2023年11月19日礼拝 説教要旨

何を求めて(ヨハネ6:27~35)

松田聖一牧師

 

第二次大戦後からしばらくの間、教会には多くの方々が集いました。そのような出来事が、戦後のキリスト教ブームとも呼ばれています。教会には若い方々で溢れ、礼拝にも多くの方が集いました。洗礼を受けられる方も、一度に10人から20人の方々の洗礼式をあったことが記録に残っている教会もあります。その洗礼式の時、今では考えられませんが、余りにも一度に洗礼を受けられるので、洗礼式を司られる先生にとって、受けられる方々の顔と名前が一致しないこともあったようです。それで、洗礼を受けられる、その時に、誰か分からない方には、あなたのお名前は?と尋ねて、一人一人確認しながら洗礼式がなされたという、今では、想像できないような光景がありました。しかしそんな方々の中には、教会に行けば、食べ物がもらえるということで、教会に来られていた方もありました。このことを、当時の英語の表現でライスクリスチャンと呼ばれていますが、それはどういうことかというと、当時大変な食糧難の中にあり、また日本は占領されていましたので、アメリカの教会などから、たくさんの物資が教会を中心に送られてきたからです。ララ物資と呼ばれるものもそうです。当時は食べる物がないという大変な中で、餓死する人も出ていました。だから生きるためには、何とか食べ物を確保しないといけません。食べるものがなかったら、死んでしまいます。そういう中で、食べ物が教会に行けばもらえるというのは、人々にとっては、いのちの綱だったと思います。そのために教会にたくさんの人が集まりました。その中から、礼拝に出られるようになり、洗礼を受けられた方々が確かにありました。けれども、世の中が落ち着いてくると、食べ物がもらえるから、という目的で、来られていた方々は、次第に来られなくなりました。なぜならそれは、イエスさまを求めていたのではなくて、食べ物を求めていたからです。その必要がなくなった時には、来られなくなったので、そういう意味で、食べ物を求めて教会に集まって来ていた方々のことを、ライスクリスチャンと呼ばれたことでした。

 

それと同じことが、イエスさまを捜し求めてカファルナウムに来られていた人々にもあるのです。というのは、彼らがイエスさまからパンを頂いた場所へ近づいて来たとあるのは、イエスさまを捜し求めていたというよりも、パンを捜し求め、パンを食べてお腹いっぱいになることを求めていたからです。つまり彼らにとってイエスさまは、パンがもらえる、お腹いっぱいにしてくれる、という対象となっているのです。そして、そのパンが与えられたら、それで十分満足です。言い換えれば、彼らにとって、イエスさまに会うよりも、パンがもらえること、パンを食べて満腹して自己満足できるかどうかが中心なのです。

 

だからこそイエスさまは、「あなたがたがわたしを捜しているのは」「パンを食べて満腹したからだ」と、5000人以上の人々に食べ物が与えられた時、お腹いっぱいになったことと同じことが、今この時も、これからも続いてほしい、これからも満腹になりたい!満足したい!だから、わたしを捜しているのではないか?という彼らの中にある動機を、指摘しておられるのです。しかし、それでもなおイエスさまは、パンを食べたい!満腹したい!という自己満足に向かって一生懸命になっている彼らであっても、受け入れておられるのです。彼らは確かにイエスさまを求めていたわけではありません。しかし、イエスさまは、彼らに、お腹いっぱいに食べられることがいけないと言っていません。食べることも、満腹になることも必要だということは、イエスさまも分かっておられるのです。お腹を空かした状態で、何日も過ごしていいとか、飢えたらいい、なんていうことを認めているのでは決してありません。

 

ただ、イエスさまを捜すという目的が、自分たちがお腹いっぱい食べたい、と願う中にある、自己満足を求めていく、その姿に気づかせようとしておられるのです。

 

そんな自己満足というのは、食べ物のことだけではなくて、いろんなところにありますね。自己満足について、次のように説明されています。

 

人間が行動を行った場合に、その行った行動に対して自分自身が満足をするようなもののことを言う。ここで自分自身が満足しているのは、客観的評価に関係なくされているということである。人間が行為を行う場合に、それが自己満足に終わらないように注意を促されている場合がある。たとえばボランティアなどといった活動というのは、それには社会に貢献をするという理念を持った上で行われるということであるが、実際にはそれが自己満足に終わっているという事例が指摘がされていることがある。企業経営においても自己満足というのは非難されている事柄であり、社内において自己満足が蔓延するようなことがあれば、そのことから企業の業績が悪化するということにもなるとのこと。

 

つまり自己満足となる時のポイントは、自分が何かをするという、自分の行いが中心であることと、その行いを客観的に評価するのではなくて、これだけ私がしたのだから・・・評価されて当然だという、自分のしたこと、自分の行いに、うぬぼれているところから来るものなんです。だからボランティアのことが例として紹介されていますが、ボランティアというのは、いいことだ、またそれをする私もいいことをしていると受け取られていますが、しかし、時には、それをされている人自身の中で、わたしはこれだけのことをしました、私は素晴らしいことをしています~という思いで、盛り上がっているだけという場合もあるのではないでしょうか?しかもそういう自己満足が、「いつまでもなくならない」と、ますます自分の行為、これもした、あれもしたということを、追い求めていくのではないでしょうか?

 

つまり、イエスさまの「いつまでもなくならない」という言葉は、そういう自己満足を求めるということが「いつまでもなくならない」という姿も、言葉にしておられるのです。しかし、そのことに対して、イエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われるのは、私はこれもした、あれもしたという自己満足を求め続けることで、「いつまでもなくならない」ものが得られるのではなくて、イエスさまの方から、「いつまでもなくならない」ものを与えて下さるということなのです。

 

それが、永遠の命、神さまと共にある命、神さまと共に生きる命なのです。それは私たちが、これをした、あれをした、という私たちの行為によって、与えられるものではなく、またこれをした、あれをしたということで得られる自己満足によってでもなくて、ただ神さまから与えられるものなのです。

 

その与えられるものを、「食べ物」であるとおっしゃっておられる意味は、食べても、食べても、またお腹がすく食べ物という意味だけではなくて、生きるために毎日必要なものであるという意味で、食べ物とおっしゃっているのです。というのは、イエスさまが、教え与えて下さった主の祈りの中で、「日ごとの糧を与えたまえ」と祈りなさいとおっしゃった、日ごとの糧には、食べ物だけではなくて、生活になくてはならないもの、すべてが含まれているからです。そこにはもちろん食べ物があります。でもそれだけではありません。飲み物もそうです。着るものも、履物も、家も畑、家畜、お金、財産、家族もそうです。そういう身近なものだけではなくて、良い環境もそうです。平和もそうです。健康も、教育も、名誉、友達、信仰の友もそうです。そしてそれらの方々が共に過ごしている国、地域もそうです。そういうもろもろが1つでもかけたら、生きるための糧、食べ物といったものが十分ではなくなります。

 

だからこそ、神さまは私たちが生きるために必要な食べ物、日用の糧を与えて下さるお方なので、そのお方に向かって、「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るんです。そのことを通して、神さまがいつまでも共にいてくださるという神さまに向かい、神さまと繋がっていくのです。それが「永遠の命に至る」ということであり、これこそ、人の子であるイエスさまが「あなたがたに与える食べ物である」なんです。

 

ところが、ただ神さまが与えて下さるとおっしゃっているのに、彼らは「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うのは、神さまの方から食べ物、生きるために必要なものを与えて下さると言われても、いただく為には、自分たちの側で、何かしないといけないということが、まだまだ強く出ているのです。というのは、「何をしたらよいでしょうか」の意味の中に、私たちがやりましょう!私たちがしましょう!と、私たちが神さまからいただく為には、何かを神さまにしないといけない!その思いが先に立っているからなのです。それは「神がお遣わしになった者を信じる」ということにも、彼らの「わたしたちが見てあなたを信じることができるように」にも現れています。具体的には、わたしたちが見て、の、見ること、あなたを信じることにも、私たちの側で見るという行為、私たちの信じるという行為が、まずあってこそ、見ること、信じることが成り立つという言葉なのです。

 

つまり、神さまが遣わされたイエスさまを見ること、信じることも、彼らにとっては、あれも、これもした、という彼らの行為の中の1つとして受け取っているのです。

 

そして「どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」にも、荒れ野でマンナ、パンを食べました、彼らに与えて食べさせたという、食べました、食べさせましたという、先祖も、彼らと同じように、食べましたも、食べさせましたという行為があってこそ、というところに立っているのです。

 

しかし、イエスさまは、私たちが見ることも、イエスさまを信じることも、荒れ野で食べたパンも、また食べさせたパンも、もともとは、神さまが見せてくださり、神さまが、パンを降らせてくださったからこそ、食べられたし、食べさせることができたということではないでしょうか?それによって、荒れ野にいた人々は、生きることができたのです。つまり、人々が食べ、食べさせられたパンも、神さまが与えて下さったのです。人が天から降らせたのではない、人が天から降らせることができるような、何かをしたからでもありません。ただ神さまが与えて下さったのです。その与えられたものを、人々は、ただ受け取っただけなのです。

 

信じるというのは、そういうことなのです。与えられたものを、受け取ることができたので、食べることも、食べさせることもできたのです。それによって、生きることができたということが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」という、この言葉通りになったということなのです。ただそのことを通して、すぐに信じられるようになるかというと、そういうわけではありません。与えられた時には、今、目の前に在るものは見ていますが、それが神さまから与えられたというところには、つながらないことも多いと思います。そうであっても、神さまが与えて下さったものだと、信じられるように、神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである、という約束をそのまま受け取ることができるように、信じられるように、神さまが、信じるということも、私たちに与えて下さるのです。そして、ただ差し出されたものを受け取ることによって、信じるという歩みが始まっていくのです。

 

その時、私たちの口から、「いつもわたしたちにください」と、ください、くださいと言えるようになるのです。これをした、あれをした、から、「ください」と、イエスさまに向かうことができるのです。そして、与えられたものを、ただ手を開いて、受け取るだけでいいのです。

 

ここにおまんじゅうがあります。これをあげますと言われたら、どうされますか?ただほど怖いものはないと思われるかもしれません。あるいは誰かが食べて、大丈夫だということを見ることができたら、それをもらわれるでしょうか?あげますと言われた時、手を結んだままでは、受け取ることはできません。いただくことができるためには、ただ手を開いて、それをいただくだけです。手を開き、心を開いて、神さまからいただくこと、あげようとおっしゃっておられる神さまに、ください、と答えていくこと、これが信じることであり、信仰です。そこから始まります。そして、信じてみようと一歩踏み出すことによって、これからも神さまからたくさんの生きるための糧、いのちのパンが、与えられていること、いのちのパンであるイエスさまが、いつも共にいてくださることに、気づかされていくのです。そのお方と共に歩む時、決して飢えることがなく、決して渇くことがありません。

説教要旨(11月19日)