2024年3月3日礼拝 説教要旨
つぶやきの中に(ヨハネ6:60~71)
私たちは、お互いに違いますね。人の違い、あるいは個性というものについて、十人十色と呼ばれます。本当にその通りです。10人いれば、色も10あります。同じ色の人は誰一人いません。いろいろです。人生いろいろと歌った歌がありましたね。その通り、人も本当にいろいろです。そのいろいろから、1つのことをご紹介します。
ある時に、キャンプ場でカレーを作ることになりました。カレーの具、たまねぎとか、ニンジンとか、ジャガイモなど野菜を切る人やら、火を興すのに一生懸命になっておられる方、段ボールで空気を送ったり、薪の順番にこだわりをもって、やっておられる方やら、片付け専門の方やら、10数人で手分けしていろいろやっていました。その中でみんながされることを眺めるだけの人もいるんです。1人じゃなくて、2人か3人おられて何をしているかというと、みんなの作業を監督すると言えば、聞こえがいいかもしれませんが、ようは見物しながら、お互いに、作業をしておられるその内容について、火を起こす時には、こうしたらいいとか、ああだ、こうだと、監督をしながら、世間話をしている、そういう人もいるのです。そんなカレーを作るという1つのことでも、本当にいろんな人がいるなと思います。同じ人は誰一人いません。本当にいろいろです。
イエスさまについて来た弟子たちも、本当に個性豊かで、いろいろです。そのいろいろ中には、12人弟子たちだけではなくて、イエスさまが神さまの働きをされる中で、イエスさまに従って来た多くの弟子たちも、そこにいるのです。
この多くの弟子たちのことを、(60)に「弟子たち」と語られていますが、その多くの弟子たちは、イエスさまが私に従ってきなさいと、召された12人の弟子たちとは、召され方が違うのです。というのは、12人の弟子たちは、イエスさまから、わたしについて来なさい、わたしに従いなさいと、イエスさまの方から呼びかけられて、従った弟子たちですが、その一方で、12弟子ではない、多くの弟子たちは、自分たちの方から、イエスさまに従おうとして従って来た弟子たちです。それは自ら従いたいと願う、その意志がはっきりしている弟子たちであると言えるでしょうし、逆に言えば、従いたいという自分の意志次第で、従いたいという思いが変わるという可能性もある、弟子たちでもあるということではないでしょうか?
そういう姿が、多くの弟子たちの、「多くの者が」という言葉に現れているのです。というのは、この多くの者が、を、詳しく見ると、イエスさまの弟子たちの中から、外へ出た、あるいは分かれた、弟子たちと言う意味なのです。つまり、それまでイエスさまに従って来たのに、ここでは、イエスさまの弟子から、出てしまっているのです。その出てしまった時に、彼らの口から出る言葉が、イエスさまのカファルナウムで語られた言葉に対して、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」すなわち、イエスさまが、これまでおっしゃっておられたことに対して、彼らはひどい話だ、別の意味では、耳障りの、不快な耐えがたい話だと、受け止めているのです。でもそれはイエスさまがおっしゃられたことが間違っているとか、おっしゃられたことそのものが、ひどい内容であるということを言っているのではありません。そういうことではなくて、彼ら自身が、イエスさまのおっしゃっておられることを、受け入れられないので、彼らは、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言っているのです。それでは、イエスさまの何に対して、受け入れがたい、ひどい言葉だと受け止めているのかというと、イエスさまを通して与えられる神さまの恵みの言葉、神さまの恵みそのものに対して、なんです。
なぜかというと、この箇所のすぐ前にイエスさまが、カファルナウムの会堂で語られた聖餐の恵みの言葉「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」が、聖餐を通して与えられる、神さまの恵み、罪の赦しのことなのに、またその恵みを頂くことで、神さまと共に生きること、神さまと共に生きる力、生きようとする勇気が与えられるのに、それを神さまの恵みとして受け取れなくなっているのです。
ここで神さまの恵みについて、確認しましょう。神さまの恵みとは、神さまから与えられたものを、信頼をもって受け取ることです。神さまはいつも、わたしたちにとって、必要な恵みをあげようとおっしゃっています。是非受けとってほしいと願っています。そしてその恵みを受け取ることで、私たちに必要なものが、神さまから与えられています。ただし、その恵みは、私たちに必要だという判断で、神さまから与えられたものでありながらも、自分にとって、いつも心地良いものであるかというと、必ずしもそうではありません。むしろ、自分にとって、嫌なこと、避けたいこと、与えられて欲しくないものもあります。与えられたくないものが与えられた時、受け取りたくないと思うのは自然なことですし、神さまから与えられた恵みとは受け取れないこともあるのではないでしょうか?
「教会生活を省みて」というタイトルで、こんな証しがあります。
私たち夫婦が初めて教会の門をたたいたのは、1965年の6月でした。その頃、私の家庭に1つの試練が与えられていました。主人の転勤で大阪からここに参りました頃、全国友の会の会員であられた方から、「教会にいらっしゃいませんか」とのお誘いを頂き、教会の存在すら知らなかった私が、即座に「はい、参ります」と夫と2人で礼拝に出席し、今まで感じたことのない温かいものを全身に受け、現在に至っております。その頃、娘は高校、息子は中学生でした。翌年4月、家族4人揃っての洗礼は、私たちが驚くほどの祝福をいただきました。いろいろな試練の時に、今は亡き先生からいただく御言葉は、いつも「我が恵み、汝に足れり」でした。辛い時には、「これも恵みですか?」と何度神さまに訴えたことでしょう。今は、いつも神さまがそばにいて下さることが確信でき、感謝です。だんだん年を重ねて、何もできなくなっても、どのような状態に置かれても、召されるまで祈ることができる幸いを感謝しております。今は、何ごとも頑張ろうではなく、ありのままの姿で他者のために祈る日々でありたいとねがう毎日です。
「これも恵みですか?」神さま!と訴える時が、私たちにもあります。神さまからの恵みであるということが、分からないこと、受け取りたくないことが、1度だけではなくて、何度も何度もあります。
多くの弟子たちも、そうです。イエスさまを通して、与えられている神さまの恵みが、恵みとして受け取れないでいました。しかし、それに対して、イエスさまは、「実にひどい話だ」などと、言ってはダメだとか、そういうことをつぶやいていてはダメだと言っているのではないです。そういうことではなくて、彼らのつぶやきが、イエスさまに向かっているのではなくて、「弟子たちがこのことにつぶやいている」すなわち、自分たちの間で、お互いにああでもない、こうでもないと、つぶやき合うことに、とどまってしまい、そこから一歩踏み出せないでいることに気づいておられるのです。その様子は、こんな感じです(イラスト)。お互いに向かって、ああでもない、こうでもないに、とどまってしまうと、お互いのことばかりが気になってしまい、それがエスカレートすると、お互いに傷つけあってしまいますし、お互いのあら捜しになっていくのです。そこからつまずき、自分たちの道に罠を、お互いにしかけてしまい、人がつまずく原因を作ってしまい、その結果、神さまの恵みが見えなくなり、分からなくなってしまうんです。そのことをイエスさまは、「あなたがたはこのことにつぶやくのか」と、彼らが今、自分たちだけで、つぶやいている事実をはっきりと示されるのです。
イエスさまは、彼らが、そうなっていることに気づいておられるからこそ、自分たちの間だけで、そのつぶやきをつぶやくのではなくて、そのつぶやき、不平を、小声でささやくのではなくて、堂々と、イエスさまに持って行けばいいということなのです。こんなことを言ったらダメじゃないか?とためらう必要は、決してありません。イエスさまに、自分たちのそのつぶやき、不平を、そのまま話したらいいのです。そこにイエスさまは、導いておられるのです。
そこから、上を見上げられるように、神さまを見上げて、神さまに向きを向けられるようにと導かれるのです。そのために、「もといたところに上るのを見るならば・・・」イエスさまが、神さまのもとに上ることを見て、経験してほしいのです。さらに言えば、ここでの「見る」という言葉は、見出すとか、認めるという意味もありますから、イエスさまが神さまのもとに上ることを、見出して、そのイエスさまを受け入れてほしいのです。ただし、見出すということは、パット見て分かるというものではなくて、何度も何度も探してようやく見出すというものです。ですから、その間には、受け入れがたいこともありますし、信じられなくて、抵抗することもあるでしょう。なかなか見つからないということ、分からないということも経験するのではないでしょうか?
それが、イエスさまのところにいた多くの弟子たちも、またイエスさまの12人の弟子たちも、経験したことなのです。だからその事実を、イエスさまは「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」「裏切る者」もいる、イエスさまのもとから弟子たちが多く離れ去り、イエスさまと共に歩まなくなった者もいるとはっきりと書かれているのです。またペテロのように、ここでは「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えていますが、イエスさまが十字架につけられ、十字架に上げられた時には、「わたしはイエスさまを知らない」と3度も否定してしまうこと、そして、イエスさまを裏切ったユダのようになってしまうこと、といったそれまで言っていたこと、やっていたことと全く逆の姿が、はっきり語られているというのは、そういう姿が、人間にはあるからではないでしょうか?
それでも、どんなに多くの弟子たちが、イエスさまから離れ去ったとしても、12人の弟子たちが、イエスさまから離れてしまったとしても、イエスさまは、今、ここで、彼らと共におられるのです。共におられて、神さまの言葉を語り続けておられるのです。12人には、「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか」わたしが選んだのではないか!と、どんなに離れ去っていく弟子であっても、裏切っていく弟子であっても、それでも、イエスさまが共におられ、「わたしが選んだのではないか」と語り続けておられるのです。
そのイエスさまが、ここにおられることを、彼らは見ていました。でも見出していませんでした。それでもなお、イエスさまはいつも彼らと共におられ、どんなにつぶやこうが、彼らを見捨てず、見放さなかったのです。
ノルウェーから鳥取というところに、遣わされた一人の宣教師の方がおられました。ストラウムというお名前の先生です。彼女は、ノルウェーの小さな島でお生まれになられ、小さい頃から教師になりたいと願っていましたが、兄弟が多くて、家計を助けるために、進学をあきらめて町の工場で働いていました。それでも夢かなって学校の教師になりましたが、その時は30歳を過ぎていました。その時宣教師への道が開かれていったのですが、宣教師になる事に対しては、抵抗し続けていました。「神さまどうして私なのですか?他の人ではいけないのですか?朝も昼も夜も、苦しみ続けました。悩み続けました。その抵抗を神さまに始めた時から、神さまと共にある平安がなくなってしまいました。それでも抵抗し続けていましたが、ある日とうとう、神さまに、「神さま、分かりました。宣教師になります」降参した時、再び心の平安を取り戻したのでした。でもそれからも苦労が絶えませんでした。遅いスタートだったために、日本語がなかなか身に付かないでいました。そんな中で、鳥取に遣わされて、宣教師館で、一人の女性の方の求道者会があった時、先生は、学んでおられたその方と天国について学んだ時、こうおっしゃいました。「わたしはこういうふうに考えます。天国というのは、イエスさまがおられ、そのまわりにイエスさまを信じる人たちがいるところです。そこではいつでもイエスさまのお話を聞くことができ、イエスさまの姿を見ることができます」たどたどしい日本語で、自信のなさもあってか、ともすれば、語尾が消え入りそうでした。でもその時、学んでおられたその方にとって、そのことを語るストラウム先生の表情に魅せられてしまいました。イエスさまのことを語る先生の喜び、その喜びの声に、たとい日本語はたどたどしくても、その姿を通して、イエスさまを信じてみたいと思われるようになり、後に洗礼をお受けになられました。そのお祝いの会で、この時のことを振り返りながら、こうおっしゃったのでした。「その時、私は自分がどこにいるのかを忘れてしまっていました。あたたかいものを体中に感じ、先生と一緒に、まさに天国にいるような気持ちになっていたのです。先生の隣に、イエスさまや大勢の信徒の姿が見えるようでした。先生は天国を本当に信じておられるのだと、そのことが良く分かりました。先生にとって、天国とは、信仰によって想像で思い描くものではなく、現実だったのです。帰り道、雪の中を歩きながら、涙が止まりませんでした。理屈では分かっても、それまでどうしても実感できなかったこと、神さまがおられること、天国があることが、わたしに初めて信じられたのです。」
イエスさまは、招かれた12人の弟子たち、そしてイエスさまに従いたいとイエスさまのもとに来た多くの弟子たちと共に、いました。彼らがどんなに、抵抗したとしても、裏切ったとしても、イエスさまを見出せなくても、それでも、まことの神さまであるイエスさまは、変わることなく、彼らと共におられました。
イエスさまはそういうお方です。どんなにつぶやいても、つまずきとなっても、どんなに抵抗しても、どんなに裏切っても、どんなに裏切ろうとしても、それでも、私たちから離れず、離れようとせず、神さまの恵みを与え、神さまの恵みを語り続けておられます。それが天国なのです。天国とは、想像の世界ではなくて、今、ここにイエスさまが私たちと共にいてくださること、そのものです。