2023年12月17日礼拝 説教要旨

この一歩のところから(ヨハネ1:19~28)

松田聖一牧師

 

ある会議に、何度か出席させていただきました。そこでは報告、審議などがあり、進められていきます。その時、進行役をされる方から、いろいろな報告などの後、こうおっしゃられました。「何かご質問はありませんか?」そうしますと、手をあげられる方がいますが、手をあげられる方は、だいたい決まっていますね。毎回手をあげる方もいらっしゃいます。手をあげて何かをおっしゃりたいんだろうな~あるいは自分はここにいるぞ~という思いで手をあげられるのかなとも思いますが、でもそれ以外の方々は、し~んとしています。それはどこの会議でも見られるものですが、何も言われない方は、何も思っていないわけではないんです。何かを感じ、何かは言いたいのではないでしょうか?でも手を上げないというのは、どうしてなのか?いろんなことが考えられますが、目立ちたくないとか、あまり手を上げてしまうと、役が回って来るとか、早く終わってほしいという方もいらっしゃるのかもしれません。あるいは自分の感じていること、聞きたいことを、自分以外の誰かがしてくれるという自分を代弁してくれる人を、期待しているところもあるかもしれません。不思議ですね。自分自身が聞きたいこと、確かめたいこと、あるいは違うと言いたいことがあっても、それを言わないだけではなくて、誰かに言ってもらいたいと思うのは、なぜでしょうか?何かあれば、自分から言えばいいのです。でもそれを言わないというのは、自分の言ったことに責任を取りたくないからなのかもしれませんし、自分が誰かの影に隠れたいというのもあるのではないでしょうか?

 

エルサレムのユダヤ人たちも、それとよく似ています。というのは、彼らも、ヨハネに聞きたいことが、あるのに、また直接ヨハネに尋ねたらそれでいいのに、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、質問させているからです。そこには、エルサレムのユダヤ人たちが、直接ヨハネに関わって、聞いてはいけない、あるいは祭司、レビ人に質問させないといけない、何か理由があるのでしょうか?

 

その鍵となるのが、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司、レビ人をヨハネのもとに遣わしたという中にあります。というのは、ここに出て来るエルサレムから遣わされた祭司、レビ人は、(24)にある通り、ファリサイ派に属する人です。ファリサイ派という意味は「分離した者」という意味です。それは神さまがおっしゃっている決まり、律法を守られない人と、守っている自分たちとを分離しているということから来ているのです。つまり、ファリサイ派の人々にとっては、自分たちは神さまがおっしゃったことをちゃんと守っているから、あるいは神さまが言われたことをその通り実行しているから、神さまに選ばれた者だ!でもそれ以外の人々は、守っていないから、選ばれていない。だからそれらの人々から分離して、自分たちは神さまから特別に守られている者だという、自負心があるのです。

 

その一方で、同じユダヤ教の中に、サドカイ派というエルサレムの神殿の中枢にいた祭司、レビ人もいました。彼らは、サドカイ派と呼ばれていて、エルサレム神殿の権威をかさに、非常な権勢を誇りました。そして彼らが信じ、教えていた内容は、復活はない、死者の復活を決して認めない、という復活の否定でした。でもそういう教えは、ファリサイ派の方々とは、真っ向から対立します。それだけではありません。サドカイ派の方々は、富裕層からの支持が多くあり、一方でファリサイ派は貧しい人々からの支持があり、そしてその人々の中で、神さまの言葉を教え、伝えていました。そういう立ち位置の違いを持つユダヤ教の中で、エルサレムの人々が、荒れ野にいるヨハネのところに、ファリサイ派に属する祭司、レビ人を遣わすのです。

 

それは、ただ、エルサレム神殿という権威と権力が守られ、その中枢で食べるのにも何ら不自由しないで済むところにいたサドカイ派ではなくて、ファリサイ派を遣わしたということだけではなくて、神殿の権力のもとにいたサドカイ派の人々を、エルサレムの人々はヨハネのもとに遣わさなかったということでもあるんです。その要因はいろいろ考えられます。権力の中枢にいる人たちを、守ろうとしたのかもしれません。なぜかというと、1つには、サドカイ派は神殿の中枢にいた人々を、荒れ野という厳しいところに送り出してしまうと、エルサレム神殿での礼拝を守るための、必要ないろいろが十分になされなくなるということと、そもそも中枢にいた人々は荒れ野には行きたくなかったのかもしれません。2つ目には、権力を持つということは、その権力の中枢から離れたくない、離れてしまったら、別の勢力、すなわちファリサイ派になりますが、その人々に、立場を取られてしまうのではないか?という恐れが、サドカイ派には、あったのではないでしょうか?それはサドカイ派だけではなくて、エルサレムの人々にもあったということではないでしょうか?そのために、エルサレムの人々は、中枢にいるサドカイ派ではなく、ファリサイ派を荒れ野に遣わしたということが言えるんです。そういう意味で、権力の中枢にいる人々は、その中枢にい続けようとしますし、周りの人々もそれを支持するのではないでしょうか?

 

ある時、ケアハウスにお住いの方から、戦時中、中国に行かれていたお話を伺う機会がありました。その方のご主人は、政府のかなり立場が上の方だったようで、まだ敗戦の色がそれほど感じられていない時に、日本に帰国されたその理由を、こうお話くださいました。「それは、ある時に、その筋からの情報が、わたくしのところに入ってきました。それは、日本はこの戦争で負けるから、まだ安全な内に、避難して帰国するようにという命令でした。それでわたくしは帰りました。」当時、日本は勝つと言われ続けていましたし、負けるなんていう情報がもれたら大変なことになります。最高機密情報です。もちろん、一般の人々には決して知らされていません。しかし結果として、沢山の一般の方々よりも前に、安全なところに無事に帰ることができたのでした。

 

立場があり、中枢にいる人をまず守る・・・そしてそうではない人々は、そのままにされる・・・それが1つの現実です。でもそれは歴史の中の特別な出来事だけではありません。私たちにとっても、自分を守るということを中心にすれば、それは当然、自分を守るために、ありとあらゆる方法と手段を使おうとするのではないでしょうか?そのためには誰かをスケープゴートのように、使ってしまうことも、その可能性がないとは決して言えないと思います。自分を守るために、誰かを犠牲とまでは言わなくても、誰かを、自分の盾のようにしてしまうことも、あることではないでしょうか?そういうことと同じ構図です。サドカイ派ではなくて、ファリサイ派の人々を、荒れ野にいるヨハネのところに遣わして、質問させていくということは。

 

ということは、エルサレムの人々は、ファリサイ派を、コマのように扱おうとしていたということになるのでしょうか?サドカイ派をエルサレムに残すことで、彼らの復活はない、メシアを否定するということを、ここエルサレム神殿でますます確立しようとしていたのでしょうか?いずれにしても、エルサレムの人々が、サドカイ派の人々も含めて、自分たちの立場を守ることのために、何でもあり的なことをしていたとしても、人々が遣わし、質問させたファリサイ派の人々と、ヨハネとのやり取りを通して、ヨハネはメシア、救い主ではないこと、旧約聖書の預言者であるエリヤでもないこと、「あの預言者」でもないことが、ますます明らかにされていくのです。

 

それに対して、彼らは「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」と、更に問い詰めていくのですが、それまではヨハネに対して、「あなたはどなたですか」から、「だれなのです」に変わっています。緊迫度、緊張感が、それまでとまるで違います。それほど、ヨハネが誰かということを、突き止めなければならないほどになっているのです。でも、ヨハネは、自分が誰かという、彼らの答えさせたい答えには一切触れないのです。であれば、彼らも諦めたらいいのではないでしょうか?なぜ諦めないのでしょうか?それは彼らも、自分たちの立場を守ろうとしていたからではないでしょうか?「わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません」と、何も答えがないままエルサレムに帰ることが、赦されない、何かがあるのです。そんな彼らに、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と答えていくのは、ヨハネに問うている彼ら自身が、まっすぐじゃないからです。曲がっているからです。だからこそ、まっすぐにせよという声になっているのです。そして、このまっすぐにせよの、言葉の意味でもある「まっすぐに案内するために、舟の舵を取りなさい」ということも併せて、彼が声として叫んでいるのは、彼らが、神さまに向かう道がまっすぐじゃないから、曲がっているから、曲がったまま、迷っているからこそ、ヨハネは、まっすぐにせよと、舟の舵をとるように、舵を取り、彼らのその道が、どんなに曲がっていても、どんなに向かう方向が違う道であっても、まっすぐに導くために、そこに導く声となっていくのです。そしてこの声によって神さまに向かって、神さまのもとに、導かれるのです。しかもこの声「主の道をまっすぐにせよ」は、ヨハネの声であると同時に、聖書の言葉、イザヤ書の聖書の言葉である、神さまの言葉なのです。

 

つまり、神さまに向かって、まっすぐになれるのは、ヨハネの言葉ではなくて、神さまの言葉によるということなのです。そしてその言葉を聞いて、そのままを受け入れていく時、その人は神さまに向かっていけるのです。そしてその声は、さらに「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と、答えていくのは、ヨハネが、自分で考えて、決めて水で洗礼を授けるということをしているのではなくて、神さまがお決めになったことを、わたしはしているんだという声なのです。さらには、その水で洗礼を、わたしは、授けるということではあっても、その洗礼そのものの中には、ヨハネではなくて、「あなたがたの知らない方がおられる」ということなのです。

というのは、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」の中にある、「中には」という言葉がありますね。この「中には」という言葉には、真ん中には、とか、中央とか、真ん中のものとして真中に、という意味もあります。そして、その「中には」は、あなたがたを受けて、あなたがたの中には、であると同時に、この「中には」真ん中には、は、洗礼を授ける「水」にもかかっているのです。

 

つまり、ヨハネが、わたしは水で洗礼を授ける、その水には、その水の真ん中に、中央に、あなたがたの知らないお方が堅く立っているということと、同時に、あなたがたの真ん中に、あなたがたの知らないお方がいる、堅くしっかりと立っている、立ち続けているお方がいるということなのです。

 

そのお方が誰か、「わたしの後から来られる方」イエスさまです。つまり、ヨハネが水で洗礼を授けたその水の真ん中にも、またあなたがたの真ん中に、堅くしっかりと立っているお方、イエスさまがいらっしゃるということなのです。

 

そのことを、あなたがたが知らないからこそ、ヨハネは、神さまがおっしゃっている言葉で指し示していくのです。そのために、ユダヤ人たち、祭司、レビ人が用いられていくのです。もちろんその中には、いろいろな動機や背景がありました。人を人として扱わなかったという、大きな間違いもあったことでしょう。それは神さまにまっすぐじゃありません。神さまに向かう道が、神さまに向かわずに、曲がっています。しかし神さまはそういう曲がっていること、いや曲がっていることにも気づいていないことでさえも用いて、あなたを救う救い主、イエスさまが、あなたがたの真ん中におられること、洗礼の水の真ん中におられることを、明らかにされるのです。

 

あるご主人が召されて3年目の同じ日に、奥様が洗礼を受けられました。ただ同じ日に洗礼を受けられるというのではなく、この受洗に導かれた歩みの中に神さまの導きがありました。というのはこの召されたご主人は、昭和33年(1958年)にイエスさまを信じて洗礼を受けておられました。その教会に2年ほど通われたとのことでしたが、それ以降はふっつりと教会生活から遠ざかっておられました。その方が再び礼拝に出席されるようになったのは、洗礼を受けてから50年以上も経ってでした。しかし50年以上の音信不通の時期の中で、再び教会に来られるようになったのは、このご主人が所属しておられた合唱団のメンバーの方が亡くなられ、その方がクリスチャンであられたことで行われた葬儀に参列し、友人として弔辞を語られたことがきっかけでした。50年ぶりに教会に来られ、葬儀という場で御言葉に触れるときが与えられたのでした。そして、その後、亡くなられた友人の奥さんが、また教会に来たらと声をかけ、背中を押してくださったこともあって、教会生活への復帰が実現したのでした。50年ぶりの礼拝に出席され、再びの教会生活が始まり、その翌年の11月29日に天に召されたのでした。そんなめまぐるしいように思われる中で、このご主人は、ご自分が天に召されることを悟ったのでしょうか?召される直前の病床の中で、奥さんにこう託されたのでした。「自分が教会に通えなくなったら、お前が代わりに行ってくれ」その言葉でご主人が召された後も、奥さんは教会に導かれ、洗礼を受けられることになったのでした。

 

一人の人が洗礼を受けられるとき、そこには水があります。その水と共に、その水の真ん中に、信じて洗礼を受ける者は、救われますという御言葉と共にある救い主イエスさまがおられます。そしてその背後には、いろいろな方の言葉があり、つながりがあります。神さまは、その人とのつながりも、人の言葉もすべて用いてくださり、それぞれの真ん中に立ち続けてくださって、一人の人が、イエスさまに出会い、イエスさまを信じて、どんな小さな一歩でも、歩み出せるように、与えて下さる洗礼の水の真ん中に、堅く立っていて下さるのです。そして主の道をまっすぐにせよと、の声の通り、その道を神さまに向かって、どんなに曲がっていても、どんなに向こうを向いていても、神さまに向かって、まっすぐに道を備えてくださるのです。その道に導かれた時、救い主メシア、イエスさまが、私たちに先だって導き、私たちと共に歩んでくださっていること、私たちは、このイエスさまの後ろに従って行けばいいんだということが、分かるのです。

説教要旨(12月17日)