような時、「本当に神さまは生きて、働いて下さっているんだ」と思い、感謝することができました。

先日、礼拝の時間に1人の男の子が、こうお祈りしてくれました。「神さま、今日みんな来れてありがとうございます。どうか、みんな天国に行けるようにしてください。」この男の子の素直な祈りに、心が洗われるような気がしました。神さまを信じている私たちの願いは、1つだけです。子供たちも天国に行きたい、と思っています。本当の天国のことを、子供たちや友人に伝えていける器になれれば・・・と願っています。」

 

共に住むこと、一緒に歩むこと、それは、そこにどうして?なぜでしょうか?がなくなる歩みではありません。むしろ、どうしてですか?なぜですか?がどんどん増えて来て、それを神さまに祈るしかないというところへと、導かれる歩みです。その中で、神さまが真実なお方であり、今も生きて働いておられる神さまだということが、分かるように、疑問を抱きながらも、それを受け容れて下さっている神さまが、一緒にいてくださること、神さまの家族として、私を受け入れて下さるお方だということが、分かるようにして下さいます。祈りましょう。

説教要旨(5月19日)