2023年10月8日礼拝 説教要旨
主の信頼(ルカ17:1~10)
松田聖一牧師
イノシシ、シカ、クマなど、農作物を荒らす動物を捕まえる方法の1つとして、仕掛け罠があります。いろんなタイプがあります。例えば、箱の中に入った途端に、入り口の扉が閉まってしまうものや、大きな動物用には、ドラム缶の形をした大きな罠もあります。その他、北海道のアイヌの方々が使っておられた、罠に引っかかった途端、その獲物に向けて弓が引かれるというものなど、いろんなタイプがあります。それらの罠に共通することは、罠で捕まえた獲物は、やがては殺され、食べものになったり、といったことになります。でもその時、罠に引っかかった動物は、罠の中で必死の抵抗をします。しかし抵抗すればするほど、その罠によって、自分の首が絞められていく罠もあります。その時の動物の力もすごいですから、罠も頑丈につくらないと壊れてしまいます。そんな罠ですが、罠だと分かるのは、罠を仕掛けた側の人間ですね。その一方で、その罠に引っかかってしまう動物は、自分が捕まるとか、殺されてしまうということは全く意識していません。ただその罠の中に、おいしい食べ物があるので、それを自分のものにしたい、食べたいという思いから、罠だとは気づかずに、その罠の中に入ってしまい、ひっかかってしまうのです。
そんな罠を仕掛ける人と、罠に引っかかる動物との関係を見る時、食べたいということでは、お互いに命がけです。罠に引っかかる動物は罠の中にある食べ物を食べたいんです。しかしその罠に引っかかったら、命を失うことになりますから、命がけで必死の抵抗をします。同時に、罠を仕掛ける人にとっても、単に食べたいからだけではなくて、食べ物を食べないと生きてはいけませんから、命がけで罠をしかけています。つまり、罠を仕掛ける人も、罠に引っかかる動物も、それぞれ自分の命を守ろうと、命をかけているということなんです。
イエスさまが避けられないとおっしゃられたつまずきも、それと同じです。というのは、つまずきという言葉の意味は、動物を捕まえるために仕掛けた罠のことですが、それは動物に対してだけではなくて、人に対する罠でもあります。そういう罠を人に対して仕掛ける人も、それに気づかずに罠に引っかかり、捕らえられてしまう人であっても、それぞれ置かれたところで、命をかけ、命に関わる事柄があるのではないでしょうか?というのは、人に対して罠を仕掛けてしまう人自身も、わなを仕掛けるということは、それ自体許されることではありませんが、この人自身も、誰かから罠を懸けられ、その罠にかかってしまい、自分自身の命が脅かされるような出来事があったからではないでしょうか?命が脅かされるような、大きな出来事というのは、体にも、心にも大きな傷となっていると思います。裏切られたということもその1つかもしれません。命が脅かされる、言い換えれば、自分の存在が脅かされる感じた出来事というのは、絆創膏を張って奇麗に治るというものではなくて、一生傷のようになっているのではないでしょうか?そういう目に遭わせた、罠を仕掛けた人に対して、ゆるせないという思いになったと思いますし、その赦せないという思いを、ずっと引きずって、いつか、どこかで仕返しをしたいという怒りと、憎しみと、復讐心に燃えてしまうこともあるのではないでしょうか?それが形を変え、その相手が、自分に罠を懸けたその人でなくても、その相手を変えてでも、誰であってもいいから、仕返しをしたいというものに変わってしまうこともあるんです。
それが復讐の連鎖と言う言葉にあらわされていきます。その結果、復讐、仕返しをすることで、された相手は、また仕返しをするということを、お互いに際限なく続けてしまうだけではなくて、その思いと行動は、仕返しをし、仕返しを、し返すということによって、どんどん大きくなり、関係のない方まで巻き込まれてしまうこともあるんです。
いろいろな事件が報道されますが、時々無差別・・・という呼び方で取り上げられることがありますね。その時、人を傷つけたりしたその人の言葉が、信じられないという思いと共に印象に残ります。「だれでもよかった・・・」何かに恨みや仕返しや、復讐と言うものがあっても、その思いを、当事者同士にではなくて、関係のないところにまで、向けられ、広げてしまう・・・もちろんそれ自体は許されることではありません。しかし、人は、仕返しをしたい、ゆるせないということを持ち続けてしまうと、その復讐の連鎖、報復の連鎖が、その相手やその形を変えてしまうんです。たとい関係のない相手であっても、その連鎖が、際限なくずっと続いてしまうものでもあるんです。
それはある特定の方にだけあるのではありません。誰にでもありうることです。自分にはそれがないとは誰も言い切ることはできません。何かのきっかけですぐにそうなってしまう、弱さを誰もが抱えています。そういう意味では「そのような者は」とイエスさまがおっしゃられる「そのような者」というのは、誰にでも当てはまる者だということを指し示しているのではないでしょうか?だからこそ、その復讐の連鎖、すなわち自分がされたら、自分にした相手に仕返しをするということを、繰り返してしまうというのが、「つまずき」罠であるからこそ、「避けられない」とおっしゃられるんです。
そしてそれを何とかしたいからこそ、「そのような者は、これらの小さい者の1人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」とイエスさまはおっしゃいます。この言葉の中にある、首にひき臼を懸けられて、と言う言葉に注目しましょう。まずひき臼というのは、お餅つきをする時に使う、石臼ではなくて、ひき臼ですから、上下に分かれた2つの石が組み合わさっています。そしてその石と石との間には、たくさんの溝があって、そこに穀物、種ですね。それをひき臼の中に入れると、ひき臼の2つの石の間で、こすりあわされて、粉々に砕かれて粉になって、外に送り出されるものです。ですから例えば、そば粉を作る時にもひき臼が使われます。
先日、エデンの会、婦人会で宮田村を訪ねました。その時に、おいしいお蕎麦屋さんがあるということで、そこに案内いただいて参加された皆さんと一緒に、お蕎麦をいただきました。投じそばというもので、冷たいそばではなくて、温かいお蕎麦でしたが、そのおそばを作られる方が、肩を痛めておられて、土鍋を持つことができないということで、こうおっしゃいました。「どなたか男性でこれを運んでもらえませんか?肩が痛くて・・・」どなたか男性???と言われても、運べそうな男性は、私一人しかいないわけですね。それで台所に入らせていただいて、ガスコンロの上にあった、あっつ~い土鍋を運ばせていただきましたが、普通、お店の台所になんて入れないところですので、恐縮しました。「すみません~台所にまで入らせていただいて・・・」すると、お店のご主人は、「いいいい~入って~これを運んで~」ということで、蕎麦屋さんの台所に入らせていただいて、皆さんが座っておられるテーブルまで運ぶことになりましたが、後からお聞きすると、そばを打たれる方は、肩を壊してしまうんだ~それで肩を壊してしまったら、それで店じまいするんだ~ということを、遠慮なくはっきりとおっしゃっておられました。他にもとうじ籠は特注で作ってもらった~20年使っているとか、いろいろ楽しくお話することができました。そしてとうじそばもおいしくいただくことができましたが、
そばをそばにするためには、そばの実を粉にしないとそば粉には当然なりません。そのそば粉を作るために、そばの実を、昔は、ひき臼でひいて粉にします。じゃあ今はひき臼は売られていないのかというと、ちゃんとアマゾンに出ています。見て見ましたら、御影石で作ったひき臼がいくらいくら~13型とか、小型のものが何種類も出ていました。そんなひき臼は、重たいものです。ですから、それを首に懸けるということは、大変なことです。それで海に投げ込まれるとなると、当然沈みます。浮き上がっては来れません。そのまま沈んでしまいます。
そういう浮き上がって来れない重さのものとして、ひき臼ということなのかというと、ひき臼でなくても、お餅つきに使うような石臼も重たいですから、重りとして、石臼も使えると思います。でもイエスさまは、ひき臼を懸けてとおっしゃられる意味は、そのひき臼を首に懸けての、「懸けられて」と言う言葉の意味から導かれることがあります。それは、首の周りに置かれてとか、首の周りに身に着けて、まとっているという意味です。つまり、首にひき臼を懸けられてという時、仕返しをしたい、怒り、復讐心というものを、ひとたび持ってしまったその人が、ずっと抱えて、身にまとい、ぬぐえないまま、首、頭、体全体に関わるところにまとっている、その赦せないという思いでいる、その周りに、イエスさまは、ひき臼を置いてくださるんです。そして、そのひき臼の中に、ゆるせないでいるその1つ1つ、どんなに小さな種、からし種のようなものであっても、それを全部、私たち自身から引き離してくださり、そのひき臼に入れて下さり、そのひき臼の中で、こなごなに砕いてくださるんです。そばの実であれば、そば粉に、そしてそばに新しく、そしておいしくいただけるおそばに、造り変えて下さると同じく、それまで抱えていたつまずき、ゆるせないという思いを、それを自分自身が背負わされ、周りに置かれていたとしても、イエスさまは、全く新しい、素晴らしいもの、それこそ命を与え、その人を生かすものへと造り変えてくださる、ということでもあるのではないでしょうか?
だからこそ、「赦してやりなさい」とおっしゃられるんです。その兄弟は、誰かは分かりませんが、悔い改めれば、何度でも、7回だけと言う意味ではなくて、何度でも何度でも悔い改めますと言って、あなたのところに来るなら、「赦してやりなさい」とおっしゃっておられるんです。赦しなさい、ではなくて、赦してやりなさい、なんです。ということは、もう既に、イエスさまが、それらのことを赦してくださっているということではないでしょうか?
だから「赦してやりなさい」なんです。しかし、この言葉は、ゆるせないということを身にまとい、またそれが積み重なっている時には、なかなか受け入れられません。どうして赦してやりなさいなのか、信じられないと言ってもいいでしょう。どれほどに赦せない思いを、こなごなに砕いて、全く新しい、素晴らしく、またおいしくいただけるものに造り変えて下さると言われても、ゆるせないという思い、つまずきを背負い続け、身にまとい続けていればいるほど、心のどこかで、それを手放したくない、どこかで仕返しをしたい、復讐ということがむっくりと湧き上がってくるものです。それは自分の力では変えられないものです。どんなにゆるそう、ゆるそうとしても、波があります。気持ちの波や、体調の波と似ています。いい時もあれば、調子の悪い時もあります。
それは弟子たちから、使徒たちと呼ばれた彼らもそうです。使徒たちとは、イエスさまから遣わされた者、派遣された者ということですから、それまでのイエスさまのもとで弟子として、イエスさまから学ぶ者から、今ここでは彼らはイエスさまから遣わされる者になっているんです。学ぶということから、遣わされる者となったとき、当然あちこちに遣わされます。二人組といった形であちこちに遣わされたことでしょう。そんな遣わされた者同士は、お互いに仲良しでイエスさまのところに集まっていたのではない者たちですし、イエスさまが彼らを招き、一緒に歩む歩みへと導いて下さった関係ですから、実際に遣わされる中で、仲良し友達同士ではないからこそ、お互いにぶつかることもあったことでしょう。お互いに水と油のようなこともあったと思います。そして遣わされる中で、彼らへの風当たりも当然ありましたし、人々からいわれのない言葉を浴びせられること、誤解されること、傷つけられることも一度や二度ではなかったのではないでしょうか?そういう中で、ゆるせない、仕返しをしたい、復讐というところにまで、された内容によっては、そこまで行ってしまいそうにもなったことでしょう。そんな自分たちであるからこそ、「わたしどもの信仰を増して下さい」、すなわち私たちの信仰をイエスさま、手渡してください、増し加え、与えてくださいとイエスさまに願うんです。ということは、イエスさまへの信頼、イエスさまの言葉、おっしゃられたことへの信頼、信仰というのは、自分の力で確立できるとか、自分の力で、思いで、増し加えられるというものではなくて、ただイエスさまから与えられるものであるからこそ、与えて下さるイエスさまに、与えてください!手渡して下さい!と願うしかなかったのではないでしょうか?そしてそれを手渡しで下さるという意味は、一度にどさっとではなくて、その都度その都度、少しずつ、時間をかけながら、イエスさまの手の中から、イエスさまの手を通して、与え続けてくださっているのではないでしょうか?
そんな中で、イエスさまからの、からし種1粒ほどの信仰があれば、すなわち、あなたがたたには、からし種1粒ほどの信仰があるのだから、この桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろうという言葉は、信じているのだから、とおっしゃられた方の彼らにとっては、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせと言っても、言うことを聞くというのは、そんなことがあるはずかないと受け止めてしまう内容です。ですから、信仰を増し加えてくださいと願う彼らには、ますます信じられない内容です。でもそんな彼らが信じられないようなことをおっしゃられ、また畑を耕し、羊を飼うことから帰って来た僕に、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言うどころか、むしろ「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではなかろうか。ともおっしゃられるのは、彼らがイエスさまを信じて、従うということの中で、直面する自分たちが信じられないでいたこと、そして自分たちの欲望、自分がしてもらいたいことを、相手が、どんなに畑から帰ってくたくたなのに、その相手のことを思うよりも、夕食の用意を自分のためにしてくれる、自分が食事を済ますまで給仕をしてくれる!と、自分のことばかりを、誰よりも何よりも先に考えて言ってしまう姿、そして相手のことを考えようとしないで、もっともっと要求してしまう、より多くのこと、より大きなことを期待し、求めていくということがあることを、イエスさまは知っておられるからではないでしょうか?そういう意味では、イエスさまから信仰を与えられる信仰を手渡して下さいと、願いながらも、イエスさまが言われたことが、何もかも信じられるとか、自分の欲がなくなるということではなくて、ますます、自分自身が、なかなか信じられないでいること、欲望を持ち続け、その欲望をますます大きくしてしまう者であることに、気づかされていくのではないでしょうか?
それは、自分たちが信じられないと受け取る時、信じているのだからと言われて、おっしゃられるイエスさまからの言葉を、自分たちが受け入れられない、赦せないというつまずきがあるからです。自分の思う通りに人は動いてくれる、自分の思い通り、期待通りにいかないという時、自分の思い通り、期待通りにしてくれないことに対しても、ゆるせないというつまずきがあるからです。そんなゆるせないというものを自分の周りに、それこそ首の周りにおいてしまうことで、何でも自分の思う通りになる、そうさせたいという欲望を結局は、自分で自分を縛ってしまうからです。だから期待が外れると、赦せなくなるんです。
しかし、どんなに期待しても、期待した通りにいかなかったとき、ゆるせないという思いに囚われ、それがどんどん大きくなり、それがどんどん積み重なってしまったとしても、そのゆるせないということを、自分自身の周りに置き続け、やがてはそれで取り囲まれ、身動きが取れなくなってしまったとしても、それでも、私たちの周りに、ひき臼を置いてくださり、そのひき臼に、どんなに赦せないということであっても、自分の思い通りにしたい、思い通りにしてほしいという欲望であっても、そのひき臼に入れて下さり、それを粉々に砕き、全く新しい素晴らしいものへと造り変えてくださるんです。なぜならば、イエスさまは、今は、期待通りに行かないことで赦せないでいる私たちであっても、今は、自分のことしか考えられなくて、相手のことに思いを寄せることができなくても、それでも私たちを信じて、赦して、信頼し続けてくださるお方だからです。
星野富弘さんの「はなきりん」という詩があります。
動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ。私のように動けないものが、動けないでいるのに、忍耐など必要だろうか。そう気づいた時、わたしの体をギリギリに縛りつけていた 忍耐という棘のはえた縄が“フッと”解けたような気がした。
自分が動けないこと、思い通りに動けないことを、赦すことができなかったことでしょう。思い通りに動けないことを忍耐し続けていたことでしょう。自分の期待通りにいかないことを赦せずにいたことでしょう。でも、そういう時も、イエスさまは、信頼し続けてくださっています。あなたがたにはからし種1粒ほどの信仰があるのだから、と。その信頼は変わらないんです。その上で、イエスさまは、つまずきという罠から、ゆるせないという罠から、わたしたちを解き放ってくださいます。そのことを信じられないでいる時にも、そのことを信じられるように、信仰をイエスさまは、わたしたちに与えて下さっています。
祈りましょう。
ジョン・ベイリー朝の祈り 夜の祈りから「神よ、わたしの敵、わたしに害を加えたものを祝福してください。今、このように祈るとき、わたしの心にすきあらば仕返しをしようとねらう思いを、とどめることがありませんように。」