2023年11月26日礼拝 説教要旨

わたしはどこに(ヨハネ18:33~40)

松田聖一牧師

 

16世紀に、イタリアの政治思想家であったマキャベリという方がいます。そのマキャベリの書いた本に「君主論」という著書がありますが、その中にこんな言葉があります。それは「たとえその行為が非難されるようなものでも、もたらした結果さえよければ、それでよいのである」ここから、目的のためには、手段を選ばずという言葉が生まれたと言われています。

 

さて、この「目的のためには、手段を選ばず」は、目的を達成するためには、どんな手段を取ろうとも問題ではない、あるいは結果さえよければ、どんな手段を取ってもいい、どんなことでもやっていいんだ、ということになります。しかし、このことを、本当にその通りにしようとしたら、内容によっては、大変なことにもなるのではないでしょうか?というのは、極端なことを言えば、たとい、誰かを傷つけてしまうことになっても、誰かの命を奪うことになっても、何をやってもいいということになってしまいます。それは、やられる側、される側の立場に立てば、相手がどんなに自分の目的を達成するためであったとしても、される側が傷つけられ、命を奪われることになってしまいますから、とんでもないことです。そんなことが、そのまま通ってしまったら、何もかもが無茶苦茶になって、無秩序な状態になってしまうのではないでしょうか?

 

それと同じことが、イエスさまを取り巻く人々、すなわちユダヤ人にも、大祭司カイアファにも、総督ピラトにも、起きているのです。そして目的のためには手段を選ばずという、その渦の中にお互いに巻き込み、また巻き込まれているんです。では、その目的とは何かというと、イエスさまを罪に定め、イエスさまを十字架刑という死刑にするという目的のために、あるいはその目的を巡って、お互いに手段を選ばず、突き進んでいくのです。

 

そのための裁判が、最初は宗教裁判として、続いて政治的裁判として繰り広げられますが、今日のヨハネによる福音書の聖書箇所も含めて、17章から18章にかけて、その裁判が記されています。この時の裁判は、夜中から朝にかけて夜を徹して行われているのです。夜中に開かれる裁判というのは、どういうことでしょう?なぜ昼間ではないのでしょうか?それは、正式な裁判ではなくて、非合法な、また密室での裁判が夜中の裁判だからです。当然、そこで判決として出される内容も、合法ではありませんから、正式ではありません。しかもその判決には誰も責任を取らないのです。そんな中で、イエスさまを罪に定め、十字架刑に処していくというとんでもない方向へと突き進んでいくのです。そのために、直接引き金を引いた人は、誰かというと、ユダヤ人たちが最初、イエスさまを連れて行った宗教指導者、大祭司カイアファです。しかし、カイアファ自身は表に決して出ないのです。大祭司という宗教指導者でありながら、宗教裁判官として、イエスさまを判断しないのです。それなのに、イエスさまを十字架につけていくという、自分の目的の実現のために、隠れた方法で、ユダヤ人たちを使い、その使われた人たちが、夜中に、イエスさまをカイアファのところに連行して、そこでの宗教裁判で罪に定めようとするのですが、死刑の判決は出すことはできても、刑の執行はできなかったと言えるのです。

 

というのは、宗教裁判での死刑は、石打の公開処刑になります。それは、死んでしまうまで石を投げ続けていくということを、ユダヤ人たちを始め、人々の面前で行うものです。でもその時、イエスさまに対して、イエスさまが救い主ではないか?と考えていたたくさんの人々がいますから、そういう人々もいる中で、石打の刑を本当にしてしまうと、イエスさまを救い主ではないかと従い、慕っていた人々を、大いに怒らせ、不安にさせてしまいます。そしてそういう人々が、今度は自分に立ち向かってくるのではないかということを、カイアファは恐れていますから、自分の立場が危うくなることは避けたいのです。それで、カイアファは、表には出ないで、人々を使い、そしてその人々を向かわせた先が、総督ピラトのところなのです。

 

ところが、ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と、差し戻そうとするのです。それは、ピラトも、政治犯罪人としてイエスさまを処罰したくないからです。ところが、それに対して、ユダヤ人たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」とピラトにまた返していくのですが、このやりとりは、イエスさまをなきものにしたいという目的のために、手段を選ばず、そのために自分たちが、駒のように使われていることすら、気づかないままに、イエスさまをたらいまわしにしています。そういうたらいまわしというのは、見方を変えれば、誰も責任を取ろうとしないこと、責任をなすりつけあっていくことではないでしょうか?それが夜中の裁判なのです。

 

それと似たようなことは、いろんな場面であるように思います。でも、どうしてしてそうしまうのでしょうか?それは自分がその責任を取る事、その責任を負うことに対する恐れがあるからではないでしょうか?

 

電話のオペレーターの方と、何かのことでやり取りした時のことです。こちらが尋ねても、はっきりとした答えを言わないのです。むしろその方から、別の窓口に、ご相談くださいと返って来るのですが、その通りにしても、またその窓口の方は、別の担当者に連絡を取ってくださいと言い、またその担当者の方に聞いても、別の担当に連絡するように、という繰り返しで、答えにならないんです。そういうことが繰り返されていましたので、それでオペレーターの方に「あの~マニュアル通りに答えるようになっているのでしょうが、はっきりと答えが欲しいので、マニュアルではなくて、答えをくださいませんか?」そう申し上げると、相手は、「あの~その~」としどろもどろになっておられるのです。それで「あの~別に、今責めているのではなくて、マニュアル通りの答えではなくて、はっきりと答えていただけないでしょうか?」というのですが、そうするとますます、しどろもどろになって、あのその~としか言えなくなっているのです。「ではオペレーターの立場では答えにくいでしょうから、上司を出してほしい」と伝えて、それで、やっとどうにかなったことがありました。たらいまわしというのは、そういうことです。あっちにこっちに連絡をしても、またそこからあっちにこっちに、となりますので、埒があかないのです。

 

それが、この時、イエスさまを巡ってのユダヤ人、カイアファ、ピラトの姿です。そしてそれぞれがイエスさまを十字架につけるという目的をめぐって、自分の目的を実現するために、手段を選ばずにしようとしているのに、誰もその責任を取りたくないんです。そんな中で、(35)そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。ことに対して、イエスさまは、ピラトに、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と尋ねるのです。

 

ここで、このピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」問いに、イエスさまが、私はユダヤ人の王ではないと答えたら、もうそれで捕らえられることも、処刑されることも、必要なくなりますから、イエスさまは、無罪放免になるのです。ピラトはイエスさまを釈放したかったのでしょうか?けれどもイエスさまは、ピラトのその質問には答えずに、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問い返すのです。ピラトの問いに、ノーと答えたら、無罪放免になるのに、もうこれ以上イエスさまは苦しまなくても良くなるのに、どうしてイエスさまは、答えないのでしょうか?それは、イエスさまが、神さまだからこそ、いくら相手がローマの総督であっても、その人の釈放したい、そのためにはノーと言えばいいという、その言いなりにはならないということなのです。なぜならイエスさまは神さまの救いを実現するために、そこにおられるお方です。神さまの御計画、神さまの目的にイエスさまは、完全に従われるお方です。ですから、いくら総督であっても、また総督のイエスさまを釈放したいという思いがあっても、それはイエスさまにとって、いいことだと総督の側が、判断することであっても、その目的は、神さまの目的、ご計画ではないのです。だからこそ、「お前はユダヤ人の王なのか」という問いに、はいとかいいえとか答えて、ピラトに従うことではなく、イエスさまは、ただ父なる神さまに、従うことです。それがイエスさまがピラトの問いに、答えないということなのです。

 

そして、もう1つのことは、ピラトに対して、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」は、ピラトにとって、イエスさまは王であるか?ユダヤ人の王であるかを、ピラト自身に問い返している問いでもあるのです。というのは、イエスさまに対する、「お前がユダヤ人の王なのか」という問いは、ピラト自身が本当に尋ねたいことなのか?ピラト自身が考え、私はこう思うという自分の考えなのか?人から言われて、頼まれて、イエスさまに言ったのか?ということが、ピラトからはっきり出ていないからです。ということは、誰かから言われて、この問いを問うたのであれば、ピラトの口から出た問いであっても、ピラト自身の問いになっていないのです。見方を変えれば、イエスさまに問う、ピラトであっても、その問いにあるのは、ピラトではなくて、誰かほかの人であり、そこにはピラトはいないのです。自分はどうか?がないのです。そのことを、イエスさまは、ピラト自身に気づかせようとしておられるのです。

 

しかしピラトは、自分がどうか、ということを認めたがらないのです。だから「わたしはユダヤ人なのか」と言い返して、イエスさまが気づかせようとしておられる自分がどうかに、触れようとしないのです。むしろ、ピラトは話をそらそうとして、自分のところに引き渡したユダヤ人を「お前の同胞」と言い、「祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」と、イエスさまがここに引き渡され、連れて来られた理由について、あなたは何をしたのか?と、あくまでも、イエスさまに答えさせようとするのです。

 

それでもなおイエスさまは、ピラトの質問には答えようとしません。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と答えるのは、イエスさまが、ピラトが総督だから、ピラトの言う通りに従う者ではなくて、ピラトをはるかに越えた、神さまであること、そしてすべてのものを治める王であるということを、ピラトの問いに答えないということを通して、現わし、示していくのです。しかも、イエスさまは、自分から私は王だと言うのではなくて、ピラトの「それでは、やはり王なのか」という総督ピラトから出た言葉を用いて、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」とイエスさまが王であるということを、おっしゃられるのですが、この言葉にはもう1つの意味があります。それは「わたしが王なのだが、あなたは自分が言っている意味が、分かって言っているのか」なんです。つまり、ピラトは確かに「やはり王なのか」と答えていながらも、彼自身は、イエスさまが、神さまの真理について証しし、それを具体的に言葉や行いすべてを通して、与え伝えるために、生まれ、そのために世に来た王であるとは、分かって言っているのではないからです。さらには、イエスさまが真理であること、も分かっていないのです。だからイエスさまが真理であるとは何かではなくて、ただ「真理とは何か」で終わっているのです。

 

そんな真理とは何かを求めていく中で、ピラトは、自分が、イエスさまを、またユダヤ人たちを掌握できる総督、何でも自分の言うことを聞いてくれる総督であるところに、立ち続けようとしていくのです。だからこそ、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」自分はイエスさまを釈放するつもりだ、その通りに、あなたたちも思っているのではないか?と言うのです。ところが、彼らは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した、すなわちユダヤ人たちは、総督ピラトに向かって、激しく猛烈に抗議するのです。それでもイエスさまを釈放しようとユダヤ人に呼びかけますが、それもまた完全に否定されてしまうのです。ピラトにとって、自分の思い通りにいかないというだけではなくて、ユダヤ人を治めることができない、自分の言う通りに従わない事実が突き付けられる出来事です。そしてそれは、もはやユダヤを治める総督ではないという、事実も突き付けられたのではないでしょうか?その時ピラトが出会った真理とは、自分の思い通りにはならないこと、自分の無力さです。自分が総督だから、何でもできるということではなくて、自分の立場や力では何にもできないということなのです。そして、この先一体どうなってしまうのか?自分のこと、これからのことを考えれば考えるほど、恐れが自分にはあるという事実ではないでしょうか?

 

しかしイエスさまは、そんなピラト、ユダヤ人たちに、捕えられたという形であっても、ずっと共にいてくださるのです。そしてその共に歩みながら、ピラトとユダヤ人とのやり取りを通して出て来る、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」すなわち罪のないイエスさまが、自分の思い通りにいかないこと、これから先どうなっていくのか分からない恐れの只中を、何の罪も見いだせないと言わしめたイエスさまと、共に過ごしながら、それらのことをはるかに越えて、真理とは何かという問いに、神さまの真理を現し、示し、与えて下さるのです。

 

ケアハウスにおられた方々と共に礼拝をささげていた中で、大正生まれの1人の方がいつも礼拝に来られていました。一緒に讃美しながら、聖書の言葉を共にいただく日が続きました。ある時、その方が、すごく不安になっていました。その不安は、これから私はどうなっていくの?この先どうなるか分からないという不安でした。尋常ではありませんでした。私はこれからどうなっていくの?神さまはどこにおられるの?どっちむいてお祈りしたらいいの?必死になっておられました。その時、イエスさまを信じて、洗礼を受けたら大丈夫ですよ~と申し上げると、すぐに受けたい!ということになり、洗礼の用意もしていませんでしたが、この時を逃してはいけないと思いましたので、職員の方にコップにお水を入れていただいて、その場で、洗礼式となりました。その後、おっしゃったひと言がありました。「心がす~とした!」その後は、私はどうなっていくのか?この先どうなるか分からない、という不安な思いは口から出ることはありませんでした。その直後に、入院されて、もうケアハウスには戻ることができませんでした。その方が、神さまのこと、イエスさまのことを、どれだけ理解しておられたか?それは分かりません。でも礼拝を通して、聖書の御言葉を通して、神さまを信じたい!という思いを神さまが、与えて下さり、自分ではどうにもならない不安も、これから先のことも、後は神さまがしてくださる、その神さまにお任せすればいいという思いへと、神さまが変えて下さったのでした。

 

ピラトは総督でありながら、一人の生身の人間です。これから先の不安、恐れが彼の中に渦巻いていたことでしょう。そして分かっていなくても、それでもイエスさまが、やはり王なのか。そして「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」という言葉も、そのままをイエスさまは受けとってくださり、彼のその言葉を、神さまの真理の言葉へと変えて下さるのです。イエスさまを信じるというのは、そういうことなんですね。分かっていなくても、最後の最後まで、自分の力で何とかできるんじゃないかというところに立ち続けていても、それでも、そのままイエスさまが受け取って下さるんです。そして受け取ってくださったイエスさまの手の中で、神さまの真理が与えられ、確かに、その人も、神さまの真理を受け取っていかれるのです。そういう意味で「真理とは何か」が、問いのままであったかもしれないピラトにも与えられたのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(11月26日)